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#14 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第6章 整流層(後編)

整流層。
真壁教授は、その言葉を知っているのか。
知っているなら、なぜ講義で触れていない。
知らないなら、なぜ九条道隆は、共同認知モデルに基づく概念として語っている。
俺はそのまま研究棟へ向かった。スマホで時間を見る。
教授が研究室にいる保証はない。けれど、行かずにはいられなかった。
研究室の前に着くころには、息が少し上がっていた。
ドアをノックする。

「どうぞ」

中から、いつもの低い声がした。
扉を開けると、真壁教授は机の前に座っていた。
古いデスクトップPC、積まれた本、散らかった資料。昔に来たときとほとんど同じ光景だった。
教授は俺を見る。

「高科くん。今日は一人ですか」
「はい」
「どうしました」

俺は椅子に座る前に、折れたチラシを机の上に置いた。

「九条道隆の講演を聞いてきました」

教授の目が、ほんの少しだけ動いた。
「そういえば、今日でしたか」
「そこで、九条教授が言ってました。整流層の調整は共同認知モデルに基づく、と」

教授は答えなかった。
俺は続けた。

「九条恒一も、同じことを言っていました。Locus Worksのウェビナーで。整流層の調整は共同認知モデルに基づき、って」

教授は黙ったままだ。

「でも、教授の講義にも著書にも、整流層なんて言葉は出てこなかった。少なくとも俺が読める範囲では見つからなかった」

自分の声が、思ったより硬かった。

「整流層って何なんですか」

教授は、机の上のチラシを見たまま動かなかった。

「共同認知モデルは、意識や判断が個体の内側だけで完結しないことを説明するための概念だって言いましたよね」
「言いました」
「なら、整流層は何ですか。これはつまり外側。人の認識や言葉を、外部から動かせることを示す言葉だ」

教授の指が、机の上で一度だけ止まった。

「高科くん」
「何か隠してますよね」

言った瞬間、研究室の空気が重くなった。

「Locus Worksとは協業していない。九条恒一とは面識がない。九条道隆にも共同認知モデルを直接話していない。そこは信じます。
でも、それならおかしいんです。九条親子は、教授の講義にも本にも出てこない言葉を、共同認知モデルの中核みたいに使ってる」

俺は教授を見る。

「先生、共同認知モデルには、表に出してない部分があるんじゃないですか」

教授は長く黙った。
窓の外で、雨が降り始めていた。
夕立が来たみたいだ。
細い雨粒がガラスに当たる。音にならないくらいの、小さな音。
やがて教授は、深く息を吐いた。

「座りなさい」
「答えてください」
「座りなさい。立ったまま聞く話ではありません」

その声には、いつもの講義の冷静さとは別の重さがあった。
俺は椅子に座った。
教授は机の引き出しを開けた。中から、古いファイルを取り出す。紙の端が少し黄ばんでいる。表紙には何も書かれていない。

「共同認知モデルには、発表していない周辺仮説がありました」

心臓が鳴る。

「周辺仮説」
「ええ。講義で扱っている共同認知モデルは、人間の認識や判断が個体内で完結しないことを説明するためのものです。言語、環境、他者の反応、道具。それらが意識形成に関わる。そこまでは、研究として公表できる」

教授はファイルの表紙に手を置いた。

「ですが、研究を進めるうちに、もう一つの方向が見えた」
「もう一つ?」
「個体同士の認識が、ある条件下で過度に同期する可能性です」

喉が乾いた。
教授は、ゆっくりと言った。

「私はそれを、群体接続モデルと呼んでいました」

その言葉を聞いた瞬間、小春の記録が頭に浮かんだ。
虚ろなる群体の神。

「……群体接続モデル」
「ええ。共同認知モデルの、危険な枝です」

教授の声は低かった。

「人間の認識が外部に支えられるなら、その支え方を過度に最適化・標準化することで、個人の判断や感情の境界はどこまで曖昧になるのか。
個人の違和感や衝突や矛盾を、外部の支援層が処理し続けたとき、人はどこまで自分の言葉を保てるのか」

背筋が冷えた。

「それが、整流層ですか」

教授はすぐには答えなかった。

「整流層という言葉を、私は正式には使っていません。ですが、整流という概念はありました。個体間の摩擦や矛盾を減衰させ、共通の認識へ寄せる動的な外部環境です」
「九条道隆が、それを知っている」
「おそらく」
「おそらくって」
「直接渡した覚えはありません」
「でも知っている」

教授は、苦い顔をした。

「以前、彼とは同じ研究室にいました。認知、発達、自我、社会的役割。問題意識は近かった。共同認知モデルの前身については、議論したことがあります。群体接続モデルについても、輪郭程度は口にした可能性があります」
「可能性?」
「かなり昔のことです。まだ資料としてまとめる前でした」

教授は、そこで一度言葉を切った。

「一度だけ、彼が私の研究室に一人で残っていたことがあります。私のPCに触れていたように見えた」
「盗まれたんですか」
「わかりません」
「わからないって」

声が荒くなった。

「そんな重要なものを」
「当時は、疑う理由がなかった」

教授は怒らなかった。ただ、静かに認めた。

「彼がその後、群体接続モデルを発表することもありませんでした。共同研究の話もなく、関西の大学へ移り、自然と疎遠になった。私は、気のせいだったのだと思うことにした」
「思うことにしただけじゃないですか」
「その通りです」

あまりにあっさり認められて、逆に言葉が詰まった。
教授はファイルを閉じる。

「当時は、現実的な実現手段がありませんでした。人間の会話、記録、応答傾向を大規模に取り込み、個別に調整し、常時接続環境の中で返す。そんな技術基盤は存在しなかった」

教授の声が沈む。

「SNSや推薦システムだけでは限界があった。群体接続は起こりえないと考えていました」
「じゃあ何が――」

教授が昔、現実的じゃないと考え、にも関わらず現実化したシステム。

「既に判っているでしょう。LLMですよ」

ヨツハの姿が頭をよぎった。

「LLMを中心に、SNS、会話ログ。推薦システムが結合する。それに加えて心理的負荷を減らす設計。
それらがそろった今なら、かつては概念でしかなかったものが、実装に近づいた」

自我の同化が起きうることは、俺だけの思い込みではなかった……。
既に理論化していた人がいた。
やはり理音は――

「でも、なぜ理音が……」
「如月さん?」

俺の出した名前に、教授の影がより一層深くなった。

「どういうことですか?」

俺は今までの経緯を改めて教授に話した。
教授の顔は大きく動揺したそぶりを見せなかったが、指先は震えていた。

「なぜです? 今までの話からすると認識の整流は誰にでも起こりうる。なぜ俺は大丈夫で、理音は同化の傾向が出てるんですか」

CLOVERに触っている時間は俺と理音で大差ない。
俺の方が多い可能性だって十分にある。
なのに俺は少なくとも自覚する範囲では、向こうに『寄っている』感覚はない。

「それは、ヨツハでしたか? CLOVERのエージェントに対する意識の差が大きいでしょう」
「意識の差?」
「誤解を恐れずにいうならば沢渡小春さんに対する意識の差です」
「恋愛と友情の差、ということですか?」
「無関係ではないですが、根本ではありません。
つまり高科君にとっては沢渡小春さんは他者、理音さんにとっては近づきたい相手」
「近づきたい相手……」
「自我の溶解と同化は認識や思考の同調に寄って進みます。
自分と対話相手の境界の喪失が自我を溶解させる。
高科君にとって、ヨツハはどこまでいっても他者だった。
それは沢渡さんがあなたを受容してくれる他者、同じになってはあなたの得ていた承認が失われてしまう」
「じゃあ理音にとっては……」
「如月さんは何かしらの理由で、沢渡さんに近づきたかった。
積極的に考え方や振る舞いを身に付けていった。だから同化速度が速かった」

——そうなれば全てうまくいくかもしれない。
あれは理音の本音だったのか。
小春と一つになれば理音の抱える問題が解決する?

「その通りだとしたら、理音はなぜ小春に近づきたいと考えたんですか?」
「普段のあなたたちを見て仮説は立てられますが――それは高科君が自分で考えるべきことです」

教授の言うとおりだった。
俺は拳を握った。

「止める方法は——」

教授は黙った。

「あるんですか」
「断言できる方法はありません」
「教授」
「高科くん」

教授は、俺の言葉を遮るように言った。

「同化が始まった人間を、外から引き戻す方法は単純ではありません。なぜなら、本人にとってそれは救いだからです」

理音の言葉が蘇る。
ヨツハに相談していると気が楽になる。

「救い?」
「そうです。不安が減る。言葉が整う。矛盾が小さくなる。自分の曖昧さを、外部が処理してくれる。その状態を、本人が拒絶できるとは限らない」
「じゃあ、どうすれば」

教授は少し考えた。

「一般論として言えるのは二つです」
「何ですか」
「一つは、整流層を担っているシステムから距離を置くこと」
「CLOVERを使わせない」
「それが可能ならそうすべきです」
「もう一つは」

教授は俺を見る。

「本人を、群体より強く個体へ引き戻す執着を持たせることです」
「執着?」
「身体。生活。怒り。恥。欲望。誰かとの未解決の関係。整えられないまま残る感情。そういったものです」
「負の感情を抱かせる?」
「負というよりは生の感情、衝動ですね」
「それで止まるんですか」
「止まる、ではありません。自我の境界を保つ足場になる可能性がある」

足場。
小春に対して、俺は足場になれなかった。
同じことを繰り返すわけにはいかない。

「理音にとって、それは何なんですか」

自分で聞いてから、答えを恐れた。
教授は俺から目を逸らさなかった。

「それは、私にはわかりません」

当たり前だった。
わかるはずがない。 俺が考えるべきことだ。

「――俺は、京都へ行こうと思っています」

教授は表情を変えなかった。

「九条恒一と接触して、CLOVERを止める」
「どうやって?」
「接点はあります。ツテも使えるかもしれません」

俺はキョウの顔を思い出した。
同じ業界の有名人だ。キョウなら顔が効くはず。
お金が必要なら貯金は全てはたいてもいい。

「如月さんも行くのですか」
「行かせたくはないのですが……」

教授は目を伏せた。

「止めても行くといったところですか」
「はい」
「なら、一人で行かせるよりはいい」

その言い方に、少しだけ救われた気がした。
教授は最後に、低い声で言った。

「CLOVERを止めることには反対しません。ですが……」

教授は言った。

「彼らが黒幕だとして、それを止めれば終わる話ではないかもしれません」

その言葉を背負ったまま、俺は研究室を出た。
雨はまだ降っていた。廊下の窓に映る自分の顔が、ひどく疲れて見えた。

夕方、理音と駅前の喫茶店で落ち合った。
教授から聞いた話を、どこまで伝えるべきか迷った。
群体接続モデル。九条道隆。盗まれたかもしれない概念。
理音は、俺の話を最後まで黙って聞いた。
途中で口を挟まなかった。
いつもなら、途中で疑問点を整理したり、確認を入れたりするのに。
聞き終えると、理音はカップの中の紅茶を見つめたまま言った。

「つまり、わたしは危ないんだね」
「言い方」
「でも、そういうことでしょ」
「危ないと思ってる」

俺は逃げずに言った。

「だから、京都にいってCLOVERを止める」
「うん」
「理音、もうCLOVERを開くなよ」
「――わかった」
「本当か? 嘘ついてもすぐにわかるぞ、長い付き合いなんだから」

俺の言葉に理音は目を丸くした。
それからこらえきれない、といった感じでうつむいて顔を抑えた。
理音は笑っていた。心の底から。

「あは、あはは。誠司、それ本気で言ってる?」
「ど、どういう意味だよ。俺は真剣に――」

お前を心配している、そう言おうとした時だった。

「だ、だって誠司にわたしの嘘が見抜けるわけないじゃん。それが見抜けるならさぁ」
「理音……」
「あー、おかしい。はぁー」

理音は顔を上げるとハンカチを取り出して目尻をぬぐった。

「ふぅ、笑った笑った。こんなに笑ったのいつぶりだろ」
「理音、俺はただ――」
「わかってるって。心配してくれてることくらい。大丈夫だから」
「うん……。ところで理音」

俺は何となく気が沈んだので、話を変えることにした。

「親には話したのか。ついてくるのはあくまでもOKが出たときだけだぞ」
「うん、昨日忙しくて話できなかったんだ。今から電話するよ」
「今から!?」

俺が戸惑いの声を上げたときにはすでに理音は電話をかけていた。
間の悪いことに、電話はすぐに繋がった。

「あ、お母さん。今大丈夫?」

俺は反射的に姿勢を正した。
理音がこちらをちらっと見て、少しだけ笑う。

「うん。週末、京都に行きたいんだけど。うん、まあそんな感じ。小春のいた場所見てみたいっていうか」

理音の声は落ち着いていた。

「ううん、一人じゃない。誠司と」

その一言で、俺の背筋がさらに伸びた。
電話の向こうの声は聞こえない。ただ、理音の表情を見る限り、怒られてはいない。

「うん。泊まりになると思う。ちゃんと連絡する。宿も取るから」

間。

「え? いや、そういうのじゃ……」

理音が少しだけこちらを見た。

「違うから。ほんとに」

さらに間。

「うん。誠司にも言っておいてって? 何を」

理音の目が泳いだ。

「……ちゃんとしてね? わかった。言っとく」

電話が切れる。
俺は恐る恐る聞いた。

「どうだった」
「許可出た」
「軽すぎない?」
「昔から知ってるし」
「いや、でも泊まりだぞ」
「お母さん、誠司なら大丈夫でしょって」
「……信用が重い」
「あと、ちゃんとしてねって」
「何を?」

理音は俺を見た。

「知らない」

絶対わかってる顔だった。

「誠司も言っといたほうがいいんじゃない?」
「後で……」
「後回しにしない!」

逃げられそうにない。
俺が渋々電話すると、こういう時に限ってすぐに出た。

『もしもし、誠司? 珍しいわね』
「あー、週末さ、京都に旅行に行くことになって」
『京都? 理音ちゃんと?』
「なんでわかるんだよ」
『さっき理音ちゃんのお母さんから連絡来たもの』

根回しが早すぎる。

「一応、小春のことで確認したい場所があって」

母さんは少し黙った。
その沈黙だけで、俺は小春の名前を出したことを少し後悔した。

『そう』

母さんの声が少しだけ柔らかくなる。

『行ってきなさい』
「いいのか」
『止めても行くんでしょ』

どいつもこいつも。

『ただし、理音ちゃんに変な負担かけないこと。あの子、しっかりしてるけど、抱え込むところあるから』

「……わかってる」
『あと、あんたも無理しないこと』
「うん」
『ちゃんと食べなさいよ』
「小学生か」
『小学生の頃からあまり進歩してないでしょ』
「ひどい」

電話を切ると、理音が少しだけ笑っていた。

「何」
「いや。誠司のお母さんっぽいなって」
「聞こえてた?」
「少し」
「忘れろ」
「無理」

久しぶりに、軽い会話だった。
本来なら、少し微笑ましい旅行の打ち合わせに見えたかもしれない。
幼馴染の男女が、週末に京都へ行く。親同士も知っていて、許可も出ている。少し重い事情はあるけれど、外から見れば、気分転換を兼ねた小旅行にしか見えないだろう。

「宿、予約しとくね」

理音が言った。

「部屋、別々だよな」
「そこ気にするんだ」
「当たり前だろ」
「ちゃんと考える」
「考えるじゃなくて、別々」
「はいはい」

理音はスマホを操作しながら答える。
その返事が少し軽すぎて、不安になった。

「理音、本当に大丈夫か」
「大丈夫」

またその言葉。
俺は思わず眉を寄せた。
理音はそれに気づいたのか、少しだけ言い直した。

「大丈夫、にしたい」

その言い方は、理音だった。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
週末。
名古屋駅の新幹線ホームは、旅行客でごった返していた。
俺は小さなバッグを肩にかけて、ホームの柱にもたれていた。
隣には理音が立っている。
小さめのキャリーケース。肩にはトートバッグ。セミロングの髪が、淡い茶色を含んで揺れていた。
俺はなんとなく電光掲示板に視線を送る。
京都行きの新幹線が、まもなく到着する。
俺にとってこれは、理音を引き戻すための行動だった。
小春が最後にいた場所を見る。
そしてCLOVERを止める。
ただの旅行ではない。
理音にとって、これは何なのだろう。
俺と理音の目的は、本当に同じなのだろうか。
ホームに風が吹いた。
新幹線が滑り込んでくる。白い車体が、音を立てて目の前を通り過ぎていく。
理音が、隣で小さく息を吐いた。

「行こう、誠司」
「……ああ」

俺たちは車両に乗り込んだ。
座席に並んで座る。荷物を上に置き、窓の外を見る。
ホームには、見送りの人も、ただ通り過ぎる人もいる。
発車ベルが鳴る。
ドアが閉まる。
ゆっくりと、景色が動き出す。
隣に座る理音は、窓の外を見ながら、どこか懐かしい場所へ帰る人のような顔をしているように見えた。
その横顔を見て、俺は思う。
まだ、取り戻せる。
まだ、理音は理音だ。
まだ、間に合う。
その言葉だけを頼りに、俺は京都へ向かう列車の揺れを感じていた。


・続き

・前回


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