#19 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
第9章 偽神(前篇)
理音の家からの帰り道、俺はずっとCLOVERを止めるためにはどうすればいいか考えていた。
恒一の言っていた通り、CLOVERは社会実装され普及したプロジェクト。
恒一ですら明確な根拠がないと止めることは無理なんだろう。
しかし、それはあくまで正規の手段にのっとった場合のみだ。
現代には、一人の人間が特定の企業の活動を中止に追い込める手段が一つだけ存在する。
キャンセルカルチャー、すなわちネットを用いた炎上だ。
告発動画を制作して炎上させ、CLOVERを停止に追い込む。
恒一は複数の大学などが関わっているから止められないと言っていた。
しかし、だからこそ教育機関で使うにはふさわしくないというイメージを世間に植え付けることができれば、
少なくとも一旦は止めることはできるはずだ。
これなら明確な証拠なんて必要ない。
もっともらしい理由と、話題性さえあれば拡散される。
勝算はある。
幸いにして夏休みは始まったばかりだ。
俺はその日から、他の一切のことには目を向けず、CLOVERの人格同化のスキームの考察と、動画のシナリオ制作に没頭した。
食事もそこそこに、ひたすらPCに向かって作業を続ける。
時間がどれほど残されているかわからない。
少しでも早く理音をCLOVERの影響から遠ざけないといけない。
動画制作の傍ら、定期的に理音に様子伺いの連絡を送る。
Locus Worksから立ち去るとき、俺は恒一に小春と理音のアカウントを凍結するように告げていた。
だから理音が今まで使っていた、小春や理音のアカウントにログインすることはできなくなっている。
しかしそれで理音のCLOVER利用を完全に止められたかどうかはわからなかった。
CLOVERは招待制ではあるが、招待制だからこそ招待コードそのものに価値がある。
実際、オープンなSNSでは学内の就活グループや研究会、イベント参加者の間では、招待権が半ば名刺代わりに流通していることが示唆されていたし、少し探せば招待コードを売っている人間もいる。
使われているSNSは、広まるようにできているのだ。
理音は夏期講習のバイトがあるということで、外には普通に出ているようだった。
以前の理音と雰囲気が違ったとしても、表向きは落ち着いて柔らかい雰囲気になっただけ。
記憶の混同なんて、よほど親しくなければ気づくはずもない。
その事実に気づいたとき、俺はこの現象に改めて恐怖を覚えた。
俺は、たまたま理音のことを昔からよく知っていたから気づいた。
しかし気づいていないだけで、群体接続が始まっている人間は他にもいるのではないだろうか。
俺は、すぐにこれがただの可能性ではないことに気づいた。
既に起きていることは明らかだった。
小春とほぼ同時に4人死んでいるのだから。
あれは群体接続した結果の同調行動なのだ。
だから、相互に連絡を取った形跡が残っていなかったんだ。
意識がどこかでつながっているなら、ツールで連絡を取り合う必要なんてない。
そして俺は、そこから一つの結論を導き出していた。
――自我の溶解による同化は、特定の誰かとだけでは終わらない。
終わるはずがないのである。
ヨツハは一つ中枢で、多数のユーザーの思考を整流している。
小春の形式が強く採用されたのは、最も多くのユーザーが安心して使える、つまり利用率のあがる形だからに過ぎない。
同時に複数の人間が整流されていくのだとしたら、
特定の誰かと誰かではなく、いずれ全体と混ざり合うことになるはずだ。
今の理音は、小春の人格の影響を強く受けている。
それは理音がそうなりたいと願ったから。
しかし、さらに接続が進んでいった先では、いずれ小春でも理音でもない別の何かに変質してしまいかねない。
――虚ろなる群体の神。
他の誰でもあり、他の誰でもない。
集合意識とでも呼ぶしかない何かに。
そうなる前に、CLOVERを止めて、理音の認識の汚染を止める。
ネット通販で購入した動画撮影用の機材が届き、大まかなシナリオを書き終えた日の夕方。
俺は理音に呼び出されて、近所の公園に向かった。
あの京都への旅から既に十日あまりが経過していた。
お互いの家から同じくらいの距離にある小さな公園。
理音と接点ができてからよく遊んだ公園。
こうしてくるのは何年ぶりだろうか。
中学の卒業式の帰りに寄って以来か?
8月の空気が重い。木陰に入っても、湿気が肌にまとわりつく。ベンチに腰を下ろすと、理音はしばらく黙っていた。
俺も黙っていた。
先に口を開いたのは理音だった。
「せいちゃん、最後にここに来た日のこと覚えてる?」
「ああ、中学の卒業式の帰りだろ」
「そっか」
「そっかってなんだよ」
理音は少しだけ笑った。
「最近ね、昔のことが正確に思い出せないんだ」
恐れていた通りだった。
京都から戻って以来、俺はずっと群体接続のロジックについて考え続けていた。
だから今、理音の身に何が起きているのか、推測できていた。
「自分だけじゃない。小春の記憶も、少しずつぼやけてきてる」
群体接続が進むと記憶が失われる。
というより、自分の記憶でなくなっていく。
膨大な情報の本流の中で、どれが自分の記憶なのか引き出せなくなっていくんだろう。
「何度も何度も読み返して、羨ましくて。そうなりたくて、必死に覚えたのに……」
理音の声は、途中でかすれた。
それが理音の記憶なのか、小春の記憶なのか、もう彼女自身にも選べなくなっている。そう見えた。
「今日だって、自分が何をしていたのか全部をはっきり思い出せない。だからわたしが、わたしであったときに、せいちゃんに連絡した」
そこで一度、理音は息を吸った。
笑おうとして失敗したみたいに、唇だけが少し動いた。
「怖い、怖いよせいちゃん」
今の彼女の人格が理音なのか小春なのか、俺にはもはや判断がつかない。
しかし、そんなことはもうどうだってよかった。
大切なのは、俺が彼女をどう認識するかで、答えは最初から決まっていた。
「理音」
俺は理音を見つめ、その細い手を取った。
理音が体をピクリと震わせた。
「――せいちゃん?」
「せいちゃんって呼ぶな」
「――なんでだめなの?」
理音の目尻に涙が浮かんだ。
俺はその理由をようやく理解できた。
あまりにも遅すぎた。
「理音は理音だから」
「理音って何?」
理音は少しだけ目を細める。
「……哲学的なこと聞くな」
「でも、大事だよ」
理音は俺の手を振りほどくと、膝の上で指を組んだ。
「どこまでなら理音なの。髪を切ったら? 言葉が柔らかくなったら? 小春のことを考える時間が増えたら? 小春のように誠司のことを好きだって言ったらどうするの?」
「全部だよ」
俺はもう一度理音の手を取った。今度は先程よりも強く。理音の指先は俺より少しだけ冷たかった。
「全部理音だ」
「え?」
「子供の頃からずっと一緒にいた。その俺が理音っていったら全部理音なんだ」
「何、それ……」
俺は理音の手を引き、抱き寄せた。
「理音、好きだ」
「それは、わたしが小春に——」
「違う。昔からずっと一緒にいた、短気で、きつくて、ちょっと怖くて」
「少し言い過ぎじゃない?」
「でもずっと一緒にいて、見捨てずにいてくれて、たくさん遊んだ理音のことが好きなんだ」
「誠司……」
理音の両手が俺の両袖をギュッと掴んだ。
「でも、これじゃあ小春に——」
「小春はもういない!」
胸が痛んだ。
俺は、小春に対して酷いことを言っている。
酷い仕打ちをしている。
でも、俺は気付いていた。
そうやって、自分だけを安全で正しい立場に置こうとしていたから小春を傷つけ、理音をここまで追い込んだということに。
もう間に合わないかもしれないとしても、また同じことを繰り返すわけにはいかなかった。
「理音、俺はもう小春の影を追わない。だから理音、小春になろうとしなくていい。俺は理音が好きなんだ」
「誠司……遅い、遅いよ」
「ごめん」
理音の言うとおりだった。
でも、遅いから言わないという選択肢はもう俺の中にはなかった。
俺は腕の中で泣きじゃくる理音を、落ち着くまでずっと抱きしめていた。
俺は理音が落ち着いたところで、彼女を家まで送った。
別れ際、理音は俺の方を振り返って言った。
「またね、誠司」
「ああ、またな」
俺は頷いて軽く手を上げると、自宅に向かって歩く。
CLOVERに触るな。
それを理音に伝えることにもう意味はなかった。
理音の言葉から考えると、既に意識のかなりの部分が群体意識と同化しつつある。
理音が触らなかったとしても、群体はCLOVERを動かす。
より安定した群体となるために。
系が安定を求めるのは自然法則のようなものだ。
一刻も早く、CLOVERを止めるしかない。
俺は家に帰ると、理音にメッセージを送った。
『また明日逢おう。お休み』
それから夜更けまで、動画の準備を再開する。
気絶するように寝落ちして、朝起きてスマホを見ると既読がついていなかった。
理音とメッセージをやり取りするようになってから、初めてのことだった。
胸騒ぎがした。
再度理音にメッセージを送る。
返事はない。
電話をかける。
出ない。
しばらくまっても折り返しもこなかった。
焦りのあまり、動画の制作も手につかない。
数十分ごとにメッセージや電話を繰り返す。
昼過ぎ、理音の母親から電話が来た。
『誠司くん、理音、そっちに行ってない?』
意味を理解した瞬間、血の気が引いた。
「来てないです」
『昨日の夜から、少し様子がおかしくて。朝には部屋にいなくて。荷物はほとんどあるの。でもスマホがなくて』
「警察には」
『今、相談してるところ。誠司くん、何か知らない?』
何か。
知っている。
知っていることは山ほどある。
でも、何から言えばいい。
CLOVER。小春。せいちゃん。群体接続。
どれを言っても、狂っているようにしか聞こえない。
「……すみません。昨日、少し話しました」
『何を?』
「理音のこと好きだって」
電話の向こうで、理音の母親が息を呑むのがわかった。
『そう……。ありがとう』
涙声だった。
「理音を探します」
『誠司くん』
「探します」
『あなたも無理しないで』
やめてくれ。
そう言いたかった。
俺はあなたに優しくされる資格はない。
でも、言えなかった。
電話を切って、俺はすぐにキョウへ連絡した。
『理音がいなくなった』
通話が来た。
『どういうことや!?』
「説明は省くけど、おそらく理音の意思じゃない」
『行きそうな場所に心あたりは?』
「——わからない」
これが理音の行動なら、探し当てられる可能性はある。
しかし、これが誰の意思による行動か、もうわからない。
『スマホは?』
「持って出たみたいだ」
『位置情報は——』
「俺には見られない」
『そうやわな……』
キョウが少し黙ったあと、俺に尋ねた。
「京都に行った可能性は?」
「ある」
今となっては小春の記憶が影響している比率は低いかもしれない。
しかしCLOVERは元々関西の私大で利用率が高い。優先的に探す意味はある。
「キョウ、頼みが——」
『みなまで言うな。俺は京都のほうでやれるだけあたってみるわ。モクはそっちの心あたりの捜索に専念せぇ』
「キョウ、ありがとう」
『一緒に京都観光した相手やからな。当たり前や』
俺はキョウとの電話を切ると、自宅を飛び出した。
それから数時間、俺は大学、図書館、駅、理音が行きそうな場所を回った。
夜になっても、理音は見つからなかった。
その次の日も。
・次回
・前回
