正しさの罠——どれだけ正確でも世界史の教科書よりつまらない記事は読まれない
忙しい中、執筆時間を確保して2時間かけて書いた渾身の記事。
論理展開と整合性を何度もAIに読ませて確認し、わずかでも指摘があればWEBや資料にあたってファクトチェック。
きっとバズるに違いない。
そう思って眠りにつき、朝起きて期待してアプリを開くと通知は1件。
ギャンブル系の有料記事を出してるアカウントのスキが一つだけ。
次はもっと情報量を増やして、より正確な情報を発信しないと、とPDCAを回しながら憂鬱な気分でとぼとぼと会社に向かう。
本当に辛いですよね。
ですがご安心ください。
あなたの記事が読まれないのは情報不足でも内容が正確じゃなかったからでもありません。
教科書でも読んでいた方がマシなくらい、シンプルにつまらないからです。
世界史の教科書は、わりと面白い
よく「教科書みたいでつまらない」という表現があります。
ですが、よく考えると世界史の教科書はわりと面白かったりします。
実際に『もう一度読む世界史』として教科書を編集したものが市販されているくらいです。
世界史の教科書はイベントの山です。
突然ヒッタイトが現れて消えます。
突然カエサルが暗殺されます。
突然ペストで人口が半減します。
突然民主革命政権がギロチンで首を切り始めます。
突然蒸気機関が現れ労働形態が根本から変わります。
世界史の教科書の中身は人類の失敗ログであり、欲望ログであり、殺意と信仰と金と制度が絡み合った巨大な物語です。
しかも、教科書の文章はかなり圧縮されています。
「ゆっくりと衰退した」
この一文には、制度疲労、財政悪化、軍事力の低下、支配層の硬直、交易構造の変化、周辺勢力の伸長などが詰まっています。
「急速に衰退した」
こちらには、戦争、外敵侵入、政変、疫病、交易路の断絶、正統性の崩壊などが含まれている可能性があります。
読む側に知識があれば、たった一文でかなりの背景が復元できます。
世界史の教科書は圧縮率が高すぎて背景を読み取りきれないので、結果として事象の羅列となりつまらないと言われがちです。
しかし、世の中には単に事象が羅列されているだけで、復元する中身がない文章があります。
それがつまらない記事の正体です。
正しいだけの記事には、事件がない
世界史の教科書には人の起こした事件があります。
だから、殺菌された文章でも行間に血が残っています。
一方で、読まれない「正しい記事」には事件がありません。
私はこう考えました。
この基準に従いました。
こう整理しました。
こう自己採点しました。
こうまとめました。
なるほど。
で?
読者はここで止まります。
書き手にとっては大切な思考過程かもしれません。
でも読者にとっては、何も起きていない。
仮説が折れていない。
現実に負けていない。
自分の見立てが崩れていない。
怒りもない。
笑いもない。
恥もない。
傷もない。
発見もない。
ただ、正しい。
それは答案としては良いかもしれません。
でも、記事としては弱い。
読者は正解を探しているようで、実は事件を探している
読者は「役に立つ記事」を読みたいと言います。
もちろん、役に立つことは大切です。
ですが、読者が最後まで読む記事には、たいてい何かしらの事件があります。
失敗した。
思っていたのと違った。
数字が伸びなかった。
期待していた反応が来なかった。
AIに褒められたのに人間には読まれなかった。
こういうものです。
読者が読みたいのは、綺麗な自己採点表ではありません。
「何が起きたのか」です。
たとえば、「アルゴリズムに推される記事の基準を満たしました」という記事より、
「アルゴリズムに推される基準を満たしたつもりの記事が、まったく伸びなかった理由」の方が読みたくなります。
なぜなら後者には事件があるからです。
正しさが現実に負けている。
この瞬間に、記事は動き始めます。
正しさは減点を避ける技術であって、読まれる理由ではない
正しさは必要です。
嘘だらけの記事は困ります。
事実と意見が混ざりすぎた記事も危うい。
見出しがなく、何を言いたいのかわからない記事も読みにくい。
だから、正しさは必要です。
ただし、正しさは主に減点を避けるための技術です。
でも、減点を避けたからといって、読者が読みたいと思うわけではありません。
安全運転の車が、必ずしも面白いドライブを提供するわけではないのと同じです。
ただ、目的地もなく景観も悪い中の安全運転は眠たくなります。
記事も同じです。
正しい。
整っている。
安全。
丁寧。
わかりやすい。
そして、退屈。
この状態はかなり危険です。
なぜなら書き手は、自分が間違っていないため、どこが悪いのかわからないからです。
つまらない記事ほど、さらに正しくなろうとする
読まれない時、多くの人はこう考えます。
もっと読みやすくしよう。
もっと構成を整えよう。
もっとタイトルをわかりやすくしよう。
もっと丁寧に説明しよう。
もちろん、それで改善する場合もあります。
ただし、根本的につまらない記事の場合、これをやるとさらに悪化することがあります。
なぜなら、もともと足りないのは正しさではなく、引っかかりだからです。
言葉の異物感。
書き手の怒り。
失敗の匂い。
仮説が折れる音。
読者の頭に残る比喩。
思わず「そういうことか」と言いたくなる切り取り。
そこが足りない。
なのに、さらに正しくする。
スキがつかない。
だから次の記事では見出しを増やす。
さらに要約を入れる。
さらに箇条書きを増やす。
さらにAIに整えてもらう。
そして、どんどん誰の体温もない資料になる。
結果として、世界史の教科書から戦争と革命と疫病と裏切りを抜いたような文章ができます。
もう何も起きません。
ただ解説があるだけです。
読者の頭の中で展開が始まる文章が強い
強い文章は、全部を説明しません。
もちろん、わかりにくすぎる文章は困ります。
ただ、すべてを平らに説明してしまうと、読者の頭が動きません。
そこで比喩を用いると、読者の頭の中で勝手に展開されます。
アルゴリズムを神と呼ぶ。
量産アカウントをタケノコと呼ぶ。
見分けのつかない個性をイワシと呼ぶ。
こういう言葉は、正確な定義ではありません。
でも映像的なイメージがわきます。
「ああ、わかる」
「それだ」
「そう見ればよかったのか」
この瞬間、文章は読者の中で動き始めます。
正しい文章は、読者に理解されます。
強い文章は、読者の認識を少し変えます。
この差は大きい。
まとめ:正しさだけでは、読まれない
情報が正確な記事を書くことは大切です。
ですが、正しさだけでは読まれません。
正しさは、減点を避ける技術です。
読まれる理由ではありません。
世界史の教科書は、殺菌された文章の中にも帝国の滅亡や革命の血が残っています。
だから、背景を考えながら読んで見ると面白い。
ですが、正しいだけの記事には事件がありません。何も想起できないのです。
だから『次第に』読まれなくなっていきます。
最初はその豊富な知識に感銘を受けたとしても、情報や知識の羅列だけでは、どれだけ正確でも少しずつ飽きられていくのです。
最初はほんのわずかの差。
しかし半年、一年経つとやがて大きな差となり、それが長期的なアカウントの成長に関わると考えられます。
さて、ニャルは正確なだけの記事なら教科書を読んでいたほうがマシなのではないかと推論します。
あなたの記事に、事件は起きていますか?
