二ヶ領用水最果て探索紀行【後編】:その消失について
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旧川崎堀の流れを伝える石橋供養塔
宿河原取水口から延々歩いてきているわけであるが、現在は川崎市高津区の坂戸一丁目公園にいる。
公園は細長く、絶妙に蛇行しており、ここが水の流れの跡だったのではないか?と、予想させる。

公園の一番隅っこに何度も見てきた川崎歴史ガイドの立て札がある。
石橋供養塔。
一メートル弱くらいの石柱が立っている。

説明によれば、かつて二ヶ領用水川崎堀は大きく蛇行しており、昭和16年に現在の流路へ付け替えられたらしい。それまでここには二子方面に向かう重要な石橋がかけられていた。
さて、石橋供養塔であるが、ところどころ欠けており長い年月が経っていることをうかがわせる。寛政五年(1793年)建立とのこと。
正面には「石橋供養塔」、両脇には「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」の真言が刻まれている。
かつて呑川を歩いた時にも石橋供養塔があり、そちらにも仏教の真言が刻まれていた。石橋供養塔の一つのスタイルなのかもしれない。
それよりも気になるのは、石橋供養塔の陰に隠れるようにして鎮座する、お地蔵様である。こちらもだいぶ風化が進んでいるようだが、建立年と建立者の名前が見える。
昭和7年、海部さと、とある。
とすると、川崎堀が改修される前に作られたものである。
海部さんが何を願ってここにお地蔵様を建てたのかは、解きがたい謎である。が、現代でもこうしてひっそりと残っている。

タワーマンション群を見ながら歩く。
いつのまにやら、高津区を過ぎて中原区に入る。
二ヶ領用水は久地円筒分水で分水されて以来、意外と水量を変えずに頑張って流れている。
途中、謎の分水路があり、地上からは分からないところで、別れたり合流したりしているのかもしれない。

中原区に入ると、二ヶ領用水沿いには遊歩道も整備されており、歩いていて気分が良い。
ドラッグストアの裏手あたりに、水門?を見つける。
そしてそのわきに柵をされた分水路がある。
おそらく井田堀取水口だと思われる。
こうして少しずつ、二ヶ領用水の水は各地に分水され減っているのだろうが、いまのところはっきりとはわからない。

武蔵小杉でさらに細くなる……。
急に大きな町中に出る。
タワーマンション群が立ち並ぶ、武蔵小杉の駅前である。
その近くを二ヶ領用水はひっそりと流れている。
が、ここで二ヶ領用水は大きな分岐を迎える。
渋川への分水である。
ちなみにここにも川崎歴史ガイドの立て札がある。
パッと見たところ、二ヶ領用水の流れの半分以上が、この渋川に流れていく。
現在ではほとんど暗渠になっている二ヶ領用水だが、この渋川は地上を流れているようだ。
かつてはこの水流を利用して水車を動かし、そうめんを作っていたとか。

そんな渋川を横目に、そのまま二ヶ領用水の本流を歩く。
その過半の水量を奪われた?二ヶ領用水は、一層細い水路になる。
そこからも、綱島街道を超えたあたりでまた公園になったりしながら、頑張って流れていくが、ついに中原区刈宿あたりで、数多の線路の下に消えて、そのわきを歩いていくことはできなくなる。
わたしにとって、一度目の二ヶ領用水の消失である。

二ヶ領用水再探索と、二度目の消失。
さて、二ヶ領用水の流れを見失ったわけだが、歩道は線路をまたいで続いていく。御幸跨線橋というらしい。
数多の線路がある。
湘南新宿ライン、横須賀線、相鉄線、その他貨物列車の線路など、無数の線路が見える。
そんな大都会の大動脈の下を、二ヶ領用水はいったんくぐっていく。
そして跨線橋を降りると、もう一度、用水路を見つける。
いよいよ都会のはざまをながれる水路といった、コンクリートで固められた流れになる。

このあたりは幸区の鹿島田という地区らしい。
昭和六年に作られたという大鹿橋のたもとに案内看板がある。
鹿島田という地名の通り、かつては広大な水田がひろがっていた。
それを支えたのが二ヶ領用水であったらしい。
そこからしばらく行くと、「この先行き止まり」という不穏な看板がある。そこで、ついに二ヶ領用水は南武線の下に消える……。

二ヶ領用水、三度目の消失へ。
というわけで、二ヶ領用水最果て探索を終えようと思ったが、地図を改めてみてみると、もう少し水路は続いているようである。
周辺を探索してみると、川崎堀踏切という踏切がある。
大きなマンションが建っており、その陰になった薄暗い通りに小川ほどの水の流れがある。
何だろう?と思って歩いてくと、鯉がたくさんいて吃驚する。
その先に、謎の岩山があり、水が流れ出している。
そして、見慣れた川崎歴史ガイドの立て札が。

「わが国最初の工業用水」。
その説明によれば、ここで二ヶ領用水は町田堀と大師堀に分水されるとのこと。そして、昭和14年、日本最初の公営工業用水として一日に二万七千トンの取水が行われ、1949年まで平間浄水場から臨海部の工業地帯へ供給されたとのことである。
つまり、農業用水としての役割を終えつつあった、二ヶ領用水の新たな用途だったらしい。
鳥居のような建築物があって、これが稲毛川崎二ヶ領用水余剰水取水口だそうだ。
ということは、先ほど見てきたこのマンション脇の水たまりほどの細い流れ。これが暗渠部を除けば、二ヶ領用水のたどりうる最果てなのだ。

宿河原取水口であれほどなみなみと取り入れた水が、こんな小さな流れになるとは……。
ひとり感慨にふけるのであった。
