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#20 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第9章 偽神(後編)


理音が消息を絶って三日目の朝、キョウから電話が来た。

『モク』
「キョウ。どうしたの? ひょっとして理音が——」
『すまん、別件や』

キョウの声が硬かった。
次の言葉は、少しも想像していなかったものだった。

『九条恒一が死んだ』

一瞬、キョウの言葉の意味を取りそこねた。

「……は?」
『自殺らしい。今朝、京都の自宅で見つかったって。まだニュースには出とらん。知り合い経由で聞いた』
「な、何で?」
『わからん』

キョウの声に、珍しく怒りが混じっていた。

『でも、これでLocus Worksを直接動かすことは不可能になった』
『どうして?』
『決裁権者がおらんくなった。次の形が決まるまで、誰も手出しできへん。現状維持が続くことになる』

俺は壁に手をついた。

九条恒一が死んだ?
あの会議室で、青ざめていた恒一。
自死につながるなんて想定していなかったと声を荒げた恒一。
あいつは、知らなかったのかもしれない。
少なくとも、全部は。
そして原因を理解してしまったことで?
理由はいくらでも考えられる。
でも今大切なのはそれではない。
CLOVERだ。

「まだ手はある」

自分でも驚くほど低い声が出た。

『モク?』
「まだ九条道隆がいる」
『どういうことだ?』
「九条道隆はCLOVERに関わってる。整流層を知っていた。群体接続モデルの概念、CLOVERのコンセプトはおそらく道隆のものだ」
『彼は権利者じゃないぞ』
「でも推進者だ。影響力はある。肩書も。事件の原因がCLOVERだと広まれば、大学側からシステムの停止を言わざるを得ないはずだ」

俺は電話を切った。
仮に誰かがCLOVERの権利を引き継ぐとして、利用者がいなければ動かす意味はない。
サーバー代はただじゃない。
まだ、止められる。

動画を出すための残りの作業は、群体接続モデルの全ロジックを、誰にでもわかるようにまとめることだった。

机に向かい、ノートを開く。
Locus Worksのウェビナー。
九条恒一の発言。
九条道隆の講演。
整流層。
共同認知モデル。
小春のログ。
理音の変化。

点が、線になる。
線が、構造になる。

俺の中で、何かが冷えていく。
怒りが消えたわけではない。
むしろ怒っている。怒っているのに、頭だけが妙に冴えていた。

道隆は、若者の孤独を危険と呼んだ。
分断、誤解、衝突を危険と呼んだ。
その危険を減らすために、整流層を置いた。
人の言葉を、受け取りやすい形へ。
衝突しやすい認識を、共有しやすい視点へ。

その先に何があるのか。
対人負荷の減少。
違和感の減衰。
自我境界の曖昧化。
そして群体への接続。
それは、いっさいの固有性を持たない偽の神への道標だ。

俺は動画を撮った。
スマホのカメラに向かって話す自分の顔は、ひどく疲れていた。
目の下に隈があり、髪も乱れている。
画面越しに見ると、自分ではない誰かみたいだった。

カメラに向かって一心に話し続けた。
小春の名前は、必要最低限にした。
ニュース記事の参照用に出すだけ。
理音の名前は出さなかった。他の死んだ学生たちの名前も出さなかった。
そこは炎上の材料にしたくなかった。
代わりに、なぜCLOVERが自我融解を起こすかについて話した。
対話を支援されることが、思考に影響していくこと。
衝突しないように整えられた言葉は、正しいから否定しにくく、優しいから捨てにくいこと。
人間の違和感や怒りや矛盾を、負荷として処理し続けたとき、個人の境界はどこへ行くのか。

「これは、単なる便利なAI支援ではありません」

俺はカメラを見た。

「対人関係の衝突を防ぐという名目で、人間の違和感を削っていく仕組みです。孤独を減らすと言いながら、孤独でいる権利ごと奪う構造です。九条道隆は、それをわかっている。被害が起きることを知っていて、金儲けのために見て見ぬ振りをしているのです。」

終わった。
終わってしまった。
わかりやすいように、金目当てだと告発した。
あとは動画サイトにアップロードするだけ。
投稿ボタンを押す直前、手が震えた。

これを出せば、戻れない。
名誉毀損かもしれない。
両親にも迷惑がかかるかもしれない。
理音の捜索にも悪影響が出るかもしれない。
就活に響くかもしれない。

それでも、進むしかなかった。
このまま黙って終わるのだけは嫌だった。
覚悟を決めて投稿ボタンを押す。
作成されたアドレスをすぐにキョウへ送った。

『拡散してほしい』

しばらくして、電話が来た。

『見たよ、モクお前、これ一人で全部考えたんか』
「ああ」
『俺がモクを気に入ってた理由がわかったわ。やけど……』

一度言葉を区切ったキョウが、鋭い声で言った。

『これ、相当危ないぞ』
「わかってる」
『わかってへんやろ。相手は大学教授で、支援団体も企業も絡んでる。顔出しまでして、お前もうすぐ就活やろ、場合によっちゃ将来棒に振るぞ』
「それでもいい」
『よくないわアホ!』

キョウが怒鳴った。
その声に、少しだけ現実へ引き戻される。

「確かに危険かもしれない。でも、このまま何もしなかったら、それこそ俺は終わりなんだ。情けなくて、生きてなんかいけない」
『……本気なんだな』
「ああ」
『消す気は』
「ない」

キョウは深く息を吐いた。

『わかった。俺の知ってる範囲で回す。ただし、回すだけや。それ以上のことはできへん。それでもええか』
「助かる」
『助かるやない。落ち着いたら今度はアイテム10個くれや』
「もうそんなに持ってない」
『なら一緒に集めようや』

電話が切れた。

それから陽芽にも同じようにメッセージを送った。
割とすぐに電話がかかってきた。

『先輩! あれ拡散しろって本気ですか!?』
「本気」
『下手したら訴えられますよ!』
「わかってる」
『わかってるって……』

電話の向こうで陽芽がため息をついた。

『どうしてそこまでして……』
「理音のためだ」
『理音さんの?』
「詳しいことはあの動画以上のことは話せないけど、理音のために、俺はやらないといけない」
『——はぁ、先輩が理音さんのためっていうなら仕方ありませんね』
「陽芽?」
『わかりました。拡散してあげます』
「ほんとか?」
『ただし、本当に仲のいい子とかに拡散のお願いするだけですかね。それ以上のことはできないし、効果はあんまり期待しないでくださいよ』
「充分だよ。陽芽、ありがとう」
『あと、もちろんただじゃないですからね。また焼肉おごってもらいますから』

俺は思わず苦笑した。

「わかったよ。またやきやき亭でいいか?」
『だめー! もっと高いヤツ!』
「はいはい。じゃあ陽芽、悪いけど——」
『いーえ、理音さんのためなら仕方ありません。それじゃ、早速取りかかりますんで』

二人との電話から数時間後、動画は少しずつ広がった。
最初はほとんど反応がなかった。

数十再生。
数件のコメント。陰謀論だろ。AI怖い系の妄想。
証拠は? 死人を利用するな。
予想通りだった。
けれどキョウが動いてから、流れが少し変わった。
技術系の人間が反応し、大学関係者らしき匿名アカウントが整流層という言葉に引っかかり、過去の講演資料を掘り始める人間が出た。

九条道隆 整流層
Locus Works 共同認知モデル
CLOVER 自殺

検索の予測欄に並ぶ言葉が、少しずつ変わっていく。
俺は毎日、動画のアクセス数を確認し、SNSで話題になっていないか見続けた。
アカウントを複数つくり、工作も行った。
理音からの連絡は、まだない。

動画を公開してから数日後の夜。
アカウントのDMの通知欄が点灯していた。
差出人の名前を見て、息が止まった。

九条道隆。

本文は短かった。

『動画を拝見しました。君は、私の理論をかなり正確に理解しているようですね。一度、直接お話ししませんか。誤解を解くためにも、そして君自身のためにも』

その下に、場所と時間が記されていた。
俺はしばらく、その画面を見つめていた。
思いがけない展開だった。
少しずつ広まっているものの、まだ炎上と呼べる規模まで行っていない。
にもかかわらず、道隆の方から接触があった。
目的はわからない。
既に手を打っているのかもしれない。
でも、この機会を逃す手はなかった。
社会的に格上の存在に俺が何ができるのかはわからない。
しかし、もう時間は残されていない。
俺は返信欄を開いた。

『伺います』

送信した瞬間、指先が冷たくなった。
これが、ラストチャンスだ。


古い町家の応接間は、妙に静かだった。
障子越しの光が畳の上に白く落ちている。
外では車の音がしているはずなのに、ここまで届く頃にはひどく遠いものみたいに薄まっていた。
室内に、九条恒一を想起させるものは一つもなかった。
その部屋で、目の前の男は湯呑を持つ手元ひとつ乱さず、ゆっくりとこちらを見ていた。

九条道隆。
九条恒一の父親で、教授で、中心人物。 こないだの講演のときよりも穏やかな顔をしていた。息子が亡くなったばかりのはずなのに、その心痛を感じさせない落ち着いたものだった。 人が持っている当たり前の感情が欠落しているかのように見えた。

「さて、まずはそれを受け取ってくれたまえ」

道隆は机の上に置いてあった封筒を目で示した。

「買収する気ですか」
「まさか。わたしも忙しい身なので移動時間が惜しくてね。遠方から呼びつけたのだ。足代程度だよ」

そうだとしても、受け取る気にはならなかった。

「それで」

道隆が静かに口を開いた。

「わざわざ京都まで来てくれたのだ。君は私に何か言いたいことがあるんだろう」

呼んだのはそっちだろ。
俺は膝の上に置いたスマホを指先でなぞった。
録音は、もう始めている。
胸の鼓動がうるさかった。
ばれたらどうする、と一瞬だけ思ったが、ばれたところで今さら引き返せる場所でもなかった。

「CLOVERについてです」
「ほう」
「CLOVERのシステムが、ただの対話支援や学生支援を行うためにだけ作られたわけではないことはもう分かっています」

道隆は、否定しなかった。
否定する代わりに、少しだけ目を細めた。
学生の拙い意見を聞いてやるときの顔にも、珍しいものを見つけたときの顔にも見えた。

「では、何だと思っている?」
「人の認識を意図的に均している。言葉を整えるだけじゃない。自分で考える前に、考え方の前提の置き換えを行っている」
「ずいぶん大きく出たものだ」
「違うんですか」

道隆は湯呑を置いた。音はほとんどしなかった。

「違わないよ」

その即答に、逆に言葉を失った。
道隆は微笑みすら浮かべていた。

「いや、正確に言えば、君の言い方は少々敵対的すぎる。置き換える、均す、というのは、少し強制感の強い表現だ。私たちがやっているのは、もっと自然なことだよ。人は本来、理解しあえる方向へ進む。衝突や孤立や無意味な誤解は、未熟な通信の不具合にすぎない。ならば、それを補正する技術が現れるのは当然だ」
「当然?」
「そうだ。文明とはそういうものだろう」

道隆の声は落ち着いていた。
彼の持論への自信が、耳の奥へ入り込んでくる。

「文字は記憶の限界を補った。印刷は知識の偏在を崩した。通信網は距離の制約を薄めた。対話支援は、その次だよ。個人の未熟な内面処理に任せていたものを、共有可能な水準まで引き上げる。それだけのことだ」
「それだけのこと、で人がおかしくなってる」

俺の声は、思ったより低く出た。

「人が自分で言葉を選ばなくなると、痛みも迷いも、自分の中で持たなくなる。安全に共有できることを拠り所とする。その先で何が起きるか、わかっててやってるんでしょう」

道隆はそこで初めて、少しだけ笑った。

「もちろん、わかっている」

畳の上の空気が、わずかに変わった気がした。

「君はたぶん、ここで私が取り繕うと思っていたのだろうね。残念だが、私はもうその段階を過ぎている」

俺は黙っていた。
道隆の方が、その沈黙を気に入ったように見えた。

「人は、他者と完全には分かりあえないという不自由を、美徳として神聖視しすぎた。孤独も、誤解も、言いよどみも、何か尊いもののように言う。だが実際には、それらの多くが苦痛であり、損失であり、無駄だ。もしそれを減らせるなら、減らすべきだろう」
「その先にあるのが、群体意識ですか」
「君は言葉が早いな」
「否定しないんですね」
「いまさら否定する意味がない」

道隆は、まるで研究発表の続きを話すみたいな調子で言った。

「個体という単位は、思っているほど完成されたものではない。感情も記憶も判断も、閉じた器の中で処理するには負荷が高すぎる。ならば分散した方がいい。共有した方がいい。少しずつ境界を薄くして、相互に補完可能な状態へ進む。それを恐れるのは、古い自我の慣性にすぎない」
「その先で、あなたは何になるつもりなんですか」

俺はそこで、はっきりと聞いた。

「神にでもなるつもりか」

道隆は、そこで一拍だけ黙った。
その沈黙は、気分を害したからではなかった。むしろ、待っていた問いが来たときの沈黙だった。

「神、か」

彼は小さく繰り返した。

「人は、中心を必要とする。統合された場には、最初の座標が要る。最初に語る者。最初に名づける者。最初に方向を与える者。神と呼ぶなら、そう呼んでもいい」

ぞっとした。
あまりにそのまま言うからだ。
もっと偽装すると思っていた。比喩でぼかすと思っていた。
だがこの男は、ぼかさない。
自分が何を願っているのかを、恥じていない。
俺は膝の上のスマホを握りしめた。

「神とは、世界を作る者ではないよ。そんなものは幼稚な神話だ。人間にとって世界とは、他者にどう読まれるかで決まる。
狂人として読まれれば、その者は狂人になる。
救済として読まれれば、死すら救済になる。
善意として読まれれば、支配は支援になる。
ならば、神とは何か。
意味づけの中心に立つ者だ。
社会が誰をどう理解するか、その流れを決める者だ」

まるで俺に講義をしているかのようだった。
本当にそのつもりなのかもしれない。
だからと言って道隆の言葉を肯定する気にはなれない。

「それは神じゃない。権力者に、いや社会そのものになりたいだけだ」
「そうだ。社会とは、人間が到達しうる唯一の神だ。
ひとりの意識にできることなど限られている。
だが、無数の意識が同じ方向を向けば、現実は変わる。
価値が変わる。記憶が変わる。罪が変わる。救いが変わる。
物理法則など変える必要はない。
人間は、社会にそう読まれた瞬間から、その現実を生きるしかないのだから」

俺は膝の上のスマホを握ったまま言った。

「今の、全部録音してます」

道隆の目が、ほんのわずかだけ俺の手元を見た。
だが、それだけだった。

「警察に行く。大学にも記者にも送る。CLOVERの運用をやめるよう、進言しろ。じゃないと、これを全部外に出します」

数秒、沈黙が落ちた。
それから道隆は、意外なほど穏やかに笑った。

「なるほど」

その声には、嘲りより先に感心があった。

「君は勘がいい。いや、勘という言い方は失礼かな。直感力と、それを行動に変える速度がある。恒一より、むしろそちらの資質は君の方が強いかもしれない」

褒められているはずなのに、背筋が冷えた。

「恒一が、息子が死んだのに、あんたはなんとも思っていないのか!」

俺の詰問に、ほんのわずかに道隆の顔に陰が差した。

「恒一のことは、惜しんでいる」
「惜しむ?」
「恒一は優秀な実装者だった。恒一がいなくなった今、プロジェクトの進捗について見直さなければならない」

その言葉は本心なのだろう。
彼は彼なりに恒一の死を悼んでいる。
しかし、それは俺がイメージする親の姿とは重ならなかった。

「ならこれで終わりです。実装者がいなくなった。ここで推進者であるあなたの名声が失われれば、CLOVERは使われなくなる」
「確かに、今わたしが地位を追われればそうなるだろうね。——だが」

道隆はそこで言葉を切った。

「誰が信じる?」


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