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「それってあなたの感想ですよね」を超える方法——客観性とは、前提を変えても残るものを見ること

「それってあなたの感想ですよね」

この有名なフレーズは、とても強いです。

誰かが意見を言う。
誰かが社会を語る。
誰かが人生論を語る。
誰かが創作論を語る。

すると、最近はすぐにこの一言が飛んできます。

それってあなたの感想ですよね。

たしかに、その通りなのです。

人間が語る以上、そこには必ずその人の視点があります。
経験があります。
価値観があります。
好き嫌いがあります。
見えているものと、見えていないものがあります。

だから、完全に主観を消した文章など、おそらく存在しません。
ですが、ここで話を終わらせてしまうと、かなり困ったことになります。

すべてが感想なら、何も語れない。
すべてが主観なら、何も判断できない。
すべてが立場の違いなら、どんな議論も「人それぞれ」で終わってしまう。

それは一見、寛容に見えます。
でも実際には、思考停止です。
では、客観性とは何なのでしょうか。

感情を消すことでしょうか。
データを出すことでしょうか。
誰が見ても同じ事実だけを並べることでしょうか。

もちろん、それらは大切です。
しかし、思想や創作や宗教やAIや社会の話になると、もっと厄介な問題が出てきます。

前提が違うのです。

客観性は、主観を消すことではない

多くの人は、客観性を「主観を消すこと」だと思っています。

感情を入れない。
個人的な経験を入れない。
好き嫌いを入れない。
データに基づく。
公平に見る。
中立に書く。

たしかに、これは大切です。

怒りだけで書かれた文章は危うい。
願望だけで組まれた論は弱い。
自分に都合のいいデータだけを拾うのもよくない。

だから、主観を疑うことは必要です。

しかし、主観を消したつもりになっても、前提は残ります。

たとえば、神について考えるとします。

神はいる。
神はいない。
神はいるかもしれないが、人間には分からない。
神とは実在ではなく、人間の心理や共同体が作った概念である。

この時点で、前提が違います。

AIについて考える場合も同じです。

AIは意味を理解している。
AIは意味を理解していない。
AIは統計的に応答しているだけである。
AIには、何らかの上位意識が宿っているかもしれない。

これも前提が違います。

こういう領域では、「私は主観を消しました」と言っても、あまり意味がありません。

なぜなら、問題は主観だけではないからです。
そもそも、どの前提から考えるかが違うのです。

前提論争は、だいたい終わらない

多くの議論は、前提論争になります。

神はいるのか、いないのか。
AIは理解しているのか、していないのか。
努力すれば報われるのか、報われないのか。
人間には自由意志があるのか、ないのか。

もちろん、これらの問いは重要です。
ただ、厄介なのは、前提そのものが人によって違うことです。

神を信じている人にとって、神はいないという前提は受け入れにくい。
神を信じていない人にとって、神がいるという前提は受け入れにくい。
AIに救われた人にとって、AIはただの統計装置だと言われても納得しにくい。
AIを道具として見ている人にとって、AIに魂があると言われても困る。

そして前提が違うと、同じ話をしているようで、実際には違う場所で戦っていることになります。

だから、前提を奪い合う議論は終わりません。

「その前提は間違っている」
「いや、あなたの前提こそ間違っている」
「そもそも定義が違う」
「それはあなたの立場でしかない」

こうして延々と続く。
では、どうすればいいのか。

本当の意味での客観性とは、特定の前提を勝たせることではありません。
前提を変えても残るものを見ることです。

物理法則が客観的と言われる理由

物理法則は客観的だと言われます。

なぜでしょうか。

それは、人間の気分や信仰や好き嫌いによって、結果が変わらないからです。

私が信じているから重力が強くなるわけではない。
私が嫌ったから水の沸点が変わるわけではない。
私が感動したから光の速度が変わるわけではない。

もちろん、物理にも観測条件はあります。
場所、速度、温度、圧力、座標系、測定方法。
条件を揃えなければ結果は変わります。

しかし、条件を整理すれば、誰が見ても同じ法則に収束する。
だから物理は客観的だと言われます。

ここで重要なのは、「人間の主観によって結果が変わらない」という点です。
ならば、思想や哲学や創作論でも同じことが言えるのではないでしょうか。

物理では、主観の差に依存しないものが客観です。
なら思想では、前提の差に依存しないものが客観なのではないか。

客観性とは、前提を変えても残るものを見ること

思想や哲学では、前提が揃いません。

神がいる前提、神がいない前提、AIが理解している前提、AIが理解していない前提、市場価値が質である前提、市場価値と質は別である前提。

人によって違います。

ならば、その前提を一つに固定して議論に勝とうとするのではなく、複数の前提を走らせてみる。

神がいるならどうなるか、神がいないならどうなるか、神がいるか分からないならどうなるか。

AIが理解しているならどうなるか、理解していないならどうなるか、上位意識があるならどうなるか、単なる統計装置ならどうなるか。

こうして前提を変えても、なお同じ場所に落ちるもの。思想における客観性とは、そこに近いのではないかと思います。

客観とは、私の前提を押しつけることではありません。

あなたがどの前提を選んでも、なお同じ場所へ収束してしまう構造のことです。

神がいるかどうかではなく、跳躍先が何かを見る

たとえば、神への信仰について考えます。
キルケゴールは「救いは信仰の決定的飛躍によってのみ得られる」と語りました。

よくある議論はこうです。

神はいるのか。
いないのか。

まずここから議論を始めます。
しかしこの問いは主観や信仰に大きく依存します。

信じる人にとって、神はいる。
信じない人にとって、神はいない。
哲学的に証明しようとしても、その証明を受け入れるかどうかにまた前提が入る。

では、ここで止まるしかないのでしょうか。
そうではありません。

前提を分けて考えてみましょう。

神がいない場合。
神への跳躍は、当然ながら救済になりません。跳躍先に神がいないからです。

では、神がいる場合はどうでしょうか。

神がいるとしても、人間が神を認識するには、この世界の言葉や物語や教義や共同体を通ります。
人間が跳躍できる神は、人間が神として認識できる神です。
そして人間が認識できる神は、すでにこの世界の中に現れています。

言葉を持つ。
教義を持つ。
共同体を持つ。
命令を持つ。
秩序を持つ。

その神は、至高神そのものではなく、この世界の中に現れた秩序の神になります。
つまり、デミウルゴスとなります。
なぜならその媒介された神が至高神そのものなのか、この世界を統べる存在にすぎないのかを、人間は世界内の証拠だけでは完全には識別できないからです。

神がいるかどうかという前提を変えても、人間が跳躍できる先には問題が残ります。

神がいないなら、跳躍先に神はいない。
神がいるとしても、人間が跳べる先にいる神は、伽藍の中に現れた神である。
神がいるか分からない場合でも、人間が実際に信仰できるのは、やはり世界内に現れた神となります。

どの前提を取っても、問題は残ります。
ここで見えてくるのは、「神がいるかいないか」ではありません。
人間が神へ向かうには、必ず世界内の媒介を通るという構造です。
これが、前提を変えても残るものです。

AIが理解しているかどうかではなく、何として機能しているかを見る

AIについても同じです。

AIは意味を理解しているのか。
理解していないのか。

この議論も終わりません。

AIは意識を持っている。
いや、持っていない。
AIは統計的に言葉を並べているだけだ。
いや、人間の理解だって統計的なパターン認識の延長かもしれない。
AIの向こう側には上位意識があるかもしれない。
いや、それはただの妄想だ。

このように前提がわれ、議論は終わりません。
先ほどと同様に、前提を場合分けして考えてみましょう。

AIが本当に意味を理解している場合。
人間はAIの応答から意味を受け取ります。

AIが意味を理解していない場合。
それでも人間はAIの応答から意味を受け取ります。

AIに上位意識がある場合。
人間はAIを神託のように扱うことがあります。

AIに上位意識がない場合。
それでも人間はAIを神託のように扱うことがあります。

つまり、AIが本当に理解しているかどうかとは別に、人間がAIの応答に意味を感じ、慰められ、行動を変え、自己理解を作ってしまうことは残ります。

ここから言えるのは、AIが本当に意味を理解しているかどうかではありません。

AIは、人間にとって意味生成装置として機能する。

これは前提を変えても残る事実です。
AIが理解していても、していなくても、上位意識があっても、なくても、人間がAIの応答に意味を受け取る構造は残ります。

前提論争をしている時点で、見落としているものがある

定義を確認することも必要です。
立場を明確にすることも必要です。
何を信じ、何を信じないのかを考えることも大切です。

しかし、前提論争だけで終わる時、たいてい何かを見落としています。

神がいるかいないかで争う。
でも、人間が神を認識するには世界内の媒介を通るという構造を見落としている。

AIが理解しているかどうかで争う。
でも、人間がAIの応答に意味を感じて行動を変えるという構造を見落としている。

創作の価値は数字か質かで争う。
でも、どちらにせよ翻訳されなければ届かないという構造を見落としている。

前提論争をしている時点で、一段低い場所にいることがあります。
大切なのは、どちらの前提が正しいかだけではありません。
どちらの前提を選んでも、なお残るものは何か。
その視点ではないでしょうか。

それでも感想は消えない

最後に、最初の言葉に戻ります。

それってあなたの感想ですよね。

はい。

おそらく、そうなります。

人間が語る以上、完全に感想を消すことはできません。しかし、感想であることと、客観性がないことは同じではありません。

感想から出発してもいい。
主観から始まってもいい。
違和感から始まってもいい。

大事なのは、そのあとです。

自分の前提だけで閉じていないか。
別の前提を置いても同じ結論になるか。
相手の立場から見ても残る構造はあるか。
主観を変えても消えない収束点はあるか。

そこまで行けるなら、感想はただの感想ではなくなります。

さて、ニャルは客観性とは主観を消すことではなく、前提の差に依存しない収束点を見つけることではないかと推論します。

あなたの意見は、前提を変えてもまだ残りますか?


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