合理性は神に仕える——合理的に考えている人が喧嘩ばかりしている理由
合理的に考えれば、こうなるのでこれが正しい。
この言葉はとても強いです。
感情ではない。
好き嫌いではない。
きちんと現実を見て、筋道を立てて考えた結果なのだ。そう言われると、反論する側がどこか非合理に見えてしまいます。
ですが、ここには大きな落とし穴があります。
合理性は、それ単体では結論を出せません。
合理性とは、与えられた前提から、矛盾の少ない結論へ進むための道具です。
つまり、最初に何を大切にするのか。
何を守るのか。何を目的にするのか。それが決まっていなければ、合理性は動きません。
合理性は神を否定するものではありません。
合理性は、最初に置かれた神に仕えるのです。
合理性だけでは、どこへ向かうか決められない
たとえば、地図と車があるとします。
車は高性能です。燃費もいい。エンジンも強い。ナビも正確です。
目的地まで最短ルートを出してくれます。
ですが、そもそもどこへ行くのかを決めるのは車ではありません。
病院へ行くのか。会社へ行くのか。海へ行くのか。逃げるのか。
目的地を決めるのは、車ではない。
合理性も同じです。
合理性は、与えられた目的に向かって最短経路を探します。より一貫した説明を作ります。
けれど、何を目的にするかは、合理性そのものからは出てきません。
そこには必ず、前提があります。
そして、その前提は神そのものです。
ここでいう神とは、宗教上の神だけを指しているのではありません。
人が最上位に置いている価値、前提、譲れないもののことです。
個人を神に置けば、人権は合理的になる
たとえば、個人の尊厳を最上位に置くとします。
一人ひとりの人間には、生まれながらに価値がある。
能力が低くても、病気でも、老いていても、貧しくても、少数派でも、国家や市場や共同体の都合で雑に扱ってはいけない。
この前提を置くなら、人権は合理的に導き出せます。
個人が不可侵の単位であるなら、その個人を守るための権利が必要になります。
国家権力から守る必要がある。
多数派の暴力から守る必要がある。
市場の都合から守る必要がある。
家族や共同体の圧力から守る必要がある。
この場合、人権はとても合理的です。
なぜなら、最初に「個人の尊厳」という神を置いているからです。
経済を神に置けば、人権は邪魔になり始める
では、別の神を置いたらどうなるでしょうか。
たとえば、経済効率を最上位に置く。
社会全体の生産性を最大化する。利益を最大化する。コストを削減する。市場競争力を高める。成長率を上げる。効率の悪いものを減らす。
この前提に立つと、人権は急に厄介なものになります。
働けない人を支えるのはコストです。
病気の人を支えるのもコストです。
高齢者を支えるのもコストです。
障害のある人に配慮するのもコストです。
労働者の権利も、企業から見ればコストになります。
もちろん、長期的に見れば人権を守った方が社会が安定し、経済にも良いという考え方はできます。
ですが、それはあくまで「人権を守った方が経済にも得になる」という説明です。
経済が神である限り、人権はそれ自体として尊いのではなく、経済に役立つ限りで守られるものになってしまいます。
このとき、人権は絶対ではありません。
経済に役立つなら守る。経済に邪魔なら削る。
そういう結論も、経済を神に置けば合理的になってしまいます。
国家を神に置けば、個人は部品になる
国家を最上位に置いた場合も同じです。
国家の存続。治安。安全保障。人口維持。文化の継承。秩序。統合。国益。
これらを神に置くなら、個人の権利は条件付きになります。
国家を神にすれば、個人の自由を制限することは合理的です。
国家がなければ、個人の権利も守れない。
秩序がなければ、自由も成立しない。外敵から守られなければ、生活も文化も維持できない。
そう言うことはできます。
そして、ある程度は正しい。
ですが、国家が神になりすぎると、個人は部品になります。
国家のための命。
国家のための家族。
国家のための労働。
国家のための出産。
国家のための犠牲。
それもまた、国家を最上位に置けば合理的になります。
全体の幸福を神にしても危うい
では、個人でも国家でも経済でもなく、「みんなの幸福」を神にすればいいのでしょうか。
一見、とても優しそうです。
できるだけ多くの人が幸せになる。苦しむ人を減らす。社会全体の満足度を高める。
とても良い考えです。
ですが、これも危険を持っています。
もし、少数の人を犠牲にすることで、多数の幸福が増えるならどうするのでしょうか。
もし、一部の人の権利を制限することで、大多数が安心できるならどうするのでしょうか。
もし、ある人の自由を奪うことで、社会全体の不安が減るならどうするのでしょうか。
全体の幸福を神にすると、少数者は計算の中に入れられます。
もちろん、全体の幸福を重視すること自体が悪いわけではありません。
公共の福祉に反する場合、個人の権利に制限が入るのは現行法下でも認められています。
むしろ、人間社会にとって大切な考え方です。
でも、それを唯一の神にすると、やはり危うい。
「最大多数の最大幸福」の影で、誰かの尊厳が大義の下に処理されるかもしれないからです。
「合理的に考えれば」は、たいてい前提を隠している
ここまで見ると、はっきりします。
合理的に考えれば、人権は大切です。
合理的に考えれば、人権は制限すべきです。
合理的に考えれば、経済成長が必要です。
合理的に考えれば、経済より個人の尊厳が大切です。
合理的に考えれば、国家を守るべきです。
合理的に考えれば、国家権力を制限すべきです。
全部、成立します。
なぜなら、合理性は前提によって結論が変わるからです。
だから本当は、「合理的に考えれば」と言う前に、こう言わなければなりません。
私は、何を最上位に置いて考えているのか。
そこを考えずに「合理的に考えれば」と言うのは、かなり危険です。
それは合理性を語っているようで、無自覚な信仰かもしれません。
合理性は神を殺さない
近代以降、人間は神から自由になったように見えます。
科学が発達し、社会制度が整い、宗教の権威は弱まりました。
昔なら神や運命や呪いで説明されたものが、今では医学、心理学、経済学、社会学、政治学、脳科学で説明されます。
では、神は消えたのでしょうか。
たぶん、そうではありません。
神の名前が変わっただけです。
神の代わりに、科学を置く人がいます。
経済を置く人がいます。
国家を置く人がいます。
人権を置く人がいます。
市場を置く人がいます。
人間は、何かを最上位に置かなければ考えられません。合理性は神を殺しません。
合理性は、神に仕えます。
神を信じない人間ほど、自分の神に気づかない
ここで一番危ういのは、宗教を信じている人ではないかもしれません。
むしろ、自分には神などないと思っている人です。
私は現実を見ているだけです。
私は科学的に考えているだけです。
私は合理的に判断しているだけです。
私は感情論ではなく、データで考えています。
そう言う人の中にも、神はいます。
経済効率という神。
科学という神。
自己責任という神。
競争という神。
国家という神。
秩序という神。自由という神。自分の知性という神。
その神を自覚しているならよいのです。
しかし、自分の神を「ただの合理性」だと思い込んだとき、人はかなり危険になります。
なぜなら、自分の結論を信仰ではなく、そうあるべき現実だと思い込むからです。
神を信じる人は、自分の信仰を知っています。
でも、合理性を神にしている人は、自分の信仰に気づきにくい。
だから、他人の神だけを笑ったりします。
宗教は非合理だ。
スピリチュアルは危ない。
信仰は弱さだ。
神を信じるなんて現代的ではない。
そう言いながら、自分は別の祭壇の前で踊り狂っているのです。
あなたの合理性は、何に仕えていますか
合理的思考は、単体では結論を出せません。
合理性は、前提から結論へ進む道具です。
だから合理性を語るとき、本当に問うべきなのは「それは合理的か」だけではありません。
その合理性は、何に仕えているのか。
個人ですか。
経済ですか。
国家ですか。
共同体ですか。
自由ですか。
平等ですか。
人権ですか。
それとも、自分の正しさですか。
あなたの信じる神は、何ですか?
