ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十五話〖水平線・二〇二五年 七月十九日 後編〗#創作大賞2025
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夢を見た。
海音は、白いガーゼ素材の布に包まれ、温かい腕に抱かれていた。空が、太陽の光が、つい先ほど洗いざらしたようにまっさらで、風が素肌に心地よい。波の音に混じって、優しいハミングが聴こえる。海音は、波打ち際を歩くその人に抱かれていた。海音は波を見下ろした。波は、その人の足に、じゃれるようにまとわりついては引いていく。
その人の体は温かくやわらかで、ミルクのようないい匂いがした。
顔を見上げようとしたが、その人は空の頂上にある太陽を見上げていて、顔を見ることが出来ない。その人のハミングの声色に、ゆっくりと優しく撫でられているようだった。その人が立ち止まったことが、腕の中にいても分かった。海音の体は、そっと砂浜に寝かされた。太陽を浴びた砂が、温かい。
『海音』
その人に頭を優しく撫でられた。少しひんやりとした手だった。海に向かって歩き始めたその人の姿が見える。待って、置いて行かないで。叫びたかったが、声にならない。その人は、ゆっくりと歩を進め、海に入った。太陽が、海面に光の道を作る。その人は、穏やかな足取りで、光の道を進んでいく。
行かないで。
私をひとりにしないで。
その人に手を伸ばす。自分でも驚くほど小さい手を。
体の半分ほどが水に浸かった時、その人が振り返った。
『ママね、海音と一緒には行けないの』
その人は、大輪の花が咲くように笑った。
『海音。ママ、海音のことが世界で一番大好きよ』
*
泣きながら海音が目を覚ますと、窓から朝焼けが見えた。群青色の空が、魔法がかかったように、赤紫色に染め上げられていく。涙を拭って起き上がり、昨日と同じ服に着替える。
ハツ先生を起こさないように、そろりそろりと階段を降り、浜辺に出た。靴を脱ぎ捨て、裸足で波打ち際に向かって歩いた。いつしか、両手を大きく振り、走り出していた。
「ママ。ママに会いたい」
暁の空は、まっさらに晴れていた。空を仰ぎ、風が望むままに髪を弄ばせる。空がドームの形をしていることに気づく。水平線の曲線を見つめる。海は瑠璃色から金色へと変わる。太陽が昇り、海の水面に光の道が出来ていく。夢で見た光景と同じだ。
水際に近づき、歩を進める。朝日の中、水面には白い泡沫がきらめいている。波が足の指にまとわりついては、引く。
「このまま歩いて行けば、ママに会える?」
足首が水に浸かる。夏とはいえ、朝の海は冷たい。海の中へ、羊水の中へ、海音は一心不乱に歩を進める。
『命の始まりに、立ち会いたいんです』
『綺麗だったのに。あんなに綺麗な受精卵だったのに』
『培養士さん、お願いします。どうしても、赤ちゃんが欲しいんです』
記憶の断片が、風に吹き攫われ、空へ昇り、大気の中へ拡散していく。
海鳥が一声鳴いて、風を切った。
「ママ。もういいでしょう?」
目を瞑って、そのまま歩こうとした時だった。
瞼の裏に、樫木萌絵の受精卵の映像が蘇った。
卵子の中で嬉しそうに動きを止めた精子。
仲良く二つ並んだ核。
最初の分裂。
『命は不可逆です。命を始めたら、もう後戻りはできないんです』
はっと目を開く。
一歩踏み出そうとした足を、留める。
——わたしの始まりは? 始まりの姿は、どうだった?
始まりの時、善と悪は、いずれも存在しない。
すべての始まりは、ただ、等しく美しい。
——わたしは、美しい、一個の受精卵だったんだ。
その場に崩れ落ちる。
波が、砂の上でかろうじて突っ張った両手を洗う。指の間に、鮮やかな薄緑色をした藻が絡みつく。
「駄目だ」
——わたしは。
「行っちゃ駄目だ」
——わたしは?
温かな羊水の中へ引き返すことはもう、できないんだ。
どんな苦難の元に生まれついたとしても、ただ前を向いて進むんだ。
幸せを掴むその時まで、生きていくんだ。
全身が震える。食いしばった奥歯がぶつかって鳴る。閉じた目から涙が溢れて止まらない。
形を持たない命たちが、今この瞬間、波間を、空を、漂っている。
受精卵に宿り、生まれる日を、歌いながら夢見ている。
体を起こし、暁の空を仰ぐ。無数の命が、風に乗って海音の頬を撫でては去っていく。命そのものを祝福するように。
——そうだ。
——わたしの使命は。
この世界に生まれたがっているたくさんの命を——
「つなぎ続けることなんだ」
そのまま、仰向けに倒れた。波が、髪を、額を、両手を、海音の全てを、洗っていく。
ざざあ。
ざざあ。
高く広い空と、どこまでも続く海。世界は、丸く閉じている。
「私は、この世界の一要素に過ぎないんだ。いのちは、世界を循環しているんだ」
白波が優しく頭を撫でた。そっと、大切に、存在の全てを肯定して、慈しむように。
「ママ。ありがとう」
海水と涙が、海音の目の中で混じり合った。ぼおっと滲む視界に、光が降る。幾重にも降る。天国はきっと、こういう色をしているのだろう。光が溢れる、綺麗な場所なのだろう。
「海音さん!」
ゆっくりと起き上がると、浴衣姿のハツ先生が、血相を変えて叫びながら走って来るのが見えた。海音は立ち上がり、両手を大きく広げて、空を見上げた。
ハツ先生が濡れたままの海音に飛びつき、きつく抱きしめた。糊のきいた浴衣から、微かに沈香が薫る。
「行かないで、海音さん! ああ、海音!」
ハツ先生の鼓動が、体越しに伝わる。
生きている。自分は今、この世界に生きて存在している。
一度だけではない、幾重にも連なった奇跡に、生かされている。
「ハツ先生。私、胚培養士を続けます」
ハツ先生の目尻を指で拭って、海音は微笑んだ。
生きなければならない。この命は、ママがくれた最後の、最高のギフトなのだから。
