AI時代に求められる一次体験は、体験談ではなくトム・クルーズである
トム・クルーズはデビュー当時、顔がいいだけのアイドル俳優扱いでした。
ハリウッドにおけるジャニーズ系のような立ち位置です。
しかし現代において、彼は映画史における最後のアクションスターとなりました。
そしておそらく、今後彼のようなアクションスターはもう二度と世界に現れません。
なぜなら、彼以外の映画俳優が高度7620メートルからHALOしたり、ブルジュ・ハリファを登ったり、バイクで崖からダイブしたら死んでしまうからです。
そしてこれからの創作環境を生き抜く鍵は、彼のこのクレイジーなトライにあります。
トムが自分で飛び下りている。
これこそが彼の映画の価値の源泉であり、日本国内において洋画の興行収入が低迷する中でも健闘している理由です。
体験談はAIにも書ける
AI時代は一次体験が大切。
自分の経験を書きましょう。
具体的なエピソードを入れましょう。
リアルな失敗談を語りましょう。
あなたにしか書けない体験を出しましょう。
これらの言説は間違ってはいません。
ですが、少し困ったことがあります。
体験談っぽい文章なんて、AIでいくらでも作れるのです。
残高84円の夜。
雨の帰り道。
会社で言われた一言。
副業で失敗した過去。
泣きながら開いたスマホ。
子どもの寝顔を見て反省した夜。
こういう文章は、もうAIでもそれなりに出せます。むしろ、かなり上手に出せます。
だから、「体験談を入れれば人間らしくなる」という考え方は、そろそろ危ない
なぜなら、読者からすると、それが本物の体験談なのか、AIがそれっぽく作った体験談なのか見分けがつきにくくなったからです。
本物の体験談なのか。 AIがそれっぽく組んだ物語なのか。 本人の傷なのか。 マーケティングの素材なのか。
ここが曖昧になった時点で、「体験談」は以前ほど絶対的な証明ではなくなります。
そんなことはない。わたしには違いわかる!
そう思った人もいるかもしれません。
しかしあなたがわかる=みんながわかる、ではないので、それが事実だとしても創作や発信には何も寄与しません。
ですので、これから必要になる一次体験は、単なる経験談ではありません。
もっと身体性に近いものです。
ここでいう身体性とは、その言葉が外れたとき、傷つく本人がそこにいるということです。
トム・クルーズという身体性
映画のアクションは、今やCGでも作れます。
高層ビルから飛ぶ映像。 崖から落ちる映像。 飛行機にしがみつく映像。 爆発の中を走る映像。
映像としては、いくらでも作れる。今後はAIでさらに精巧に速く作れるようになるでしょう。
しかし既に危険なシーンはCGで代用するのが当たり前の時代に、トム・クルーズの映画はなぜみんなに見られるのでしょうか。
動きの派手さで言えば、CGの方が上であるにも関わらず、です。
合理的に考えれば、本人がやる意味はありません。
スタントマンでもいい。CGでもいい。
むしろ安全面を考えれば、本人がやらない方が正しい。それでも本人がやる。だから見るのです。
同じ危険な映像でも、CGで作られたものと、本人が本当にそこに立っていると思えるものでは、受け手の重さが変わる。
フォールアウトでトムがビルからビルに飛び移った直後、飛び跳ねるように走り出したあの有名なシーン。
「あっ? 今足折れた?」
この感覚が、映像に身体性を与えます。
そしてこれは文章でも同じことが起きます。
AI時代に求められる一次体験とは、「私はこんな経験をしました」と語ることではありません。
この言葉が外れたとき、傷つくのは私です。
そういう場所に立つことです。
外れたら自分に返ってくる文章
たとえば、「AI丸投げの冒頭は数秒で離脱される」と書くとします。
これは普通に怖い文章です。
なぜなら、その記事自体が読まれなかったら、自分に返ってくるからです。
「お前の記事も離脱されてるじゃん」
「文章術を語ってそれか」
「AI丸投げ批判して、自分も読まれてないじゃん」
そう言われる可能性がある。
つまり、その文章は自分の首が締まる可能性があります
。
しかし、だからこそ身体が宿る。
「共感が大事です」 「読者目線を意識しましょう」 「自分らしく書きましょう」 「継続が大切です」
こういう言葉は間違っていません。
むしろ正しいです。
ただ、別に外してもあまり傷つきません。
読まれなかったとしても、「まだ途中だから」「人それぞれだから」「継続が大事だから」と逃げられる。
でも、強く言い切る文章は違います。
「これはこうだ」と言う。
「私はこう見た」と言う。
「この構造はこうなっている」と出す。
そして、その判断が外れたら自分が恥をかく。
これが、AI時代の文章における一次体験なのです
AIには、恥をかく身体がない
AIは文章を書けます。
構成もできます。
失敗談も作れます。
泣ける過去も作れます。
弱さの開示もできます。
でも、恥をかく身体がありません。
AIが「AIっぽい文章は読まれません」と書いて、その文章が読まれなかったとしても、AIは傷つきません。
AIが「本当に大切なのは一次体験です」と書いて、その文章が誰にも刺さらなくても、AIは何も失いません。
信用も失わない。 次の仕事も失わない。 名前も傷つかない。 過去の積み上げも崩れない。
しかし人間は違います。
自分の名前で出す。
自分のアカウントで出す。
自分の過去の文章と並べて出す。
自分の信用を賭けて出す。
その文章が外れたら、ちゃんと自分に返ってくる。
これが、人間の文章に残る身体性です。
だから、AI時代の一次体験とは、単に「実際に体験しました」という素材の問題ではありません。
その言葉の責任者が、どこにいるのかにあるのです。
安全な文章は、どんどんAIに近づく
AI時代において、人間の文章がAIに近づいていく最大の理由は、AIを使うからではありません。
傷つかない文章を書こうとするからです。
誰にも嫌われない。
反論されない。
外れても責められない。
強く言い切らない。
自分の立場を出さない。
綺麗な一般論に逃げる。
そうすると、どんどんAIの文章に近づきます。
なぜなら、AIも基本的にはそういう文章を書くからです。
安全で、整っていて、広く当てはまり、誰にも強く刺さらない文章。
それは便利です。 読みやすいです。
でも、すぐに忘れられます。
逆に、人間の文章が人間の文章として残るのは、どこかで危険を引き受けているときです。
怒りを出す。 違和感を出す。 立場を出す。 見たものを出す。 判断を出す。 外れたら自分が傷つく形で言い切る。
つまり、文章に身体を戻す。
トム・クルーズになれ
もちろん、毎日、崖から飛ぶ必要はありません。
毎回、飛行機にしがみつく必要もありません。
ただ、自分の言葉がどこにも返ってこない安全圏から、それっぽい一般論だけを投げ続けていると、いずれAIと見分けがつかなくなります。
トム・クルーズのアクションがCGでは代替しきれないのは、そこに本人の身体を感じるからです。
人間の文章も同じです。
AIがいくらでも体験談を作れる時代に、最後に残る一次体験とは、経験を語ることではありません。
自分の信用を賭けて、言葉の前に立つことです。
外れたら、自分が傷つく。 それでも出す。
それが価値の源泉なのです。
