#13 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
第6章 整流層(前編)
メッセージを見たまま、俺はしばらく動けなかった。
その二行は、ただの連絡だった。
昔からの友人が、予定を聞いているだけ。言葉だけを見れば、何もおかしくない。
だけど俺の心には言いようのない不安が膨らんでいた。
これは理音の優しさなのか。
それとも、小春の優しさの再現なのか。
俺はスマホを握ったまま、何度か返信を書きかけては消した。
『わかった』
違う。
『昼なら空いてる』
それも違う。
『CLOVERから招待メールを送ったのか』
送ろうとして、指が止まった。
あれは理音が送ったものでなく、群体の神の記事と同じ現象だったら。
そのうえで理音が招待に気づいてなかったとしたら。
俺はまた勝手にCLOVERと小春へ結びつけて、理音を傷つけることになる。
でも、俺の心はその可能性は低いと訴えていた。
迷惑メール扱いで目に留まっていない可能性はある。
しかしそれ以外なら理音は必ず俺に話をしているはずだ。
俺は結局、短く返した。
『昼。図書館裏で』
数秒後、既読がついた。
返事は、少し間を置いて届いた。
『うん。ありがとう』
ありがとう。
何に対してだよ。
そう思った瞬間、自分がひどく神経質になっていることに気づいた。
たった一言にも意味を読み取ろうとしている。
理音の言葉を、理音の言葉として受け取れなくなっている。
これではCLOVERと変わらない。
全部の言葉を解析して、背景を探って、相手の内面を勝手に補完しようとしている。
俺はスマホを伏せた。
けれど、画面を伏せても、不安と苛立ちは消えなかった。
翌日。
昼の図書館裏は、湿気を含んだ風が通っていた。
雨は降っていないのに、木陰のベンチは少し濡れているように見えた。
俺が着いたとき、理音はもう座っていた。膝の上にはノートではなく、スマホがある。
短くなった髪が、風で少し揺れる。
似ている。
そう思ってしまった自分が嫌だった。
「早いな」
「誠司が時間通りに来るとは思ってなかったから」
「信用なさすぎだろ」
「最近は特にね」
理音はそう言って、少しだけ笑った。
柔らかい笑い方だった。
俺はベンチの端に座った。いつもより少し距離を取ったつもりだったが、理音はそれに気づいたのか気づかないのか、何も言わなかった。
数秒、沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは理音だった。
「あのさ、誠司——」
「理音、CLOVERから自分に招待メールを送ったのか」
俺は単刀直入に言った。聞かずにはいられなかった。
「……気づいてたの?」
理音のつぶやきに、心臓が嫌な鳴り方をした。
「昨日な」
理音は俺の言葉を聞いて曖昧な笑みを浮かべた。
「ふふ、遅いね、誠司は」
「なんでそんなことをした」
自分でも、声が少し強くなったのがわかった。
理音は視線を落とす。
「わたしも見たかったから」
あまりに静かな返答だった。
「どうして!」
腹が立った。
「危険かもしれないことわかってただろ!」
異常なことが起きたように思えたから調べ始めたんじゃないか!
「わかってるよ」
「じゃあなんで」
「わかってるから見たの」
理音は顔を上げた。
その目は、いつもの理音の目だった。
少なくとも、そう見えた。鋭くて、冷静で、どこかで自分を責めている目。
「小春が何を見ていたのか、わたしも知らないままでいたくなかった。誠司だけに見せて、自分だけ安全圏にいるのも嫌だった」
「安全圏って」
「わたしも関係者でしょ」
理音の声がわずかに揺れた。
「小春の友達だった。誠司の友達だった。小春が死んで、誠司が苦しんで、それを横で見てるだけだった。なのに、本当はずっと別のことも考えてた」
「別のこと?」
聞き返した瞬間、理音の表情が固まった。
「あ……」
その反応で、踏み込んではいけない場所に触れたことがわかった。
理音はすぐに首を横に振った。
「今のはいい。忘れて」
「忘れろって言われても」
「今は、CLOVERの話をしよう」
理音はいつものように話題を本筋に戻した。
脱線を良しとしないのが理音だ。
けれど今の俺には、それが逃げに見えた。
いや、逃げというより、俺に知られたくない感情を別の箱に入れて、こちらに見えないように置き直したように思えた。
「何を見ていたんだ」
「同じだよ、多分、誠司と」
「理音」
「何?」
「CLOVERを消すんだ」
理音は黙った。
「もう2度と開くな。俺ももう開かない。少なくとも、お前は――」
「それで小春や事件のことがわかるの?」
「そんなこと、もうどうだっていい!」
俺は語気を強めて言った。
「理音がおかしくなるよりマシだ」
「おかしくなるって、何」
「わかってるだろ」
理音の指が、スマホの端を軽く握った。
「わたしが小春に似てきたってこと?」
言葉が出なかった。
理音は、少しだけ笑った。
「誠司、正直だね。黙るときが一番わかりやすい」
「……言動が似てきた、とは思ってる」
「うん」
「でも、それが本当にCLOVERのせいなのか、小春がいなくなったからそう見たいだけなのか、わからない」
「わたしにもわからない」
理音はスマホを見下ろす。
「でもね、ヨツハに相談していると気が楽になるんだ」
「どうして」
「誠司が最初に言ったんでしょ。ヨツハが小春に似てる
って」
「それは――」
「高校の頃はさ、本当に仲良かったんだよ、小春と。何でも話した。まるでその頃に戻ったみたい」
「……別に今だって仲悪くなったわけじゃないだろ」
「そうだよ。でも大学入って少ししてからは昔ほど話さなくなった」
「それは距離ができたから……」
「そうだね。距離が変わると関係は変わる。距離が変わったのは誰だろうね、誠司」
理音の声が少しだけ鋭くなった。
久しぶりに、理音らしい鋭さだった。
「……」
俺は何も言えなかった。
理音は俺と小春の距離が離れたことを責めているのかと思った。
けれど、理音の目は少し違っていた。
離れたことじゃなく、近づいたことを言っているのか?
黙り込んだ俺を見て、理音が唇をゆがめた。
「いやでしょ、いまの私」
「そんなことは……」
「だからヨツハが必要になったの」
理音が少し遠くを見た。
まるでその先に誰かがいるかのように。
「自分の中にあるもやもやした感情、そのまま外に出せない感情。それを受け止めて、形を整えてくれる」
「まやかしだよ」
「まやかしでもいい。自分の中にあるものを、そのまま誠司にぶつけなくて済むなら」
「……」
「きっと誠司は受け止めきれないから」
答えられなかった。
理音がそんな俺をみて、目を伏せた。
「だから、外に一旦預けたくなる。小春がそうしていた理由、今なら少しわかる」
「理音」
「大丈夫」
理音は言った。
その一言が、俺には何より大丈夫に聞こえなかった。
「大丈夫だから」
繰り返す。
まるで自分に言い聞かせるように。
大丈夫なわけがない。
これ以上、続けさせるわけにはいかない。
思いついた手段は一つだけだった。
「京都に行く」
俺の宣言に、理音が顔を上げた。
「京都?」
「小春の大学。 CLOVERが普通に使われてる場所。そしてLocusWorks」
「調査?」
「違う」
とっさに口をついてでた。
自分で言ってから、何をしたいのかはっきりとわかった。
「CLOVERを止める」
理音の表情が一瞬だけ揺れた。
「無理だよ」
「無理でもやる」
自分で言ってて無茶苦茶だと思う。
ただの思いつきで、何の策も手立てもない。
俺が京都に行ったところで、何ができるわけでもない。
それでも行かずにはいられなかった
「どうして?」
「どうしてって、止めないとお前が――」
消えてしまうかもしれない、とは口には出せなかった。
俺の言葉に、理音は初めて見る自嘲気味の笑顔を浮かべた。
「でも誠司は……理音より小春がいたほうがうれしいんじゃない?」
「理音!」
俺の怒鳴り声に驚いたのか理音は少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「わたしも行く」
「だめだ」
「どうして」
「お前が変になるのを止めるために行くのに、お前をCLOVERの地盤に連れていってどうするんだよ」
「わたしのことなのに、わたし抜きで決めるの?」
「そういう話じゃないだろ」
「そういう話だよ」
理音の声は静かだった。でも、芯があった。
「記録を見たから知ってるんだよ。誠司は小春に対して自分で勝手に距離を置いた。ちゃんと話し合えばいいだけなのに小春に言わなかった。自分の中だけで考えて、それが誠実だと思った」
理音の言葉が胸に刺さった。
そのとおりだった。
「今度は、わたしに対して同じことをするの?」
何も言えなかった。
理音はまっすぐ俺を見る。
「わたしを守るためって言えば、わたしを置いていっていいの?」
「……」
「それ、小春のときと同じだよ」
俺は何も言い返す事ができなかった。
理音は言いすぎたと思ったのか、少しだけ目を伏せる。
「ごめん」
「いや……」
俺は喉の奥を無理やり動かした。
「今のは、言われて当然だ」
理音は何も言わなかった。
俺は大きく息を吐く。
「わかった。一緒に行こう。ただし条件がある」
「何?」
「親に言うんだ。俺と二人で京都に行くって。それで了承が出たら」
理音は目を瞬かせた。
「それ、本気?」
「本気」
俺も理音ももう子供ではない。
二人で一泊旅行となると、娘の親なら難色を示すだろう。
少しずるいが、俺の心情としては理音を連れて行くのは避けたかった。
「じゃあお母さんに言うね」
「うん、おばさんがいいって言ったら一緒に行こう」
理音の母親については昔からよく知っている。
俺と理音の付き合いは、そもそも母親同士が仲良くなったことから始まったものだ。
如月一家は小5の時の仕事の都合でこちらに引っ越してきた。
そして理音の母親が始めたパート先で、先んじて働いていた俺の母親と知り合い、意気投合。
その流れで理音と関わることになった。
転校当初の理音は今より数段きつい性格だったので、孤立気味だった。
それを心配したこともあるのだろう。
母親同士が遊びに行くという約束で俺と理音も一緒に連れていかれたのだ。
そうこうしているうちに友達になっていたのだ。
「誠司は言うの?」
「うちは父さんも母さんも家にいないしな。連絡はするよ」
京都に旅行するってだけ。
誰とといわない。説明が大変だし。
「誠司、どうせばれるから自分から言った方がいいよ」
「……確かに。変なことはできないな」
「変なことって?」
理音が少しだけ首を傾げる。
俺は言葉に詰まった。
「……そういう揚げ足取るな」
「取ってない」
少しだけ、理音が笑った。
その笑い方は、俺の知っている理音に近かった。
けれど、それで安心していいのかは、もうわからなかった。
理音と別れたあと、俺はしばらく図書館裏のベンチから動けなかった。
京都に行く。
口に出した瞬間は、それが唯一の正解みたいに思えた。
けれど、ひとりになると急に現実味が薄れてくる。
何をするつもりなんだ、俺は。
CLOVERを止める。
さっきはそう言った。でも、どうやって?
俺はただの大学生だぞ。なんの影響力も権力もない。
そもそも、それが本当に解決策なのか?
理音がCLOVERの小春のログを見ている。
言動が小春に似てきたように見える。
因果はある。
しかしそれはただ単に理音が小春のログを見て、意図的に真似をしているだけかもしれない。
常識的に考えれば、その方が自然だ。
人格が同化しているなんて、俺の飛躍した妄想なのではないだろうか。
仮に俺の推測が正しかったとしても、何を根拠に相手にぶつければいい。
そのまま九条恒一に話したところで、取り合ってもらえないどころか、
下手すればこっちが警察を呼ばれかねない。
俺は本当に正しく考えられているのか。
せめて何か一つ、突破口があれば……。
俺はなんとなしにスマホを開いた。
検索履歴には、Locus Works、九条恒一、九条道隆、共同認知モデル。
そんな単語ばかりが並んでいる。
そこで、ふと一枚のチラシのことを思い出した。
――AI対話支援と共同認知モデル。
――登壇:九条道隆。
――協力:Locus Works。
陽芽から焼肉と引き換えに奪い取った、あの最高級チラシだ。
開催日は、明日の夕方。試験期間明けの公開講演。場所は大学内の小ホール。
俺はバッグの中を探り、折れ目のついたチラシを引っ張り出した。
とりあえずこれに行ってみるか。
九条道隆の言葉を聞いておくべきだ。
恒一の言葉と、道隆の言葉がどこまで同じなのか。
共同認知モデルが、どう扱われているのか。
何かのヒントが得られるかもしれない。
目下の行動を固まったところで、俺は立ち上がった。
翌日の試験終わりの夕方。
小ホールは思ったより埋まっていた。
満席ではない。
けれど、試験が終わったばかりの時期にしては人がいる。
学生だけではなく、スーツ姿の大人もちらほら混じっていた。大学関係者、企業関係者、若者支援団体っぽい人たち。そんな雰囲気だった。
入り口には、Echoというロゴが入った小さなパネルが置かれていた。
Locus Worksを支援している外郭団体らしい。
NPOとかNGOとかそういう類の。
学生ベンチャーとはいえ、いやだからこそ外部からの支援をとりつけられているのかもしれない。
俺は後ろの方の席に座った。
今日のことは理音には連絡しなかった。
今の理音にこれを聞かせるべきかどうか、判断がつかなかったからだ。
やがて照明が少し落ち、司会の挨拶が始まる。
簡単な趣旨説明。AIによる対話支援。
学生の孤立。SNS時代のコミュニケーション負荷。
聞き慣れた言葉が、きれいに並んでいく。
そして、九条道隆が登壇した。
写真で見たときより、実物の方が穏やかに見えた。年齢は五十代半ばくらいだろうか。背筋が伸びていて、声もよく通る。威圧感はない。むしろ、相手を安心させるタイプの知性に見える。
「現代の若者は、かつてないほど周囲と繋がっています」
道隆はゆっくりと話し始めた。
「けれど、かつてないほど孤独でもあります。
常時誰かとつながっているにもかかわらず、対話には緊張が伴います。
言葉は誤解されやすく、感情は瞬時に増幅される。少し間違えただけで孤立はおろか攻撃対象にさえなりかねない。
これは個人の弱さではありません。社会の認知環境が、個人の処理能力を超え始めているのです」
言っていることは、理解できた。
「そこで重要になるのが、共同認知モデルです。人は一人で考えているのではありません。他者の反応、言語環境、道具、インターフェース。自分の置かれている環境が認知に大きな負荷を与えるのです」
ここまでは、真壁教授の講義にも近い。
俺は膝の上で拳を握った。
「ならば、対話環境そのものを整えることで、個人の負荷を減らし、衝突を減らし、より穏やかな関係性を作ることができる。これは思想ではありません。生活の問題です」
やはり似ている。九条恒一も、似たようなことを言っていた。
「重要なのは、介入しすぎず自然な形でサポートすること。人の言葉を支配するのでなく、あくまでも言葉がもたらす負の影響を削減する。私たちはこれを、認知的整流と呼んでいます」
心臓が一度、大きく鳴った。
「整流層の調整は、共同認知モデルに基づきます」
記憶にある言葉だった。
そうだ、九条恒一がウェビナーで言っていた。
――整流層の調整は共同認知モデルに基づき——
俺はすぐにスマホのメモを開いた。手が少し震えていた。
整流層。
真壁教授の講義資料には、そんな言葉はなかった。
教授の本にも出てこなかった。
図書館で索引も見た。
共同認知、意思決定補助、観測者依存、社会的自我。出てきた知らない用語については片っ端から調べた。
だからわかる。
整流層なんて概念は出てこなかった。
なのに、九条親子は同じ言葉を使っている。
道隆は穏やかに話し続けていた。
「荒れた言葉を、受け取りやすい形へ。孤独な決断を、理解可能な文脈へ。衝突しやすい認識を、受容されやすい価値観へ。AIは、人間の代替ではありません。人間同士のあいだに生まれるトラブルの芽を、事前に摘むためのツールなのです」
周囲の人間が頷いている。
誰もおかしいとは思っていないようだった。
これが社会的に有用に見えるからだ。
孤独を減らす。衝突を減らす。不用意な発言による失敗を減らす。
現代のコミュニケーション負担の増大した社会で、それを聞いて反対する理由がない。
でも俺には、その言葉が別のものに聞こえていた。
荒れた言葉を、優しく直す。
決断を理解可能にする。
衝突しやすい認識を、受容される価値観へ。
それは、個人の感性を削ることと、同じではないのか。
質疑応答まで聞く余裕はなかった。
俺は講演が終わる前に席を立った。
後ろの扉から外へ出る。廊下の空気はぬるかったのに、手だけが冷えていた。
・続き
・前回
