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#15 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第7章 木蓮(前編)

数か月ぶりの京都駅のホームは蒸し暑かった。
湿気は名古屋とそう変わらない。
けれど人の多さと熱気で、こちらの方が息苦しく感じる。
駅の天井の高さや、行き交う人の足音や、外国語の混じるざわめきで、
京都にいることを実感させられた。
理音はキャリーケースの持ち手を伸ばし、何も言わずに周囲を見回していた。

「……どうした」
「ううん」 

理音は短く答える。

「京都だなって思っただけ」

それは当たり前の感想だった。
なのに、少しだけ引っかかった。
初めて来た場所に対する感想というより、戻ってきた場所を確認するような言い方に聞こえたからだ。
いや、考えすぎだ。
理音だって京都くらい来たことはある。修学旅行もあったし、家族旅行だってあるだろう。
小春の大学がここにあったからといって、理音が京都に足を踏み入れた瞬間からおかしくなるわけがない。

「モク!」

改札を出たところで、聞き慣れた声が飛んできた。
人の流れの向こうで、背の高い男が片手を上げている。
白いシャツに薄いジャケット。
寝起きみたいな目をしているのに、妙に整って見える。
瀬良匡平。キョウその人だ。
俺は少しだけ肩の力が抜けた。

「キョウ、ありがとう。来てくれて」
「ええよ。どうせ暇やしな」

キョウはそう言って笑ったあと、理音の方を見る。

「で、こちらが例の幼馴染さん?」
「はじめまして、如月理音です」

柔らかな笑みを浮かべて、理音が軽く頭を下げた。
心臓が一瞬強く脈打つ。
これは単に社交モードなだけだ。
小春は関係ない。
いちいち強く反応してしまうのが嫌だった。
キョウは理音をみて一瞬だけ目を細めると、手招きして俺を呼び寄せた。
それから肩に手をまわして小声で俺に耳打ちした。

「モク、どういうことや」
「何が?」
「お前、彼女おって、そのうえこんな美人の幼馴染までおるとか」
「別に普通だろ?」
「うわ上から目線、腹立つわー」

理音が少しだけ笑った。

「誠司、いつもそんな感じなんですか」
「だいたいこんな感じやな。いや、ゲームではもうちょいマシかもしれん」
「そんなわけないだろ」
「自覚ないところが怖いなあ」

やはりキョウに来てもらって正解だった。
今の俺が理音と二人だと、どうしても沈み込んでしまう。
駅の中は人であふれている。旅行客、学生、会社員、外国人観光客。誰もがそれぞれの目的地へ向かって歩いている。その中で、俺たちだけが違う時間にいるような感覚があった。
キョウは俺たちの荷物を見る。

「宿、もう取ってるんやろ?」
「理音が取ってくれた」
「ほう」

キョウが妙な顔をする。

「何だよ」
「いや、何でもない。若いってええなと思っただけや」
「変な想像するな。ちゃんと別々だからな。な、理音」

そう言うと、理音が少しだけ視線を逸らした。

「……たぶん」
「たぶん?」
「確認はしたつもり」
「そこは確定させとけよ!」

俺が思わず声を上げると、キョウが腹を抱えて笑った。

「いやー、青春やなあ」
「笑いごとじゃない」
「俺からしたら全部笑いごとや。笑っとかんとやってられへん話っぽいしな」

その言い方に、軽さとは別のものが混じった。
キョウは、俺がここへ来た理由をある程度知っている。
小春のことも、CLOVERのことも、Locus Worksのことも、事前に話してある。
しかし全てではない。
理音の変化までは、詳しく話していない。
けれど、ただの旅行ではないことくらい、察しているはずだった。

「とりあえず、これからどうする?」

キョウが聞く。

「キョウ、九条恒一との面談は――」

「だいじょうぶや、明日の朝にアポとってある。俺の名前でな。中部の大学生連れてくることも言ってある」
「ありがとう、キョウ。本当に助かる」

CLOVERを止めるには、九条恒一と接触しないと始まらない。
そのため事前にキョウにお願いして、キョウの名前でアポイントを取ってもらった。
キョウ曰く、ITベンチャーで瀬良匡平の名前を知らない人間はモグリらしい。
それが本当かどうかはともかく、キョウのおかげでこの京都訪問が完全な無駄足になることはなくなった。
謝礼は秘蔵のレアアイテム5個。
最初キョウは受け取ろうとしなかったが、俺の気が済まないので強引に受け取ってもらった。
あとは俺次第だ。

「じゃあ今日はまず鹿鳴館大学に行ってみたい」

自分で言って、少し胸が重くなった。
小春の大学。
俺も何度か正門前まで行ったことがある。
京都駅から電車に乗って、大学近くの駅で降りて、待ち合わせて、どこかで飯を食べて、小春の部屋へ行く。
それで知っているつもりだった。
でも今は、その記憶が妙に薄っぺらく感じる。
俺が知っているのは、小春が俺を迎え入れてくれた場所だけだ。
小春が普段どう歩いて、どこで講義を受けて、誰と話して、どんな空気の中で生きていたのか。
俺は、ほとんど何も知らない。
キョウは頷いた。

「ほな行こか。歩きながら色々打ち合わせよか」

駅の外へ出ると、曇った空の下でバス乗り場に長い列ができていた。
京都らしい光景、と言えばそうなのかもしれない。
有名どころのポスター、案内表示、キャリーケースを引く人たち。
俺たちは人の流れに沿って目的のバス停へ向かった。
バスの中で、理音は静かに窓に映る自分の顔を見ていた。
短くなった髪が、肩のあたりで揺れる。
俺は極力それを見ないようにしていた。
バスにゆられること数十分。
終点で降りて正門へ向かう。
鹿鳴館は私立大学だけあって、俺たちの大学と違っておしゃれな建屋だった。
キャンパスには学生が歩き、掲示板には講義変更やサークル案内が貼られ、ベンチでは誰かがスマホを見ながら昼飯を食べている。古い建物と新しい建物が混ざっていて、妙に落ち着いた空気があった。
小春はここで暮らしていた。
そう思った瞬間、胸の奥が少し締めつけられた。
小春が生きていたころは何も感じなかったのにな……。

「ここ、何度か来たことあるの?」

理音が聞いた。

「この辺りまでは」
「キャンパスの中に入ったことは?」
「1回か2回だけ」

そういえば一度一緒に学祭に行ったけな。

「そっか。学祭に行ったもんね」

理音の何気ない呟きに、息が止まった。

「理音、どうしてそれを――」
「ああ、うん。小春のCLOVERの履歴で知っただけだよ」
「本当か?」

詰問するような声になってしまった。
頭のどこかでこれを尋ねたところで益はないとわかっているのに聞かずにはいられなかった。

「本当だよ」

理音が俺の顔をみて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「誠司はわたしの嘘がわかるんだから、嘘ついてもしょうがないでしょ」

俺はその理音の言葉になんと返せばわからなかった。
気まずくなって、少し離れたところにいたキョウの方を見ると、
彼は大学の入り口近くにある掲示板を眺めていた。

「お、あるな」

俺は理音から逃げるようにキョウへ近づく。

「何が?」
「CLOVERの広告」

キョウが指さした先には、学生向けの案内ポスターが貼られていた。
研究メモの共有に。
就活相談の準備に。
言葉にする前の整理に。
CLOVER学内連携版、利用ガイダンス実施中。
そこには、柔らかい緑のロゴと、AIで作ったような笑顔の学生のイラストがあった。
おかしなところは全くない。
むしろ大学が公式に用意した便利な支援サービスにしか見えなかった。

「……普通だな」

思わず呟く。

「普通やで」

キョウが答えた。

「そうじゃなきゃ大学なんかで採用されへん」

掲示板の横を、二人組の女子学生が通り過ぎた。

「昨日のエントリーシート、ヨツハで整えた?」
「うん。最初のやつ、めっちゃ重かったから、ちょっと柔らかくしてもらった」
「わかる。自分で書くとアピール強くなりすぎるんだよね」
「でも、ヨツハ通すとちょっと落ち着いた大人な感じになるから助かる」 

二人は笑いながら歩いていく。
何でもない会話だった。
本当に、何でもない。
俺がCLOVERに思うところがなければ、意識に残らなかっただろう。
便利なツールを使って、就活用の文章を仕上げている。
それだけの話だ。今の時代なら、むしろ賢い。
それでも、俺は強烈な違和感を覚えた。

キャンパス内を歩く。
小春が通っていた学部棟。
よく使っていたらしい図書館。生協。カフェテリア。
俺の大学よりおしゃれなこと以外は何も変わらなかった。
学生たちは笑い、歩き、スマホを見ている。
誰かが泣いているわけでも、怪しい儀式が行われているわけでもない。
小春が死んだことは、この場所ではもう日常の中に沈んでいるように見えた。
そもそも、事件について誰も知らないようにさえ見える。
実際にそうなのかもしれない。
もちろん、この中の誰かが小春の友達で、今も大きな痛みを抱えているかもしれない。
ただ、俺が歩いている範囲では、それは見えない。
大学は普通に動いている。
講義も、学食も、サークルも続いている。
それが当たり前だ。
誰かが死んでも、世界は止まらない。
小春のために世界が喪に服すことはない。
そんなこと、わかっていたはずなのに。

「ここ」

理音が足を止めた。
小さな中庭だった。木が何本か植えられていて、ベンチが並んでいる。建物の間に挟まれた、少し静かな場所。昼休みを過ぎた時間だからか、人は少ない。

「何かあるのか」
「……この場所、好きだったんだ」

理音は過去形でそう語った。
小春はにぎやかな場所より、少し人の流れから外れた場所を好んだことを思い出す。
カフェでも、窓際より端の席。人と話すのは嫌いではないのに、中心にいるのは少し苦手だった。
それは、理音も似たところがあった。
だけど――

「お前は来るの初めてだろ?」
「あ、うん。そうだったね」
「じゃあ何であんな言い方……」
「間違えただけ」

理音が少し困ったように笑った。

「小春なら、ここで時間過ごしたりしてたんだろうなって思っただけ」

小春を知っている理音なら、それくらい思ってもおかしくない。
高1のとき、理音は小春と同じクラスだった。
そこで仲良くなって、理音は小春を俺に紹介した。
理音がそんなことをしたのは初めてだったので、なんだか嬉しかった。
そんなこともあって、俺は最初から小春の印象はよくて、やがて付き合い始めた。
だから、理音が小春のことをよく理解しているのは当たり前だった。
けれど、その立ち止まり方があまりに馴染んで見えた。
まるで本当に、来たことがある場所に戻って来たみたいに。
キョウが俺をちらっと見た。
何か言いたそうだったが、言わなかった。

「少し休んでく?」

理音が聞く。

「いや、いいよ」

俺はすぐに答えた。
座ってしまったら、何かが確定する気がした。
理音は「そっか」と言って歩き出す。
その横顔を見ながら、俺は思った。
理音は理音だ。
小春ではない。
当たり前だ。
顔立ちも違う。声も違う。歩き方も違う。
怒り方も、笑い方も、全て違う。
違うはずだった。
それなのに、ふとした間や、言葉の選び方や、沈黙の置き方に、小春の影が混じる。
小春の影なのか、それともヨツハの影なのか、もうわからない。

午後、俺たちは大学近くのカフェに入った。
観光客向けではなく、学生がよく使っていそうな店だった。木目調のテーブル。レジ横には焼き菓子。壁際の席にはコンセントがある。店内の学生たちは、ノートパソコンやタブレットを開いている。
そして、そこでもCLOVERは当たり前にあった。

「これ、長くて読む気にならない」
「ヨツハに要約してもらったら?」
「ここの言い方、ちょっときついかな」
「研究支援ガイドで論点だけ出してもらえば?」

会話の中に自然に混じっている。
CLOVERは、特別なものではなかった。
日常に溶け込んだツールの一つだった。

「これ、本当に止められるのか」

思わず声が出た。
理音がこちらを見る。
キョウはコーヒーを一口飲んでから、静かに言った。

「せやな」

あまりにあっさりした答えだった。

「便利なもんは広がる。危険やからやめましょう、で止まるなら、世の中もっと平和や」
「でも、人が死んでるんだ」
「そこが繋がって見えてへんのやろ。普通の人には。俺だってモクの話でなければ信じてない」

普通の人。
その言葉が重かった。
常識的に考えれば、CLOVERは便利な対話支援ツールでしかない。
小春たちの死は、痛ましくはあるけれど、ありふれた悲劇だ。
共通点があるとしても、それは利用者だったというだけ。
そこから「人格境界が曖昧になり、揃って自殺した」なんて、誰が考える?
俺だって、死んだのが小春でなければ、真壁教授の講義を聞いていなければこんなこと夢にも思わなかっただろう

「それに」
キョウが続ける。
「仮に危なかったとしても、使ってる人間全員が不幸になるとは限らない。むしろ多くの人は、ちょっと楽になるだけかもしれん」
「……だから止まらない?」
「せやな」

キョウは頷いた。

「本当に悪いものなら、もっと簡単や。誰が見ても悪いから」

理音は黙っていた。
目の前の紅茶に視線を落としている。カップの中の水面が、空調の風で少しだけ揺れていた。

「理音」

声をかけると、理音は顔を上げた。

「何?」
「お前は、どう思う?」

理音はすぐには答えなかった。
その間に、少し身構える。
最近の理音は、返事の前に一拍置くことが増えた。
その一拍が怖い。言葉を選んでいるのか、何かに選ばせているのか、わからないからだ。

「……便利だと思う」

理音は言った。

「危ないとも思う。でも、便利だと思う。言い方を整えてくれることが、救いになる人はいる。小春も、たぶんそうだった」
「それで死んだかもしれないんだぞ」
「そうだね」

理音は否定しなかった。

「でも、だからって、救いだった時間までなかったことにはできない」

何も言えなかった。
その通りだったからだ。
小春はCLOVERに苦しめられた。そう言いたい。
ヨツハに盗まれ、Locus Worksに再配布され、整流された。そう思いたい。
でも小春にとって、CLOVERが救いだった時間もあった。
言葉にできないものを置く場所。俺に言えなかったことを、一度外へ出す場所。
相手を傷つけない形を探すための場所。
それを全部「間違い」と言ってしまったら、小春の苦しみまで否定する気がした。
それから、商店街を歩いた。
小さな書店。古い喫茶店。パン屋。川沿いの道。どれも特別な場所ではない。
「ここ、小春が好きだったパン屋」

理音が言った。

「知ってるのか」
「昔LINEで写真送ってきたことがある」

店先には、焼き上がり時間の札が出ていた。中から甘い匂いがする。
俺はその店を知らなかった。
小春の身体の温度も、声も、眠る前の癖も知っている。
でも、小春が一人でどんなパンを買っていたのか知らない。
その事実が、妙に重かった。
「入る?」
理音が聞く。
「いや」
俺は首を振った。
「いい」
「そっか」
理音は無理に勧めなかった。
そのまま少し歩くと、川沿いに出た。水の流れはゆるく、橋の上を自転車が通り過ぎていく。夕方の光が、少しずつ淡くなっている。

「ねぇ誠司、もう一か所、行きたいところがあるんだけど」
「どこ」
「京都御苑」


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