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#16 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第7章 木蓮(後編)

その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ固まった。
そこは、俺の記憶にある場所だった。
京都にそれほど詳しいわけじゃない俺でも、そこだけは覚えている。

2年前の4月。
大学に入学して二週間目の休みの日だったと思う。
桜の盛りは少し過ぎていて、観光客の流れから少し外れた場所を小春と二人で歩いた。
一人暮らしを始めた小春に初めて会いに行った日だ。

「……なんでそこ?」

そう聞くと、理音はスマホの地図を閉じた。

「ここから近いし。有名でしょ?」
「それだけ?」
「うん。それ以上の意味があるの?」
「いや、そうだな……。観光名所だもんな」

キョウは俺たちを見比べてから、少しだけ肩をすくめた。

「ええんちゃう。時間はまだあるし、御苑ならそこまで遠ない」
「キョウも来る?」
「行くけど、邪魔にならんようについてくわ」
「邪魔って何だよ」
「何でもない。若い子には若い子の空気があるやろ」
「おっさんみたいなこと言うな」
「おっさんやからな」

キョウはそう言って笑った。
俺たちは近くのバス停から京都御苑へ向かった。
バスから降りると、大きな通りの向こうに、広い緑が見える。
門を抜けると、足元の砂利が小さく鳴った。
七月の御苑は、昔来た春の姿とは違っていた。
木々の緑が濃い。
空気は湿っていて、歩くだけでシャツの背中に熱がこもった。
観光客の姿が見える。
散歩をしている人もいる。
木陰のベンチで休んでいる老人、日傘を差した女性。
ここにも、普通の日常があった。
小春がいなくても、木は茂る。
人は歩く。季節は進む。
そんな当たり前のことが、少し腹立たしかった。

「こっち」

理音が自然に歩き出した。
まるで知っている場所のようだった。

「理音、昔ここに来たことあるのか?」
「うん、あるよ」

理音は振り返らずに答えたので表情は見えなかった。
来たことがあるのは理音の記憶なのだろうか。
それとも……。
少し歩くと、理音が緑の茂る木々の前で止まった。
花は咲いていない。
ただ、濃い緑の葉が重なるように広がっているだけだった。
幹は静かで、枝は夏の湿った空気の中に沈んでいる。
名札を見なければ、それが何の木なのかも、俺にはわからなかったかもしれない。
でも、見た瞬間に思い出した。
そこには、白い花があった。
俺の記憶の中では。

四月の午後。少しだけ風が冷たかった。
視線の先には、理音ではなく小春がいた。
小春はその木の前で足を止めて、顔を上げた。白い花が、空の方へ向かって開いていた。
桜みたいに一面に散るわけじゃない。梅みたいに小さく香るわけでもない。
ただ、大きな白い花が、静かに枝先に乗っている。

「木蓮、好きなんだ」

小春はそう言った。

「桜じゃなくて?」
「桜も好きだけど」

小春は少し考えてから続けた。

「木蓮って、咲いてるときだけ急に世界に出てくる感じがするから」
「普段見てないだけじゃないのか」
「そうかも。でも、そういうところも好き」

小春らしい言い方だった。
何かを好きだと言うときにも、すぐに言い切らない。
少し考えて、自分の中の理由を手探りして、それでも結局、好きだと言う。
その日の夜、俺は小春の部屋に泊まった。
たぶん、あの日が境目だった。
付き合っている、という言葉だけでは少し足りなくなった日。
小春の部屋はいつもより少しだけ静かで、窓の外から車の音が遠く聞こえていた。
小春はいつもより少しだけ饒舌で、少しだけ黙るのが下手だった。
髪に触れたとき、なぜか昼間見た木蓮の白さを思い出した。
その記憶を、俺は今の今までずっとしまい込んでいた。
大切だったから、ではないだろう。
思い出すと、自分が取り返しのつかないことをしたことを、強く認識させるからだ。

「木蓮」

理音が、木を見上げたまま言った。

「小春、好きだったよね」
「……ああ」

風が吹いた。
葉がこすれ合って、乾いた音を立てる。
花は咲いていない。
木蓮はもう、とっくに終わっている季節だ。
なのに理音は、そこに白い花が見えているみたいな顔をしていた。

「モクって」

理音がぽつりと言った。

「これからとったんでしょ」

俺は言葉を失った。
キョウが俺をモクと呼ぶ。
オンラインゲームを始めたとき、ハンドルネームとして適当につけた短い名前。
ただふと頭に思い浮かんだ言葉を入れただけ。
そう思っていた。
でも違った。
あれは木蓮のモクだった。
小春が好きだと言った花から取った名前だった。
俺自身が、それを忘れていた。
いや、忘れていたんじゃない。
忘れたことにしていた。

「ごめん、言われるまで、忘れてたよ」

はたして誰に向けての謝罪だったのか。
理音は何も言わなかった。
慰めもしない。否定もしない。
ただ少し先で、咲いていない木蓮を見上げている。
その姿は、はたしてどっちの意思なのだろうか。
そう思った瞬間、自分が嫌になった。
理音に決まっているのに。
キョウは少し離れたところで、スマホを見ているふりをしていた。
俺たちの会話はたぶん聞こえている。
でもあえて入ってこない。
その気遣いがありがたかった。

「誠司」

理音が静かに言った。

「小春は、誠司に残ってたんだね」
「……残ってたって」
「CLOVERの中だけじゃなくて」

理音は俺を見た。

「誠司の中にも」

その言葉は優しかった。
優しかったから、逃げ場がなかった。
俺は咲いていない木蓮を見上げた。
記憶の中では、白い花がまだそこにあった。
小春が好きだと言った花。
俺が何気なく名前にした花。
ずっと忘れていたふりをしていた花。
そして今、その場所に理音が立っている。
小春の記録を読み、小春の言葉をたどり、小春の好きだったものを知って、小春に近づきながら。

「理音、もう行こう」

俺はそう言った。
これ以上ここにいると、何かが混ざってしまいそうだった。
理音は少しだけ頷いた。

「うん」

俺たちは木蓮に背を向けた。
花のない木が、夏の湿った風の中で静かに揺れていた。

御苑を出たころには、あたりは暗くなり始めていた。
観光客の声が少し遠くなり、店の灯りが増え始める。

「今日の宿、こっち?」

俺が道路を指さして聞くと、理音はスマホを見ながら頷いた。

「うん。少し歩くけど、静かなところ」
「ビジネスホテル?」
「旅館寄りかな。安めだけど」
「部屋、別々だよな」

念のため聞く。
理音は少しだけ間を置いた。

「……大丈夫だと思う」
「大丈夫って言葉を信用できなくなってきてるんだが」
「じゃあ、たぶん大丈夫」
「悪化した!」

キョウが後ろで吹き出した。

「モク、がんばれ」
「何をだよ」
「いろいろや」
「他人事だと思って」
「他人事やし」

キョウはそう言って笑ったあと、少しだけ真面目な声になった。

「でも、何かあったら連絡しろよ。俺も今日は京都に泊まるから」
「助かる」

理音がキョウを見る。

「ありがとうございます」
「ええよ。モクだけやと頼りないし」
「本当にそうなんですよ」
「同意すんな!」

二人が少しだけ笑う。
その光景だけ見れば、ただの旅行だった。
幼馴染と、年上の友人。
小春のことがなければ、CLOVERのことがなければ、もっと違う空気だったのかもしれない。
でも、現実には全部ある。
小春は死んで形だけがヨツハに残った。
理音は変わり始めている。
CLOVERは、この街で普通に使われている。

「んじゃ、この辺で帰るわ」
「ありがとう。今日は助かった」
「礼はええ。俺もいい気分転換になれたしな」
「女子大生たくさん見れたから?」
「おう! ってんなわけあるか!」

キョウは笑ったあと、俺だけに聞こえるくらいの声で言った。

「あんまり格好つけすぎんなよ。あと、判断を先延ばしにしすぎるな」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味や」

キョウはそれ以上言わなかった。

「ほな、もし何かあったら電話して」

そう言って、キョウは手を振って路地の向こうへ歩いていった。

理音が選んだ宿は、大学からも駅からも少し外れた場所のようだった。
観光客向けの大通りから一本入ると、急に人の声が減る。
古い民家と新しいマンションが混ざった通り。
小さなコインパーキング。自転車の並んだアパート。
夕方の湿った空気。
角を曲がったところで、足が止まりそうになった。
見覚えのあるコンビニがあった。
小春の部屋へ行く前、何度かここで飲み物を買った。
この先に、細い路地がある。
そこを曲がれば、小春の住んでいたアパートの方へ行ける。

俺は何も言わなかった。
理音も、何も言わなかった。
ただ、キャリーケースの車輪だけが、舗装の継ぎ目に当たって小さく鳴っていた。
小春の部屋には、もう誰か別の人が住んでいるのかもしれない。空き部屋のままなのかもしれない。
荷物は片づけられたのか。
机の上にあった本は、誰が持って帰ったのか。
そんなことを考えそうになって、やめた。
それらを言葉にしたら、足が止まる気がした。
隣を見ると、理音は前を向いて歩いていた。

でも、その横顔は少しだけ硬かった。
ここが小春のアパートに近いと知っているような雰囲気だった。
ログで見たのか。
小春から聞いたのか。
それとも、ただ俺の反応を見て察したのか。
聞けなかった。
理音も、聞いてこなかった。
その沈黙だけが、俺たちのあいだに置かれていた。
俺と理音だけが残る。
宿の前に着いたところで、短い沈黙が落ちた。
理音が暖簾を見上げる。

「普通なら、もう少し楽しいはずなのにね」

俺は何も言えなかった。
理音は俺を見ずに、続ける。

「今回は旅行じゃないもんね」
「……そうだな」
「でも、来られてよかった」
「何で」

理音は少しだけ笑った。

「誠司が、わたしを置いていかなかったから」

その言葉に、胸が詰まる。
俺は理音を置いていかなかった。
そうだ。
少なくとも今回は。
でも、それは本当に正しかったのか。
答えはまだ出なかった。
理音が暖簾をくぐる。
俺は後に続いた。
明日、九条恒一との面談が勝負だ。
旅館の中は静かだった。
畳の匂いと、少し古い木の匂いがした。受付の女性が穏やかに挨拶をして、理音が予約名を告げる。

「予約した如月です」
「はい、承っておりますえ。お一部屋、2名様でよろしかったですね」
「はい」

理音が仲居さんに同意を伝える。
――待て。今何つった?

「お部屋までご案内しますね」

そう言って歩き始めた仲居さんに、理音はぴったりとついていく。

「お、おい、理音!」

慌てて追いかけながら呼びかけるも、理音は振り向きさえせず仲居さんについていく。

「学生さん?」
「はい、もうじき就職活動で忙しくなるからその前に旅行しようって」
「ええわねぇー」

挙句2人が会話を始めたため、割って入ることもできず俺は後ろをついていく。

「それではごゆっくり」

そうして通された部屋は、古き良き旅館といった感じの和室で、掃除も行き届いていた。

「理音、どういうことだよ。お前、部屋別々にしたって――」

理音は部屋の端に荷物を置くと、俺の方を振り返った。

「ごめん、なんか間違えちゃったみたい」

そう言っていたずらっぽく微笑む。
その笑顔はとてもかわいらしく、
そして小春が俺に他愛ないいたずらを仕掛けたときの笑い方と同じだった。


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