映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(2026)
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の映画を観てきました。
原作にとことん忠実でありながら、原作とはまったく異なる話に仕立てることで、見事に映画化していると感じました。2時間40分近い上映時間も、最後まですこしもダレることなく緊張感を保ったまま一気に見せてくれます。
原作を読んでいない人でも楽しめる映画であることは、すでに多くの人のレビューで証明されていますね。実際、一緒に観に行った女性(アニメ好き、SF者ではないがパラレルワールドやタイムパラドックスなどのSF概念はわかっている、本作の原作を読むつもりはない、という属性)は、コミカル描写に始終くすくす笑いながら十分に堪能していました。
あの原作がどう料理されたのか、思ったことを書き留めておきます。
▼▼▼ここからは原作のネタバレを気にせず書きます▼▼▼
映画版の第一印象
昨年の夏に『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の予告篇が公開されたとき、それにちなんで以下のような記事を書いています。
3分ほどの予告篇が公開されています。見てみると、ああここは原作のあの場面だな、とわかります。割と原作に沿った内容なのかなという感じです。
この原作はけっこういろいろなエピソードが目白押し。しかも、現在と過去が交互に描かれつつ、記憶喪失の主人公がだんだん記憶を取り戻していく、という話。そのため、映画にするのは脚本に苦労しそうに思えます。
原作者のアンディ・ウィアーはリドリー・スコット監督の『オデッセイ』(2015年)の原作『火星の人』(2014年)で有名になった人。この人の小説の特徴は、ポジティブ主人公のユーモラスな独白で話が進んでいくところ。これはプロジェクト・ヘイル・メアリーも同じです。
映画は小説と違ってキャラクターの内面を直接描くことが原理的に不可能な表現形式ですから、換骨奪胎しないとうまくいきません。小説には小説の、映画には映画ならではおもしろさがあるもの。この映画はどうなりますか。
「この映画はどうなりますか」と書いていますが、「なるほどそう来たか」という感じ。原作はバリバリのハードSFで、『星を継ぐもの』にも通じるミステリタッチ。科学実験を繰り返して謎を解いていくというものでした。映画版はハードSF要素はすべて省略して、ファンタジー、それも一種の動物ものとして描いているのですよね。そのおかげで万人に受ける娯楽映画となっています。
原作の構造
原作はその構造そのものに大きな仕掛けがあって、その緻密さが大きな感動を呼ぶようにできています。
原作は4つのパートに分解できます。4つのパートはそれぞれまったく異なるテーマで書かれていて、ストーリーの方向が何度も大きく変わります。そして全編を貫いているエンジンが、主人公はなぜそこにいるのかという謎です。
Aパート 1~6章
記憶喪失の主人公が見知らぬ部屋で目を覚ますところから始まります。そこがどこで自分が誰なのかもわからない。どうやら科学者であったらしく、科学の知識は持っている。
そこで様々な実験を行って、別の恒星系にいる宇宙船の中にたった一人でいることを突き止めます。
その間に徐々に記憶が戻り、アストロファージという微生物によって太陽活動が減衰していること、対処策を求めてヘイルメアリー計画が始まったことを思い出します。しかし、なぜ自分が宇宙船に乗っているのかは謎のままです。
このままハードSFミステリとして話が進んでいくのだろうと思っていると、ストーリーは急展開します。異星船が登場するのです。「え、これってそういう話だったの!?」という、本作最大の衝撃ポイントです。
Bパート 7章~14章
ここはファーストコンタクトテーマです。まったく異なる環境で進化した異星人とどのように意思疎通をするのか。恒星間宇宙船を建造できる文明なら数学と科学は共通、ということを突破口に、インターネット並の大規模情報バンクにつながったパソコンを使って、徐々にロッキーとのやりとりができるようになっていきます。
ここもハードSF的なアプローチにこだわりながら、ユーモアと楽観主義で自由な会話ができるまでになります。
ファーストコンタクトという言葉はラインスターのSF短編『最初の接触』(1945)が元になっています。これは恒星間航行中に人類史上初めて異星人と出会った宇宙船乗組員が、八方塞がりの窮地をいかにして脱するかを描いたものです。この状況ではどうするのが正解か、という一種のパズル小説で、いってみればトンチによって問題が解決されます。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』ではこのファーストコンタクト問題を完全否定する能天気ぶりで、ロッキーとの交流を果たします。その結果、ロッキーもまたアストロファージ問題を解決するために調査に来ていることが判明します。こうしてグレースとロッキーは協力して調査を行うことになります。
Cパート 15章~23章
ここからバディ物の冒険が始まります。
同時に異星生物の生態をハードSF的に描く異星進化テーマになります。地球とはまったく異なる星で生物が進化したとしたらどのような生物が生まれるか、というテーマのSFは数多くあります。エリディアンの生物学的な特徴や、アストロファージを生んだ生態系が描かれ、それがタウメーバの発見をもたらします。
バディ物としても、エイドリアンでのサンプル採取場面で見せるグレースの勇気や、身を捨てて彼を助けるロッキーの活躍などが描かれます。タウメーバ発見後も2人の四苦八苦はつづきますが、故郷の星を救う手立てが見つかってやれやれというところ。
しかし、ここでグレースに最大の試練が訪れます。徐々に戻ってきていた記憶の最後のピース、なぜ自分がここにいるのかという謎の答えを思い出すのです。
Dパート 24章~終章
ここからは異世界での冒険を経たグレースが人生の意味を問いただす哲学パートになります。ここまでグレースは人類を救うためにアストロファージの調査を行ってきています。Aパートでもう地球には帰れないとわかったとき、記憶はないがたぶん自分は志願したのだろうと考えて、どうせ死ぬならやることやって死のうと決意しています。それは科学的な好奇心が強かったせいもあるし、生来の性格のせいでもあるでしょう。冒険の末にグレースはその使命を達成します。そのタイミングで思い出したのが、自分がヘイルメアリーに強制的に乗せられたという記憶です。
担当の科学者が事故でみんな死んだから代わりにお前が乗れと言われたとき、グレースは、片道飛行の自殺任務なんてぜったいイヤだ、そんなことしたら船を壊してやる、とパニックを起こします。それを思い出したグレースは自分はどうしようもない臆病者なのだと打ちのめされます。
地球に帰るための燃料をロッキーが分けてくれたため、グレースは死を免れます。それで気が晴れるわけではありませんが、とにかく使命を果たした上に死なずにすむ。
ロッキーと別れたグレースはこうして人生の皮肉を噛み締めながら地球への帰路につくのですが、そこでまたしても事件発生。ロッキーとその種族を救うために自分の命を捧げるのかどうか、という最後の選択を迫られることになります。
過去の地球での出来事と現在の宇宙での出来事が並行して語られ、二つのストーリーがクライマックスで一つになったとき、すべての謎が解けると同時に主人公が究極の選択を迫られる、という構成。ハードSFとして科学考証が考え抜かれているのはもちろんですが、ストーリーそのものも同じくらい緻密に組み立てられています。すべての要素がカッチリはまっているという感覚、それ自体が感動を呼ぶのです。
原作を三幕構成で考える
全体として三幕構成になっていると考えてよいでしょう。三幕構成とはストーリーを4等分して、状況設定、対立の拡大、対立の収束、問題解決という4つのパートで構成する手法です。各パートの境目にはストーリーの方向を大きく変える事件が起こり、これを第1ターニングポイント、ミッドポイント、第2ターニングポイントと呼びます。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はこの第1ターニングポイントである「異星船が現れる」というイベントがあまりにも強烈すぎて話題になったわけです。
第1幕にあたるAパートにおいて、ストーリーを通じて主人公が達成すべき目的、すなわちセントラルクエスチョンが提示されます。冒頭で仮設定される主人公の目的は「自分は誰でここはどこなのかを明らかにすること」です。それが達成されたとき、真の目的である「アストロファージの弱点を地球に伝えること」が設定されます。グレースは6章の冒頭で自分の死を受け入れ、どうせならちゃんと使命を果たそう、と決心しています。グレースが真の目的を達成できるのかがセントラルクエスチョンとして明示されます。
その直後に起きるのが異星船との邂逅で、グレースは怒涛の第2幕へと突入します。小説が出版されたとき、ネタバレ厳禁、どんなジャンルの話か言うだけでネタバレになるから何も言えない、と話題になった部分です。
第2幕の前半にあたるBパートは、目的達成のための仲間を集める過程です。『スターウォーズ』でいうとルークがハン・ソロを仲間にしオビワンからフォースを学ぶあたり。Bパートの最後でロッキーも自分の星を救うための調査に来ていることが判明します。これがミッドポイントのイベントになっていて、セントラルクエスチョンが再提示されています。
第2幕の後半にあたるCパートは、対立が激化し、主人公が陥るピンチがどんどん厳しくなっていく過程です。ここで描かれるのはエイドリアンでのサンプル採取です。グレースは船外活動をしながら一歩間違えば命を落とすぎりぎりの冒険をします。なんとかサンプルを採取できたものの、相棒のロッキーは瀕死の状態になってしまい、グレースはたった一人でアストロファージと対決しなくてはならなくなります。
ここに追い打ちをかけるのが、自分はなぜヘイルメアリーに乗っているのかという真相の開示です。これが第2ターニングポイントとなって、主人公は最大のピンチに陥ります。グレースは自分がどうしようもないクズ野郎だと思って絶望するわけです。だからといって使命を放棄するわけではありません。ここまでやってきたのだから使命は最後まで果たす。けれども、自分は救われない、人生なんてこんなものだよねという諦めの気持ちです。
第3幕にあたるDパートは、問題解決にいたる最後のプロセスです。ここではタウメーバの品種改良実験が描かれますが、グレースは惰性で動いているだけです。ロッキーの協力で地球に戻れる算段がついたあとも、喜びに沸き立つことはありません。もしこのまま地球に戻れていたとしたら、ストーリーは尻切れトンボになってしまいます。グレースの内的課題が解決していないからです。外的課題である、アストロファージの脅威から人類を救うという問題はほぼ達成できています。ストーリーが意味を持つためには、グレースの心の問題が解決されなくてはならないのです。
この物語のテーマ
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はグレースの承認の物語だと捉えることができます。グレースは科学者ですが学会を追放され、中学校の教師に身をやつしています。恋人も友達もいません。そうした事柄から逃げつづけていたからです。子供たちに科学を教えるのは悪くはないものの、自分はその程度の人間だと思っている。そしてヘイルメアリー計画に巻き込まれた結果、その程度どころか臆病者のクズ野郎だとわかってしまった。アストロファージ問題の解決策を持って地球に帰還すれば人類を救ったヒーローとして喝采を浴びることになりますが、そんなことではグレースはもっとも重要な自分自身に対する承認、すなわち自己肯定を得られないのです。
そのグレースに最後の選択が突きつけられます。人類の誰よりもかけがえのない友人となったロッキーを助ければ自分は数年で餓死する。地球に戻ることを選べばロッキーは死に、ロッキーが命がけで達成した使命も失敗におわる。
グレースは自分の命を差し出すことを選びます。ヘイルメアリーに乗れと言われたときには必死に抵抗したのに、タウセチでの冒険がグレースを変えたのです。
そして死を選択したグレースは最終的に救われます。ヘイルメアリーがアベマリアの英語読みだという話はさんざん言われています。キリスト教的な解釈をするなら、落ちぶれた小心者の男が、厳しい試練の中で命と引換えに無二の親友を救ったことで、天国に召されて魂が救済される話、と言ってもよいでしょう。ラストでグレースは天界から地球を見下ろしながら、あいつらはあいつらでうまくやっとるようだわい、と思いながら新しく得た居場所で人生に意味を見出すわけです。
映画版と原作の違い
さて、映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はこの原作をどう料理したか。
Cパートであるバディ物の展開に全振りすることにしたわけですね。原作でおおくのSFファンを虜にしたAパートは5分で終わらせています。Bパートのロッキーとの出会いはバディ物が始まるための前提として省略できませんが、本題である意思疎通の過程は5分で終わらせています。Dパートは最後の選択ははずせませんが、それ以外の部分は全部カットされています。最後の選択自体も映画では重要視されていません。
状況説明部分
実際、Aパートを映画で表現することは不可能です。Aパートの事件はすべてグレースの頭の中で起きているからです。小説という表現形式の特徴は自由にキャラクターの内面に入り込めることです。映画はカメラに映るものしか描くことはできません。物が落ちるスピードが速い、計測してみると1.5Gの重力だ、もしかしてここは地球上ではないのか、などということは、ぜったいに映像では表現できないのです。かわりに、ここはどこだろうと窓から覗いたら宇宙空間だった、コンピューターで星図を調べたら画面を延々とスクロールしないと地球が出てこない、地球があったと思ったら12光年も離れている、計算してみたらもう地球には戻れない、というのを説明なしの短いカットの連続で見せることによって、状況説明を5分で終わらせています。
ハードSF描写
原作で大きなウエイトを占めるハードSF描写。これはぜんぶ省略です。原作既読のSF者が見れば非常にリアルな映像表現がされています。たとえばヘイルメアリーのロケット噴射が目に見えないところとかです。エイドリアンに降下したとき、逆噴射の熱で大気が熱せられて光るところなんか、普通の映画ならもっとわかりやすくガスを噴射しろとスポンサーから横槍が入りそうなところです。ハードSF部分については一切語らないけど、映像で表現しておくからわかる奴だけわかれ、というスタンス。いってみれば、刑事物で銃器考証が本格的だけど普通の観客は誰も気づかないという感じです。
地球の状況
地球人類のたどったであろう過酷な運命についても語られません。ストラットは寒冷化による食料不足で20億人くらいが餓死する可能性を語りますが、原作はそんなあまっちょろいものではありません。タウセチまで12光年、アストロファージ動力の亜光速宇宙船でも往復に26年かかる。その間に人類の半数が死ぬと予測されています。しかし、寒冷化の影響が出る前にストラットの独裁で10億人くらいは死ぬでしょう。ヘイルメアリー建造のためにサハラ砂漠に太陽光発電パネルを敷き詰めてアストロファージ培養施設を作ったり、地球温暖化を進めるために南極の氷を200発以上の核爆弾を使って融かしたりしているわけです。環境破壊による影響だけでも相当な死者が出るはずです。
先進国が生き残るために後進国は滅ぼされるでしょうし、先進国間でも戦争が起きるでしょう。ストラットはそうなるだろうとグレースに語っています。グレースをヘイルメアリーに乗せるくだりもそうですが、これはトロッコ問題であり、ストラットは人類種を救うために容赦なくレバーを切り替える覚悟を持っています。
ストラットは人類が滅亡を免れるためにせめて30億人が生き延びられるなら、50億人くらい殺してもかまわないと考えているはずです。その結果として自分が処刑されることになってもかまわないとも考えているでしょう。
映画でのストラットはカラオケを歌ったりしてかなり人間味のあるキャラクターに描かれています。ストラットのキャラクターは原作と大きく異なるところです。映画の方が観客に受け入れやすく、映画が選択した全体のテーマにも沿っていると言えるでしょうね。
映画版での描かれ方
こうした調整によって、人類の深刻な危機を意識させず、科学考証にも意識を向けさせず、ロッキーとの友情物語にフォーカスしています。
異星船が現れてロッキーと出会うまでの流れは映画ならではのもので素晴らしいですね。模型を入れたシリンダーを投げて通信を行う場面です。セリフではなくあくまで映像で見せています。シリンダーをキャッチしたグレースが思わず「やったぞ」とポーズを取るところなど、グレースとロッキーのキャラクターを映像として表現しています。シリンダーを開けたグレースがむせる場面も、科学的な説明はありませんが何が起きたのかは映像から誰でもわかります。一方で意思疎通のための翻訳アプリを作っていくシーンは、翻訳音声をいろいろ試すというコミカルな描写だけにして簡潔にすませています。それでも単語を登録して翻訳アプリを学習させていることは画面からわかります。この単語登録がラストで「勇敢」というワードを強調する小道具になっています。
ロッキーは原作では高度な文明を持つ種族の優秀なエンジニアなわけですが、映画では人語を解するおおきな犬のように扱われていますね。だからこの映画は動物との交流を描いた作品のような側面も持っているわけです。
まあ、確かに説明不足になっている部分や、説明はされているけど速すぎて追いつけない部分とかあるので、映画をちゃんと観る人ほど、原作未読だと消化不良になるところがあると思います。製作者側もたぶんそれは承知の上で、そこは感情曲線の勢いで乗り切ろうとしていますね。そしてそれはおおかた成功しています。
グレースの動機
グレースがヘイルメアリーに乗ることになる理由は映画では明確にされていません。ストラットに強制されるわけですが、どうしてグレースでなければならないのか、釈然としない人もいるでしょう。アストロファージに詳しいもっと優秀な科学者は世界にはたくさんいるはずで、彼らの中には喜んで自殺任務に志願する人も大勢いるはずだからです。
原作では、コールドスリープが成功するためには特定の遺伝子を持っている必要があり、グレースはたまたまその適応者だったという理由が設定されています。アストロファージに関する実績があり、ヘイルメアリー計画に深く関わってきており、数日以内に用意できる代替要員の最適解がグレースだったということです。
映画では単に時間がないから手近にいるグレースが選ばれたという程度の理由になっています。映画としてのストーリーの勢いを削がないために、詳細な理由付けは省略したわけです。グレースが逃げ回って暴れるという原作にはなかった描写が挿入されていることで、かなり聡い観客でなければ映像の力で納得させられるでしょう。
グレースがヘイルメアリー計画に関わろうとした理由は、科学者として返り咲きたいからです。水がなくても生命は発生できるという論文を書いたことでグレースは学会を追われ、科学者としてのキャリアを断たれています。その論文に注目したストラットがやってきたことで希望を持ちますが、アストロファージは水ベースの生物だと判明して打ちのめされます。論文がハズレだったからお前はもう不要だとストラットに言われて、ふたたび科学の道を断たれます。
中学校の教え子たちの未来を守るために何かしたい、というのは本当の理由ではありません。もちろん大人なら誰でもそのような気持ちを抱くでしょう。だからその程度のことがグレースの動機というわけではないのです。グレースはアストロファージに関わりつづけたかった。科学者として認められるチャンスを逃したくなかったのです。
結果としてグレースは自殺任務を強制されますが、そこでロッキーと出会います。ロッキーこそグレースの論文が正しいことの証拠でした。
グレースはアストロファージ問題を解決したことで人類史上もっとも偉大な業績をあげた科学者となります。科学者として復帰したいと願っていたグレースは、これによって満足してしまったのでしょう。グレースは自分の業績がどのように評価されるのかを見ることはありませんが、もうそのことに関心はありません。
グレースは科学者であることをやめ、地球では仕方なくやっていた教師の仕事に新しい生きがいを見つけます。原作のラストはグレースが人類に辟易しているとも受け取れます。いつでも地球に戻れるのに、そうはしません。グレースは別世界で新しい自分を見つけたからです。
グレース個人の観点では、この物語は挫折した科学者が自分の学説の正しさを証明し、ついでに人類を救って、生まれ変わるという話になっているのです。
映画はグレースを原作より弱い人間として描いています。原作のグレースはとことんポジティブで楽観的。地球に戻れないとわかっても、映画版のように自暴自棄になりはしません。動揺することなく、科学者として粛々と仕事を始めます。ほかにも映画では落ち込んだり葛藤したりする場面がちょくちょく出てきます。これもおおくの観客にアピールする部分でしょう。ストラットのキャラクターもそうですが、映画版では人間的興味を重視していますね。
グレースの最後の選択
グレースの最後の選択は原作と違って単に相棒を助けるというものになっています。エイドリアンでのサンプル採取の際、ロッキーは我が身をかえりみずにグレースを助けた。それで危うく死ぬところだった。だから、こんどはグレースがロッキーを助ける番だ、というバディ物お約束展開。それ以上の意味は付与されていません。
原作と異なるのは、ロッキーを助けに行ったからといって、それがグレースの死を意味するわけではないという点です。ロッキーの種族の生態や母星の環境については観客に示されていないためです。ロッキーの世界は高温高圧の真っ暗な惑星で、生物はアンモニアを呼吸し、金属でできた体には水銀の血が流れているのです。
グレースはロッキーの母星にロッキーを送っていくことはできますが、そこで生きていくことはできません。ロッキーの星で手に入る食べ物は何であれ人間には猛毒だからです。アストロファージはいくらでも補給できるので、ロッキーを送ったあとで地球に帰ることもできますが、生きて帰れるだけの食料はありません。だから、グレースはロッキーを助けたら確実に死ぬわけです。
映画ではこのあたりが明確に描かれていないため、たとえ地球に戻れなくなっても友達を助けるグレースの友情に感動、というだけの話になっています。原作を読んでいない人にとっては、ここは釈然としないところかもしれません。どうしてグレースはロッキーの星にとどまるのか、納得のいく理由がないのです。(なお、原作ではロッキーのアイデアでグレースはロッキーの母星でも生きていけるようになります。)
それゆえ、映画のラストシーンはグレースにとっての救済にはなっていません。
グレースが救済されるのは、ロッキーから「君は勇敢だ。僕が出会ってきた人間で一番勇敢だ」と言われたときです。この映画では brave という言葉がキーワードになっています。brave とは、困難に立ち向かっていく勇気のことです。
冴えない臆病者の負け犬が、困難な冒険をとおして友と出会い、仲間のために命を賭すことができる、そんな勇敢な男に成長する話。それがこの映画なのです。
原作はこれほどには友情と勇敢さについてを描いてはいません。原作が描いているのはトロッコ問題に対して主人公がどう行動したのかということです。個人の力をはるかに超えた困難に対してベストを尽くして対処しようと足掻くものの、それでもどうにもならない試練がやってきたとき、その運命にどう対峙したか。
原作においてグレースがロッキーを助ける決断をしたとき、それは単に友情からというような情緒的な理由とは思えません。そこにあるのは損得勘定だったと思います。これはトロッコ問題です。自分の命を支払ったとして十分にペイするかどうか。ロッキーからもらったものとロッキーが失うものとを天秤にかけた結果、ロッキーを助ける方が合理的だと科学者として判断したのです。その判断を実行にうつすだけの勇気を出せるかどうかが問題で、地球では孤独な臆病者だったグレースは友人のためにその勇気を発揮できる人間に成長できていた、というのが原作の物語です。
この映画はどうなっていたか
このように映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は原作と同じテーマで同じ事件を描きながら、映画という表現形式の特性を活かして、まったく異なる物語に仕上げてきています。
原作は、人生に挫折した男がトロッコ問題を突きつけられたときどう行動したかを、ハードSFの皮を被った寓話として描いたものです。
それに対して映画版では、臆病な男が限界状況に追い込まれて勇敢さを発揮する過程を通じて、熱い友情と自己犠牲の物語を描いています。
原作はハードSFの新しいスタンダードとして読みつがれていくことでしょう。
一方、この映画が10年後もSF映画の傑作として語られているかどうかはちょっと疑問です。現実の社会情勢の影響もあって非常におもしろい映画として大ヒットしていますが、全体的に尖ったところがないのですよね。10年たっても語られている『インターステラー』が重厚な文学作品だとしたら、この映画はラノベです。感動した! 号泣した! これこそSF映画の最高傑作だ!! と持ち上げている人がたくさんいますけど、それはちょっと盛りすぎやろ、と正直思います。
ただ、落ち込んだときに観たくなるファンタジー映画の定番として幅広い層に受け入れられていくことはあるかもしれません。
おまけ:『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の次に観るSF映画
今年のSF映画の次のヤマは夏公開予定のスピルバーグ監督『ディスクロージャー・デイ』ですね。予告篇では『未知との遭遇』を『マイノリティ・リポート』っぽくして『激突!』をまぶしたUFO陰謀映画な感じ。この映画はどうなりますか。

