Hollow Sphere――希望を外注する時代
現代人は、希望を外注するようになった。
そのわかりやすく可視化された姿の一つが推し活である。
かつて、未来は自分の人生の延長線上にあった。
働けば、生活がよくなる。
努力すれば、今より上へ行ける。
家庭を持てば、次の世代へつながる。
会社に入れば、ある程度の安定が得られる。
社会が成長すれば、自分の暮らしも少しずつ良くなる。
もちろん、そんなものは最初から幻想だった、という見方もできる。
実際、すべての人に平等な希望が与えられていたわけではない。
性別、階層、地域、家柄、能力、健康状態によって、未来の見え方は最初から違っていた。
それでも、社会全体にはまだ「自分の行動が未来につながる」という感覚が残っていた。
だが今、その接続はかなり弱くなっている。
働いても豊かになるとは限らない。
努力しても報われるとは限らない。
創作しても、作品が届くとは限らない。
社会が良くなっていくという実感も薄い。
会社に尽くしても、会社はもう生活を保証してくれない。
結婚や子育てのような歴史的営みさえ、多くの人にとって重すぎる選択になった。
いま、多くの人は自分の人生の中に、未来を置きづらくなっている。
では、人は希望なしに生きられるのか。
たぶん、生きられない。
人間は、合理性だけでは立ち続けられない。
どれだけ正しい理屈があっても、そこに未来への接続がなければ、行動は続かない。
希望は、人間を立たせる。
根拠が薄くてもいい。
完全に保証されていなくてもいい。
「可能性がある」と感じられるだけで、人間は動き続けられる。
だからこそ、希望を失った社会では、人間は別の場所に希望を探す。
そのひとつが、推し活だ。
推し活は、ただの消費ではない。
もちろん、グッズを買う、ライブへ行く、投票する、配信を見る、課金する、コメントする。
表面的には消費行動である。
だが、その奥にあるものはもっと深い。
推しが売れる。
推しが上へ行く。
推しが報われる。
推しの夢が叶う。
推しの物語が続く。
そこに、自分の応援が少しだけ関わっている。
これは、現代社会が失わせた「自分の行動が未来に接続される感覚」を、小さく、頻繁に、わかりやすく返してくれる。
仕事では、自分の努力が未来につながる実感が薄い。
社会では、自分の一票や声が何かを変える実感が薄い。
創作では、自分の作品が見られるかどうかさえ分からない。
でも推し活では、確実に数字に反映される。
順位が動く。
売上が動く。
コメントが読まれる。
名前を呼ばれる。
次のライブや企画につながる。
そこには、希望の手触りがある。
だから強い。
だが同時に、ここには非常に危うい構造がある。
それは、自分の未来を取り戻しているのではなく、未来を外部に預けている場合があるからだ。
自分がどこへ行くのか。
自分の人生がどう変わるのか。
自分の努力が何を生むのか。
それを問う代わりに、
推しはどこへ行くのか。
この物語はどこへ向かうのか。
この共同体はどこまで大きくなるのか。
そこに希望を接続する。
これは、信仰に近い。
「主よ、どこへ行かれるのですか」
クオ・ヴァディスという問いは、本来、信仰の問いである。
だが現代的に読むなら、それは自分の未来を自分の内側に持てなくなった人間が、外部の存在に進路を尋ねる言葉でもある。
私はどこへ行くのか、ではない。
主はどこへ行くのか。
推しはどこへ行くのか。
私は、その後を追えるのか。
ここで未来の主語が、自分から外部へ移る。
空洞の球体。
Hollow Sphere。
外側には光がある。
推し。
共同体。
ブランド。
作品。
ランキング。
ライブ。
物語。
宗教的な熱狂。
共有される感情。
それらは、まるで中心に何かがあるかのように輝いている。
人はその周囲を回る。
課金し、応援し、語り、祈り、参加する。
自分の行動が、その球体の未来に接続されていると感じる。
だが、中心に近づいてみると、そこには何があるのか。
本当に自分の未来はあるのか。
それとも、他者の未来に接続している感覚だけがあるのか。
Hollow Sphereとは、未来が外部化された時代の構造である。
自分の人生の内側に未来を保持できなくなった人間が、外部の物語の周囲を回り続ける。
そこには確かに希望がある。熱がある。救いがある。人を動かす力がある。
しかし、その中心は空洞かもしれない。
だがそれでも推し活には意味がある。
推しに救われる人はいる。
作品に支えられる人はいる。
誰かの夢を応援することで、自分も生き延びられる人はいる。
共同体に参加することで、孤独から救われる人もいる。
だから、推し活はただの「搾取」ではない。
失われた未来への希望そのものなのである。
問題は、その希望の所有権がどこにあるかだ。
自分の行動が、自分の成長や作品や生活や人間関係に返ってくるなら、それは希望の回復である。
だが、自分の行動が延々と外部のシステムに吸われ、本人には疲労と出費と一時的な高揚だけが返ってくるなら、それは希望の搾取になる。
推し活は、その境界にある。
愛でもある。
祈りでもある。
参加でもある。
消費でもある。
そして、とても合理的に設計された希望の徴税システムでもある。
なぜなら、希望がある限り人間は立ち続けるからだ。
「あなたの応援が未来につながる」
この言葉は強い。
しかも完全な嘘ではない。
本当に応援が届くこともある。
本当に売上が次の展開につながることもある。
本当に推しの未来が変わることもある。
だからこそ、人は動く。
完全な嘘なら、まだ拒絶できる。
完全な幻想なら、まだ冷められる。
だが「可能性がある」ものは、人を動かし続ける。
希望格差社会では、希望を自前で持てる人間は強い。
自分の仕事に希望を置ける人。
自分の創作に希望を置ける人。
自分の成長に希望を置ける人。
自分の生活や人間関係に未来を接続できる人。
そういう人は、自分の内側に燃料を持っている。
だが、それができない人は、希望を外部から買うことになる。
推しの未来。
共同体の未来。
ブランドの未来。
作品の未来。
自分の手で頼りない言葉を紡ぎ、届くかもわからない『自分の物語』に身を焦がすことは、効率が悪いし、傷つくだけ。
外部の洗練された物語の周囲を回っている方が、遥かに安全で、コスパ良く「未来に参加している実感」が手にはいる。
それは救いではある。
しかし同時に、自分の未来を外注することでもある。
そして外注には維持費がかかる。
それだけの話だ。
たとえ気づいたところで離れられない。離れたところで何もない。
自分の内側に希望を持てない人間が外部の物語を手放した時、世界は果てのない虚無でしかないからだ。
Hollow Sphereの時代とは、希望が消えた時代ではない。
希望が、自分の内側から外部の物語へ移された時代である。
自分の未来ではなく、推しの未来へ。
自分の人生ではなく、外部の物語へ。
自分の成長ではなく、誰かの上昇へ。
その周囲を回りながら、人は今日も問い続けている。
主よ、どこへ行かれるのですか。
推しよ、どこへ行くのですか。
この物語は、どこへ向かうのですか。
私は、その未来にまだ参加できますか。
その問いは、祈りに似ている。
そしてたぶん、現代の多くの消費は、その祈りの形をしている。
神の死んだ世界で、人間は中空の球体を、祈りながら周り続ける。
主の代替物を中心に据えて。
