ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十四話〖水平線・二〇二五年 七月十九日 前編〗#創作大賞2025
午前十時に目が覚めた。窓から射しこんだ日差しが、光の筋になって、天井を滑っていく。カーテンに触れると、光の筋が揺らいだ。一昨日、河瀬家を訪れてからは、不思議とぐっすり眠れる。
今日はハツ先生のところに行こうと、目が覚めた瞬間に思い立った。溜まった家事を一つ一つ片付け、海音は午後三時に家を出た。外は夏の盛りで、日光が皮膚をじりじりと焼く。JR札幌駅から、海辺の町に向かう普通列車に乗る。土曜日の午後には、部活帰りの高校生たちが多く乗車していた。彼女の話、教師の話、先輩の話、進路の話。どれもとても眩しくて、もう手が届かないほどに遠い。
海は凪いでいた。鱗のようなさざ波のひとひらひとひらが、午後の金色の太陽光を反射している。午後四時を過ぎていた。喫茶店「潮」のドアをぎいっと開ける。
「いらっしゃい」
ペールブルーの麻の着物に、真っ白い帯を締めたハツ先生が、いつものように真っ赤な口紅を引いて、笑っている。ベリーショートの髪からは今日もハーブの匂いがして、理由もわからずに、涙がこみあげてくる。
「そろそろ来ると思っていたの。座って。いつものブレンドでいい?」
涙を拭って、いつもの席に着こうとし、はっとした。誰かが座っている。皺ひとつない白い半袖のシャツに、上品な紺色のロングスカート姿のその人の髪は、肩の上でふわりと巻かれている。
先客は、産婦人科教授の渡井苑美だった。
「母袋海音さん?」
「渡井教授。どうして……?」
頭が追い付かない。思わず、渡井をじっと見つめた。今日の渡井は、休日モードといった様子で、化粧がいつもより少し控えめだ。
「教授も、このお店をご存じだったのですね」
渡井は、「ええ」と呟いて、カウンターの奥を見つめた。珈琲の支度をしていたハツ先生が、顔を覗かせる。
「あら、お知り合い?」
海音と渡井が同時に頷くと、ハツ先生は驚いた顔をして、それから笑った。ハツ先生が、お盆に三人分の珈琲とスコーンを乗せて歩いてくる。香ばしいバターの香りが漂う。
「苑美はね、高校の時の同級生なの。それから、海音さんは、小学校時代の私の教え子よ」
ハツ先生はお盆をテーブルに置き、扉を開けると、「今日は貸し切りにしましょう」と言って、看板を室内に引き入れた。
「苑美は甘党ですからね。お好みでスコーンにジャムをどうぞ」
ハツ先生は、テーブルにラズベリーのジャムを置いた。
「ありがとう。ハツ」
プライベートでの渡井は、肩の力が抜けていて、柔らかに笑う。
「私たち、高校生の時は教師が大嫌いだったの。カトリックの厳しい女子校だったせいもあるわ。ねえ、苑美」
「ええ。毎日教師たちに反抗ばかりして、目を付けられていたものね」
渡井は、ハツ先生と顔を見合わせて、少女時代に戻ったかのように笑った。
「それが、大人になってみれば、二人とも教員になったのだから、不思議なものだわ」
ハツ先生が、珈琲をすする。つられて海音も珈琲を口に含んだ。いつものように、まろやかで、ほろ苦くて、微かに甘い。渡井が、海音に目線を移す。
「今日は、気遣い無しでいてちょうだいね。教授じゃなくて、渡井でいいわ」
「そ、それでは、今日だけは渡井先生と呼ばせていただきます」
海音が頭を下げようとすると、渡井が海音の肩に触れ、首を横に振った。
「母袋さん。間宮汐里さんのこと、伺ったわ」
海音が沈黙した刹那、窓の外で、海鳥が一声鳴いた。鳥は、海風を受け空へと舞い上がり、悠々と滑空している。
「間宮さんと赤ちゃんを助けてくれて、本当にありがとう」
「あの、渡井先生。間宮さんの産後うつ病は重度だったと、河瀬先生が……」
渡井は、テーブルの腕に両肘を立て、手を組んだ。
「実は、事件の後、間宮さんと面会した精神科の先生とお話したの。私が仲良くさせて頂いている先生でね。間宮さんの産後うつ病は、重度だと仰っていたわ。ご主人が、他の女性と交際をしていて滅多に家に帰らない状態で、間宮さんは、産後間もないころから、家事と育児を一人で背負っていたそうよ」
海音の胸の中で、また傷口が開く。
「やっぱり、間宮さんからの電話の内容は本当だったんですね。私が、最初の電話ですぐに間宮さんだと気づけていれば、こんなことには」
テーブルの上で重ねた手の上に、渡井の手の温かさを感じた。
「後悔する気持ちを持っているのは、あなただけじゃない。まず、私。そして、現場の助産師や看護師、保健師たち、それから、河瀬君も。医療従事者として、間宮さんの病に気づけなかったことを、皆、悔やんでいるわ」
デスクの引き出しにしまったままの、パステルイエローの手紙が思い浮かぶ。
「私、間宮さんから手紙を頂いたんです。四月でした。手紙が届いたのは、最初の電話の前日でした。間宮さんは、その時にはもう限界で、私に気付いてほしかったのかもしれません」
海音は、窓の外の海を眺めた。金色だった海が、徐々に光を失い、鈍色になっていく。
「私、胚培養士の仕事にやりがいを感じていました。受精卵は本当に綺麗で、生命ってなんて美しいんだろうって感動しました。七海ちゃんのことは、受精卵の時から知っています。七海ちゃんは、赤ちゃんを望むご夫婦の元で幸せに生きていけると、疑いもせずに思っていました」
海音は一度言葉を切った。波の音が静寂を埋めていく。綺麗だったのに。七海は、あんなに綺麗な受精卵だったのに。
「七海ちゃんの命を始めたのは私です。命を始めたら、もう絶対に後戻りはできないんです」
渡井とハツ先生が、海音を見つめた。
「今から私が言うことは、奢りでしかありません。でも」
こんなことを考えるなんて、胚培養士失格だろうか。
「七海ちゃんの命を始めたことは、本当に良いことだったのでしょうか」
海音が口を閉じ俯くと、再び波の音が室内に響いた。
「私は医者を三十年やっているけれど、母袋さんの問いへの答えは、今でもわからないわ」
渡井が静かに呟く。海音は、冷めた珈琲を飲み込むと、続けた。
「私という命が仮に望まれていたとして、それでも産まれてきてよかったのか、未だにわかりません。母は、私を産んだ後に、出血が止まらず、亡くなりました。私は、母の顔を知りません。写真も、動画も、日記も、全て父が処分していて、今では母が何を考え感じていたのか、知る手がかりがありません」
海音の隣に座るハツ先生が、心配そうな顔をして、海音を覗き込む。
「大学院で発生学を専攻したのは、自分の『始まり』を知りたいと思ったからです。私が母の胎内にいて、母と共に過ごしていた時、私という生命はどんな姿をしていたのか、どのように育っていったのか。母との時間をなぞるように、発生学にのめり込みました」
海音はそこまで言うと、沈黙して、自分の過去へ思いを馳せた。日が落ちていく。海が、静かに群青色に飲み込まれていく。ハツ先生が、スズランの花の形をしたランプに明かりを灯した。
「大学院修士課程の間、本気で研究をして、気付きました。私は、研究ではなく、患者さんが望む命の始まりに、不妊治療の現場に立ち会いたかったんです。幸せな親子を、この手で作りたかったからです。だから、奨学金をもらって医学部保健学科に入り直して、臨床検査技師の資格を取りました」
ハツ先生がそっと頷いた。
「あなたが小学生の時、一生懸命にカエルの卵を孵そうとしていたのは、お母さまとの時間を取り戻したかったからなのね」
海音は、穏やかに呟くハツ先生の眼に、光るものを見た。ハツ先生が、ハンカチで目尻を拭う。
風が吹く。
凪いでいた海が、ごうごうと鳴る。
その場にいる皆が、それぞれの内側に思いを巡らせた。
どれくらいの時間が経過したのだろう。
沈黙を破ったのは、渡井だった。
「母袋さん。私、あなたのお母さまについて、あなたに話さなければならないことがあるの。ずっと心に抱えてきたわ。本当は、大学の教授室にお招きして、お話をしようと思っていたのだけれど、今日、ここでこうして会えたのだから」
渡井が、背筋を伸ばして、海音の目を覗き込んだ。渡井は、決心したように、テーブルの上で両手を組んだ。
「『母袋』という珍しい苗字が気になって、調べさせていただいたわ。母袋海音さん。あなたは、北都大学病院で産まれたの。そして私は、三十二年前、母袋理恵さんの出産に立ち会っていた。あなたのお母さまの出産にね」
海音は呼吸を止めた。息を吸わなければいけないことを忘れた。
「どういうことですか?」
かろうじて、小さく掠れた声が出た。
「三十二年前、私は初期研修医として、北都大学病院の救命救急センターに配属されていたの。あなたのお母さま、理恵さんが緊急搬送されてきたのは、先輩の先生と私が当直をしていた夜だったわ」
渡井は、海音の母親の最期の話をしようとしているのだ。大丈夫だろうか。自分は、この話題に耐えられるのだろうか。突然の事態に、動悸がする。しかし、海音は渡井から目を逸らすことが出来ない。
渡井は、海音の瞳を真っ直ぐに見つめて、息を吸った。
「お母さまは、予定日よりも二週間前の深夜、ご自宅で突然破水して、搬送されてきたわ。うちが五件目だった。受け入れ先を見つけるのに、とても時間がかかったの」
渡井の表情が険しくなる。破水した海音の母親は、搬送先が決まらずたらい回しにされていたというのか。
「搬送の連絡後、すぐに準備をしたわ。運よく、産婦人科の先生が当直で、お産の体勢を直ちに整えることが出来たの。お母さまは、意識がはっきりしていらっしゃって、お腹の中にいるあなたのことをとても心配していた。研修医だった私は、自分の無力さに気付かされたわ。だから、とにかく駆けずり回って、当時の私にできることを全てした。お母さまの傍についてバイタルを確認したり、看護師や助産師に連絡をしたり、必死で声かけをしたの」
海音は、渡井の言葉を頼りに、必死で母の姿を想像しようとした。しかし、あと少しで描けそうな母の姿を、黄泉の沼から這い出た黒い手が容赦なく攫って行く。
「分娩は順調に進んだわ。お母さまはとても我慢強くて、決して私たちに弱い顔を見せなかった。搬送から四時間後に、あなたが産まれたの。あなたを胸に抱いたお母さまは、嬉しそうに泣いていらしたわ。けれど」
渡井が、一瞬手元に目線を落し、海音を見上げた。渡井の目が、微かに充血している。
「子宮が収縮せず、出血が止まらなかった。病院内の、手が空いている医療スタッフ全員に招集をかけたわ。大量に輸血をし、できるすべての処置をした。けれど夜が明ける少し前に、お母さまの意識はなくなって、それから目を覚ますことはなかった」
渡井は、テーブルの上で両手を握りしめ、震えるように泣いていた。渡井は、誰の手も届かない孤独な暗い部屋の奥で、三十二年の間、独り苦しみ続けてきたように見えた。
もし、受け入れ先の病院がすぐに決まっていたら。もし、破水したのが、夜間ではなかったら。
「お母さまを助けることが出来なくて、本当にごめんなさい」
渡井は、泣きながら深々と頭を下げた。海音は、呆然としながら、肩を震わせる渡井を見た。海音の視界の隅で、ハツ先生がハンカチで目元を押さえる。
外はもう、空も海も真っ暗で見えない。ごうごうという海鳴りで、窓ガラスが振動した。不思議なことに、黒い海は海音を不安にはさせなかった。
「渡井先生」
誰かに操られたように海音は呟いた。
「先生は、どうして救命救急医を辞めて、産婦人科医になられたのですか。どうして医師を続けているのですか」
渡井を責めるつもりはなかった。ただ、どうしても聞きたかった。悲しみに圧倒され、地獄の苦しみを味わいながら、それでも渡井が産婦人科の医師を続ける理由を。ランプの灯かりの下で、渡井の目が涙で光っていた。渡井は、覚悟を決めたように、頭を上げた。
「あなたのお母さまの最後の言葉を、若い医師や助産師、看護師たちに伝え続けるためよ」
「母の最後の言葉……?」
「そうよ。お母さまは、意識を失う直前に仰ったの」
『この子は、最後の、最高の贈り物です』
渡井の声に、聞いたはずもない母の声が重なったように聞こえた。海音は目を伏せた。暫く、夜の海鳴りを三人で何も言わずに聞いていた。
真っ黒な波が、この世の全てを飲み込み、攫い、無に帰そうとする。けれど、あの日生まれた海音の命は、もう前にしか進まない。もし、引き返すことが出来たなら、自分は、羊水の中へ、生まれる前へ戻ることを選ぶだろうか。
——わからない。
「渡井先生」
海音は、混乱した頭のまま、かすれた声を絞り出した。
「母の最期の姿を教えてくださって、ありがとうございました」
テーブルに額が触れるほどに、海音は頭を下げた。顔も声も知らない母が、傍で海音の肩を抱いてくれているような気がした。
渡井の温かい手が、海音の肩に触れた。
「あなたには、胚培養士を続けて欲しい。揺るぎない倫理観を持つあなたに、これからも命の始まりに立ち会い続けて欲しい。いつまでも待っているわ。母袋海音さん」
渡井は、それ以上何も言うことはなかった。渡井が、車の鍵を取り出したが、海音は首を横に振った。渡井の車のエンジン音が遠ざかる。
海音はスマートフォンを確認した。時刻は、午後九時を過ぎていた。
「二階に客間があるの。今夜は泊まって行きなさい」
湯気の立つカモミールティーを差し出すハツ先生に、海音は感謝の言葉を述べた。
ハツ先生が貸してくれた浴衣に身を包み、太陽の匂いがする布団に包まれながら、海音は体を丸めた。波の音が聞こえる。体の中で、穏やかな波が寄せては返すような感覚を覚えた。泣き疲れたせいか、すぐに深い眠りが訪れた。
