「仮説推論」は美しくない!? ――西周ならアブダクションをどう訳しただろうか
ここ数年、ビジネス書や新規事業、デザイン、イノベーションの文脈で、「アブダクション(Abduction)」という言葉を目にする機会が増えた。演繹、帰納に続く「第三の推論」として紹介されることも多い。
私自身、学生時代には「演繹法」「帰納法」という名前で習った記憶がある。だから最初にアブダクションを知ったとき、「演繹法、帰納法に並ぶ、もう一つの推論法があるのか」と少し興味を惹かれたのである。
ところが、知れば知るほど別のことが気になってきた。
演繹。
帰納。
仮説推論。
……なぜ三つ目だけ、こんなに姿が違うのだろう。
先に結論を言えば、私は今回、「アブダクション(Abduction)」に 「徴推(ちょうすい)」 という二字を仮置きしてみたいと思っている。
なぜ「徴推」なのか。
そこに至るまでを、少し辿ってみたい。
第三の推論、アブダクション
アブダクションという考え方を論理学上の一つの推論形式として発展させたのが、19世紀アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースである。
演繹、帰納、アブダクションの違いは、同じ「雨」の例で考えると分かりやすい。
演繹なら、
「雨が降れば、地面は濡れる」
「いま雨が降っている」
「したがって、地面は濡れる」
となる。一般的な規則と個別の事実から、結論を導く推論である。
帰納なら、
「これまで雨が降った日を何度も観察した」
「そのたびに地面は濡れていた」
「どうやら、雨が降ると地面は濡れるらしい」
となる。複数の観察から、一般的な規則や傾向を導いている。
では、アブダクションはどうか。
朝起きて外を見ると、地面が濡れている。
「地面が濡れている」
「雨が降れば、地面は濡れる」
「では、昨夜雨が降ったのではないか」
観察された結果から、それをうまく説明できそうな仮説を立てる。これがアブダクションである。
もちろん、本当に雨が降ったとは限らない。誰かが水を撒いたのかもしれないし、散水車が通ったのかもしれない。
それでも「もし、こういうことだとしたら?」と考えることで、まだ説明されていない事実に対して、次に検証すべき仮説を生み出すことができる。
私は、ここにアブダクションの面白さがあると思う。
新規事業や商品開発、マーケティングの現場でも、「なぜ、この商品だけ急に売れ始めたのか」「なぜ、想定とは違う使われ方をしているのか」といった、まだ説明のついていない事実に出会うことがある。
そこで、「ひょっとすると顧客は、こちらが想定していたのとは別の価値を感じているのではないか」と仮説を立て、そこから検証へ進む。
アブダクションは単なる当てずっぽうではなく、まだ説明されていない事実から、説明の候補を生み出す推論なのである。
アブダクションには、名前の揺れがある
ここで、少し言葉そのものに目を向けたいと思う。
どうやら Abduction には、日本語で完全に一本化された定訳があるわけではないようだ。
「仮説推論」
「仮説的推論」
「仮説形成」
「遡及推論」
「遡行推論」
など、いくつもの表現が使われているし、そのまま「アブダクション」と呼ばれることも少なくない。
一般向けの解説やビジネスの文脈では、私は「仮説推論」という表現をよく目にするように思う。
ただ、名前が揺れているのは日本語だけではない。
パース自身も、この推論を一貫して一つの名称だけで呼んでいたわけではなく、時期によって hypothesis、retroduction、abduction などの語を使っていたようだ。
そう考えると、そもそもこの推論自体が、一つの名前にきれいに閉じ込めにくいものなのかもしれない。
だから日本語の訳語が揺れていること自体は、それほど不思議ではないだろう。
それでも、私は「仮説推論」という言葉に、どうしても一つ引っかかることがあった。
英語では、三つとも同じ「導く」からできている
Deduction、Induction、Abduction。
この三語が並んだときに妙に収まりがいいのには、理由がある。
三語に共通する duc / duct は、ラテン語の ducere、つまり「導く、連れていく」に由来する。そこに、それぞれ異なる方向を表す接頭辞が付いている。
de-duction
in-duction
ab-duction
厳密には「duction」という独立した一語があるというより、三語が同じ ducere 系の語幹を共有していると考えた方が正確だろう。
それでも、三語の構造がよく似ていることは一目で分かる。
de-
in-
ab-
と接頭辞だけが変わり、根には同じ「導く」がある。
こうして並べてみると、Deduction、Induction、Abduction は最初から一つの系列として見える。
この並びを見て、私はあらためて「なるほど、だから英語ではこんなに収まりがいいのか」と思った。
では、日本語ではどうだろう。
演繹、帰納、そして……仮説推論?
日本語にすると、
演繹
帰納
仮説推論
となる。
……仮説推論?
ここで、どうしても少し引っかかる。
なぜ三つ目だけ、急に説明文のようになってしまうのだろう。
繰り返すが、「仮説推論」という訳が意味的におかしいと言いたいわけではない。むしろ、何をする推論なのかは分かりやすい。
ただ、私が感じた違和感は、もう少し感覚的なものだった。
美しくないのである。
演繹も帰納も、日常生活で頻繁に使われる言葉ではない。いかにも哲学や論理学の専門用語である。
ところが第三項だけ、「仮説+推論」という、意味をそのまま説明した言葉になる。
英語では三語が同じ語族として並んでいるのに、日本語では三つ目だけ語の格が違って見える。
三つの推論形式なのだから、できれば三つとも同じ「術語の格」を持っていてほしい。
そう思って、そもそも「演繹」「帰納」という言葉は、どうしてこれほど見事に二字の漢語へ収まっているのかを調べてみた。
すると、明治の哲学者・西周に行き着いた。
西周なら、どう訳しただろう
西周は、明治日本に西洋哲学や論理学の概念を導入するうえで、大きな役割を果たした人物である。
Deduction と Induction に対して「演繹」「帰納」という近代論理学上の意味を与え、それらを術語として定着させていくうえでも重要な役割を果たした。
ただし、ここは少し丁寧に見ておきたいと思う。
「演繹」「帰納」という漢字の並びそのものを、西周が何もないところから創作したわけではない。これらの語には、中国古典や近世日本に先行する用例がある。
西周がしたことは、既存の漢語を拾い、そこに西洋の新しい哲学概念を載せ直すことだった。
私は、ここがかなり面白いと思った。
新しい概念だからといって、まったく新しい音を持ち込むのではない。すでにある漢字の意味を掘り起こし、その中に新しい思想を住まわせる。
それが西周の翻訳の面白さの一つなのではないか。
「演繹」という字を見てみる。
「演」は、展べる。
「繹」は、糸をたぐるように、順々に意味や理を解き出す。
演繹とは、すでに与えられている前提の中身を展開し、そこに含まれているものを繹き出す、という知性の運動を表しているように見える。
一方の「帰納」は、
「帰」=帰す
「納」=収める
である。
多くの事例を、一つの一般的なものへ帰し、納める。
演繹は展開する。
帰納は収斂する。
こうして二つを並べると、私は、西周は単に英語の辞書的意味を漢字へ置き換えたのではなく、推論するときに知性がどう動くのかを、二字の漢語に凝縮したのではないか、と考えたくなる。
もちろん、これは私なりの読みである。
ただ、そう考えた瞬間、一つの問いが自然に浮かんだ。
では、西周がアブダクションという第三の推論に出会っていたら、どんな二字を与えただろうか。
これは歴史的事実を問うものではない。
あくまで、西周の訳語形成の方法を借りて現代から行う、ちょっとした思考実験である。
中国語の「溯因」
この問いを考えるなかで、現代中国語を見ると、興味深い言葉が見つかった。
「溯因」である。
中国語圏では、Abduction に対して「溯因推理」などの表現が使われている。
「溯」は、流れをさかのぼること。
「因」は、原因・所以。
つまり、
溯因=結果から因へ遡る
ということになる。
これはかなり美しい。
正直に言えば、これを知ったとき、「もう日本語でも『溯因』でいいのではないか」と少し思った。
もっとも、中国語圏でも「溯因」だけに完全に統一されているわけではなく、「反繹推理」「反向推理」など、別の表現も見られる。
やはり Abduction は、中国語にしても一語に収めにくいらしい。
しかも、ここにはもう一つ面白い歴史がある。
「演繹」「帰納」という漢語自体は中国古典にも存在したが、それを近代論理学の術語として整えたのは明治日本だった。その近代的な意味が、中国語圏へ戻っていったのである。
一方、清末中国の思想家・翻訳家である厳復は、deduction / induction を表すために「外籀」「内籀」という別の術語も試みていた。しかし、この二語は現在の一般的な論理学用語としては残らなかった。
訳語は、誰かが一度考えればそのまま定着するものでもないようだ。
漢籍から日本へ。
日本から中国へ。
その途中で別の訳語も生まれ、消えていく。
近代東アジアの哲学語彙は、思っていた以上に行ったり来たりしているのである。
「溯因」は美しい。それでも「因」が気になる
では、日本語でも「溯因」と呼べばよいのではないか。
かなり魅力的な案だと思う。
それでも、何度か眺めているうちに、私はどうしても「因」という字が気になってきた。
日本語で「因」と言えば、かなり強く「原因」を想起する。
しかし、アブダクションによって推されるものは、必ずしも原因だけではない。
異常な天体運動から、未知の惑星の存在を推すかもしれない。観測された現象から、新しい法則や理論を推すかもしれない。顧客の行動から、まだ知られていないニーズを推すこともあるし、ある行為から、その背後にある意図を推すこともある。
アブダクションが生み出すものは、単なる「原因」というよりも、観察された事実を説明しうる、まだ見えていない何かなのである。
そう考えると、「因」へ遡ることそのものよりも、「何を手掛かりにして、まだ見えないものを推すのか」の方に、私は関心が向いていった。
ならば、「どこへ遡るか」ではなく、「何を手掛かりに推すか」を表す漢字を探してみてはどうだろう。
そこから、漢字を一字ずつ追い始めた。
生成AIにも力を借り、漢字を探す
ここからは、少し個人的な話になる。
私は学生時代、大学図書館で『大漢和辞典』を何冊も机に積み、漢文を読みながら、一つの漢字がどのような意味で使われてきたのかを延々と追った経験がある。
ある字を引き、用例をたどり、別の巻を開き、原典を探し、また辞典へ戻る。
そういう作業を私はわりと好きだった。
漢字というものは、現代の辞書に載っている一つ二つの意味だけでは分からない。古い文章のなかで、それがどのような意味で使われ、どの字と結びついているのかを見ていくと、急に違う顔を見せることがある。
今回も、本来なら同じような作業をすればよいのだろう。
ただし、これは漢文学の論文を書くための厳密な考証ではない。「西周ならアブダクションをどう訳しただろうか」という思考実験である。
そこで今回は、急速に進化している生成AIの力をかなり借りることにした。
「西周なら、どのような二字漢語を選びそうか」
「アブダクションの知的な運動を、一字の漢字で表すなら何があるか」
「古典では、その字はどのような意味で使われてきたのか」
そんな問いを生成AIに投げながら、候補となる漢字や熟語を広げていった。さらに、候補となった字について、漢籍での用例や古い意味を探る作業にも力を借りた。
今回、私自身が原典を一つずつ精査したわけではない。ただ、提示された用例や字義を見ながら、「この字は本当にアブダクションの動きを表せるだろうか」と自分なりに咀嚼し、候補を絞っていった。
学生時代には『大漢和辞典』を何冊も机に積み、一つの字を延々と追った。今回はそれとはずいぶん違うやり方である。
生成AIによって探索の範囲を広げ、そこで提示された漢字や用例を手掛かりに、自分なりに意味を考えていく。
論文を書くための考証ではなく、「西周ならどう訳しただろう」という思考実験だからこそ、今回はそんな方法を試してみることにしたのである。
そうして候補に上がったのが、
逆繹、推因、推原、推徴、徴推……
といった言葉だった。
逆繹、推因、推原、推徴……
最初に思いつくのは「逆繹」である。
演繹の逆方向という意味では分かりやすいし、二字で収まりもいい。ただ、少し考えると、「アブダクションとは演繹を逆にしたものだ」という誤解を招きやすい。
そこで、いったん外した。
次に「推因」。
因を推す。
これも分かりやすいが、やはり「原因」に寄りすぎることが気になった。
「推原」という古い漢語もあった。
王充の『論衡』「実知篇」には、「推原往験」「推原事類」といった表現が実際に現れる。
過去の事実や物事の筋をたどりながら、その根本へ考えを進めていく。私はこの「推原」にかなり惹かれた。
ただ、「推原」はアブダクション全体というよりも retroduction、つまり根本へ遡って考える側面を強く表しているようにも感じられた。
さらに「推徴」という語も候補になった。
ただ、「推して徴す」「徴を推し求める」という方向に読めるため、観察された徴から説明へ進むアブダクションとは少し向きが違うように思えた。
ここで、ふと思った。
語順を逆にしたらどうだろう。
徴推。
「徴」とは何か
最初は、「徴候」の徴、くらいの感覚だった。
ところが「徴」という一字を追ってみると、この字には思っていた以上に面白い意味の蓄積があるようだった。
『左伝』昭公八年には、
「君子之言、信而有徴」
という表現がある。
信ずるに足る言葉には「徴」がある。ここでの徴は、証、根拠、しるしである。
そして、先ほど「推原」のところで名前の出た王充の『論衡』「実知篇」をあらためて見ていたとき、少し驚いたことがあった。
私がここまで候補として考えてきた字が、妙に一か所へ集まっているのである。
「由老弱之徴、見敗乱之兆也。婦人之知、尚能推類以見方来」
老弱という「徴」から、敗乱の「兆」を見る。そして「類を推して」これから先を見る。
さらに同じ「実知篇」には、「推原往験」「推原事類」といった表現も現れる。
徴。
兆。
推。
類。
そして、推原。
私がアブダクションの訳語を考えながら、一つずつ候補として拾ってきた字が、二千年近く前の一つの文章のなかに集まっていたのである。
これは、なかなか面白かった。
もちろん、王充がパースのアブダクションを先取りしていた、などと言うつもりはない。
むしろ『論衡』「実知篇」で語られているのは、目の前に現れた徴候から、これから先に起こることを推し量るという方向である。観察された事実から、その事実を説明する仮説を立てるパースのアブダクションとは、厳密には向きが違う。
ただ、
目に見えるものを手掛かりに、まだ見えないものへ思考を渡していく。
その一点には、私はやはり重なるものを感じる。
ここで、「徴」という字が急に面白くなった。
「徴」は、見えている側の字である。その向こうに、まだ見えない何かがある。
症状は病の徴である。
煙は火の徴である。
足跡は、そこを誰かが通った徴である。
異常な観測値は、未知の現象や理論の徴になることもある。
「徴」とは、直接には見えない何かを指し示す、観察されたしるし、と考えることができる。
これはアブダクションの出発点そのものではないか、と思ったのである。
「徴収」の徴ではないのか
ただし、一つ気になることもある。
現代の日本語で「徴」という字を単独で見れば、「徴収」「徴税」「徴兵」「徴用」といった言葉を先に思い浮かべる人もいるだろう。
「徴推(ちょうすい)」という音にも、最初は馴染みがない。
私も、そこは少し気になった。
けれども、「徴」という字の成り立ちを見てみると、少し印象が変わる。
『角川新字源』によれば、旧字の「徵」は、「かすかにものが現れる」という意味を表した字だという。そこから「めしだす」という意味にも用いられるようになったとされる。
つまり、「徴」という字には、もともと「かすかに現れるもの」という感覚があったのである。
「徴候」の徴。
「特徴」の徴。
「象徴」の徴。
とくに「特徴」と言われれば、この字が何かの性質を外に現し、そのものを指し示す働きを持っていることも、少し身近に感じられる。
何かがかすかに現れ、その向こうにあるものを指し示す。
そう考えると、私が感じた、
「徴は、見えている側の字である。その向こうに、まだ見えない何かがある」
という感覚も、単なる後づけではなさそうである。
そして考えてみれば、古い漢語の意味をもう一度掘り起こし、新しい術語に使うということ自体が、西周が「演繹」「帰納」に対して行ったことにも、少し似ているのではないか。
そう考えると、この字の馴染みの薄さは、私にはむしろ面白く思えてきた。
「類推」があるなら、「徴推」もあり得る
もう一つ、語の構造を考えるうえで気になったのが「類推」である。
類推は、「類をもって推す」という構造になっている。
類似性を手掛かりとして、まだ分からないことを推す。
ならば、
徴をもって推す。
それを「徴推」と呼ぶことも、漢語としてそれほど不自然ではないのではないか。
類推は「類」によって推す。
徴推は「徴」によって推す。
こう考えたとき、私のなかでは「徴推」という二字が形を持ち始めた。
単に二字で収まりがいいからではない。
観察された徴を手掛かりに、その背後にある、まだ見えていない説明を推す。その思考の動きが、二字の中に入っているように思えたからである。
Abduction=徴推
ここで、パースのアブダクションをもう一度その構造へ戻してみる。
観察された、少し意外な事実がある。
その事実を「徴」として受け取る。
そして、「もしAなら、この徴はうまく説明できる」と考え、そのAを推す。
つまり、
徴 → 推 → 未見の説明
である。
そこで本稿では、Abduction の試訳として、
徴推(ちょうすい)
を仮置きしてみたい。
定義するなら、
「徴推とは、観察された徴から、その徴を説明しうる未見の事・理を推す推論である。」
もっと短く言えば、
「徴を以て、その所以を推す。」
である。
推論形式そのものを「徴推」と呼び、方法として表現するなら「徴推法」と呼ぶこともできるだろう。
私自身がかつて「演繹法」「帰納法」という名前で学んだ記憶になぞらえるなら、
演繹法・帰納法・徴推法
という並びになる。
これも、なかなか悪くないと思う。
ただ、本稿で提案したい術語の中心は、あくまで
演繹・帰納・徴推
である。
これは「定訳」ではない
もちろん、「徴推」は現在の定訳ではない。
私が調べた範囲では、Abduction を「徴推」と訳した学術的な先例や、論理学上の既存の術語としての用例は確認できなかった。
だからといって、「徴推」という語が歴史上一度も使われたことがない、とまで言うつもりはない。
少なくとも今回の探索では、既存の訳語を発見したのではなく、一つの試訳としてこの二字にたどり着いたのである。
「仮説推論」という既存の表現を否定するつもりもない。
「仮説推論」は、Abduction が何をする推論なのかを分かりやすく説明している。
ただ、
Deduction=演繹
Induction=帰納
Abduction=仮説推論
と並べたとき、私はやはり少し引っかかる。
その違和感から出発し、第三項にも二字の哲学語を与えるとしたらどうなるだろうか。
その問いに対する、今のところの私なりの答えが「徴推」なのである。
哲学語は、少しくらい難しくてもいい
「徴推なんて聞いたことがない。分かりにくい」
そう言われるかもしれない。
それはもっともだと思う。
ただ、「演繹」も「帰納」も、初めて聞いただけで意味が分かる言葉ではない。
私自身も、最初から「演繹」「帰納」という漢字を見て意味が分かったわけではない。定義を学び、その後で二字を一つの概念として覚えたのだ。
ならば、「徴推」もそれでよいのではないか。
少なくとも私は、分かりやすさのために三つ目だけ説明語にするより、少し難しくても、三つが同じ術語の格で並んでいる方に惹かれる。
演繹・帰納・徴推
最初の違和感に戻ろう。
Deduction
Induction
Abduction
三語は、同じ ducere――「導く」に由来する語幹を持ち、それぞれ異なる接頭辞を伴いながら、一つの系列として並んでいる。
ところが日本語では、
演繹
帰納
仮説推論
となる。
三つ目だけ、どこか違う。
その小さな違和感から、西周をたどり、中国語圏の「溯因」を知り、厳復の別の訳語にも出会い、生成AIにもかなり力を借りながら、候補となる漢字の意味を一つずつ考えていった。
そして面白いことに、その過程で拾ってきた「徴」「兆」「推」「類」「推原」といった字は、王充の『論衡』「実知篇」のなかで、すでに一つの場所に集まっていた。
最初から「徴推」という答えがあったわけではない。
逆繹も考えた。
推因も考えた。
推原にはかなり惹かれた。
溯因なら、そのまま使ってもよいのではないかとも思った。
それでも最後に残ったのが、
徴推
だった。
そこで、ひとまず、
Deduction ― 演繹
Induction ― 帰納
Abduction ― 徴推
と置いてみたいと思う。
方法として呼ぶなら、
演繹法・帰納法・徴推法。
「徴推」が唯一の正解だと言うつもりはない。
むしろ、もっとよい二字があるのなら、ぜひ知りたい。
ただ、演繹と帰納に並ぶ第三の推論には、第三の名前があってもいいと思っている。
演繹・帰納・徴推。
今のところ、私はこの三つの並びを気に入っている。
