武甕槌を追う②──多氏系譜に包まれた磯城・三輪祭祀の記憶
はじめに
前回のnote記事「武甕槌を追う―記紀が沈黙した90年」では、常陸国の鹿島神宮に祀られる神のルーツを辿るなかで、「多氏」という氏族の存在に行き着いた。
さらに多氏の足跡を辿ると、その本拠とされる大和国十市郡へとつながる。
そこには、多氏ゆかりの多坐弥志理都比古神社、通称・多神社が鎮座している。
そして、この多神社で多氏の祖神として祀られているのが、神八井耳命である。
神八井耳命は神武天皇の皇子であり、記紀において多氏をはじめとする諸氏族の祖に位置づけられている。神武天皇の皇子を祖とすることから、多氏は記紀上、最初期の皇別氏族の一つに位置づけられる。
しかし、記紀に描かれる神八井耳命は不思議な人物である。
神武天皇の皇子でありながら、皇位を弟の神沼河耳命へ譲り、古事記では「忌人」として、日本書紀では神祇をつかさどる者として弟を支える側にまわる。
「忌人」の意味をどこまで広げるかにもよるが、日本書紀の記述と合わせれば国家経営の政のうち、「政治としての政」は弟へ。「祭祀としての政」を兄の神八井耳命が分担したかのような構造にも見えなくもない。
ところが、『古事記』も『日本書紀』も、神八井耳命が具体的に何を祀ったのかを記していない。
祭神も、祭祀地も、後裔氏族のうち誰がその祭祀的職掌を継承したのかも、明確には示されない。
神八井耳命とは、いったい何者だったのか。
そして、なぜ神武天皇の皇子である彼が、王位ではなく祭祀を担う人物として位置づけられたのか。
この問いを考える糸口の1つは、神八井耳命の母系である。
『古事記』では、神八井耳命の母・比売多多良伊須気余理比売は、大物主神の娘とされる。『日本書紀』では、媛蹈鞴五十鈴媛命は事代主神の娘とされる。
両書の伝承は同一ではない。
しかしいずれも、神武王統の皇子である神八井耳命を、父系とは異なる神統へ母系から接続している。なかでも『古事記』が神八井耳命を大物主神の外孫に位置づける点は、その「忌人」という役割の背後に、磯城・三輪の祭祀伝承があるのではないかと考える手がかりとなる。
本稿が検証するのは、次の仮説である。
神八井耳命の「忌人」という役割には、神武王統以前、あるいはそれと並立して磯城・三輪地域に存在した祭祀勢力の記憶が重ねられているのではないか。
そして多氏系譜は、その旧祭祀勢力を神武王統の傍系へ位置づけ直すための、系譜的な枠組みとして機能したのではないか。
つまり、磯城・三輪にいた古い祭祀勢力の記憶が、神八井耳命を祖とする多氏の系譜の中に包み込まれたのではないか、という可能性をここでは考えてみたい。
第一章 皇位を譲り、祭祀を担う
神八井耳命は、神武天皇の皇子として登場する。
神武天皇の崩御後、異母兄の当芸志美美命は、神八井耳命と弟の神沼河耳命を殺そうと企てる。これを知った兄弟は、先に当芸志美美命を討とうとする。しかし『古事記』では、神八井耳命は手足が震え、武器を取って当芸志美美命を討つことができなかった。代わって弟の神沼河耳命が、当芸志美美命を討つ。神八井耳命は弟の武勇を認め、皇位を譲った。そして、自らは弟を助け、「忌人」として仕えると宣言する。
『日本書紀』にも、ほぼ同じ構造の物語が記されている。
ただし、『日本書紀』は「忌人」という語を用いず、神八井耳命が弟を補佐し、神祇をつかさどる者となることを申し出たと記す。
両書の表現には違いがある。
しかし、神八井耳命が王位を弟へ譲り、その後は祭祀によって弟王を支える立場に置かれたという点では共通している。
ここで重要なのは、神八井耳命が単に皇位継承から脱落した人物として描かれているのではないという点である。
武力によって敵を討ち、王位を継ぐのは神沼河耳命である。一方、神八井耳命には、王権を祭祀の面から支える役割が与えられる。
王位と祭祀。兄弟は、それぞれ異なる形で神武王統を継承したのである。
そして神八井耳命は、その祭祀的な立場を保ったまま、多氏をはじめとする多数の氏族の祖へと位置づけられていく。
では、『古事記』が記す「忌人」とは、具体的にどのような役割だったのだろうか。
第二章 「忌人」とは何か
『古事記』で神八井耳命に与えられた「忌人」という言葉は、どのような役割を意味するのだろうか。
「忌」とは、神事に際して穢れを避け、身を清め、慎みを保つことを意味する。
したがって「忌人」とは、斎戒や潔斎を行い、清浄な状態を保ちながら神事に奉仕する人物と考えられる。単なる政治的な補佐役ではない。神に仕えるため、日常とは異なる規律のもとに置かれた祭祀者である。
この理解は、『日本書紀』が神八井耳命を、弟王を補佐して神祇をつかさどる人物として描いていることとも重なる。
『古事記』の「忌人」と、『日本書紀』の「神祇をつかさどる者」は、表現こそ異なるものの、いずれも神八井耳命が祭祀的な職掌を担ったことを示している。
ただし、ここで一つの問題がある。
「神祇をつかさどる」という表現だけを見れば、神八井耳命は特定の一神に仕えたのではなく、王権に属する祭祀全般を担当したとも考えられる。
また、この物語を、多氏の祭祀的な職掌の由来を説明する始祖伝承と見ることもできる。つまり、「多氏が祭祀に奉仕するのは、その祖である神八井耳命が、王統初期の段階で祭祀を担ったからである」という説明である。
この理解は、現存する記紀の記述に比較的よく沿っている。
しかし、それだけで問題がすべて解決するわけではない。
神八井耳命が祭祀を担う人物として明確に位置づけられているにもかかわらず、記紀はその祭祀の具体的な内容を示さない。
何を祀ったのか。
どこで祀ったのか。
その祭祀を、どの氏族が受け継いだのか。
「忌人」という役割は記されるのに、その中身だけが見えないのである。
もちろん、祭祀対象が記されていないからといって、意図的に消されたと断定することはできない。記紀の編纂者にとって、神八井耳命の役割を「神祇祭祀の担当者」と示すだけで十分だった可能性もある。
しかし、神八井耳命が多氏をはじめとする多数の氏族の祖へ位置づけられていることを考えると、この祭祀的職掌が、単なる個人的な役割だけで終わったとも考えにくい。
神八井耳命の「忌人」という立場には、多氏の始祖伝承だけでは説明しきれない、より古い祭祀者の記憶が重ねられている可能性はないだろうか。
その手がかりを探るため、次に神八井耳命を祖とする多氏の系譜を見ていきたい。
第三章 神八井耳命と多氏の広がり
『古事記』は、神八井耳命について、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君……など、多数の氏族の祖であると記している。『古事記』では「意富臣」と表記されるが、『日本書紀』綏靖天皇紀では、神八井耳命を多臣の祖とする。
したがって、神八井耳命を多氏の祖とする伝承は、記紀の双方に確認できる。しかし、神八井耳命の後裔とされる氏族を見ていくと、その広がりは大和周辺だけに収まらない。
畿内をはじめ、九州や東国に関係する氏族までが、一人の皇子の後裔として列挙されている。もちろん、氏族が各地へ移住し、世代を重ねながら分岐した可能性はある。後世になって、新たな氏族が有力な祖先系譜へ加わったことも考えられる。したがって、後裔氏族の分布が広いという事実だけで、多氏系譜が人為的に作られたと断定することはできない。
しかし、この系譜を単純な血縁関係の記録として理解しようとすると、疑問も残る。
神八井耳命から自然に枝分かれした一つの血族が、遠く離れた各地に広がったのだろうか。それとも、もともとは異なる由来を持っていた複数の集団が、後に神八井耳命という共通の祖へ結びつけられたのだろうか。
古代の氏族系譜は、必ずしも実際の血縁関係だけを記したものではない。
同じ祖を持つという系譜は、氏族間の政治的な結びつき、職掌の共有、婚姻関係、あるいは中央王権との従属関係を表すこともある。
そのように考えるならば、多氏系譜は、一人の祖から生物学的に分岐した血族の記録というより、各地に存在した複数の集団を、神武天皇の皇子である神八井耳命へ接続するための系譜的な枠組みだった可能性がある。
神八井耳命を祖とすれば、それらの集団は神武王統の傍系に位置づけられる。地方に由来する集団であっても、神武天皇の皇子を共通祖とする皇別氏族として、王統の内部に置くことができるのである。
ただし、この段階で言えるのは、多氏系譜が複数の集団を束ねる枠組みだった可能性までである。
そこに組み込まれた集団が、磯城・三輪地域の旧祭祀勢力だったと断定することは、まだできない。
では、なぜ本稿は多氏系譜と磯城・三輪地域との関係を考えるのか。
その手がかりとなるのが、冒頭でも言及した神八井耳命の母系である。
第四章 神八井耳命の母系
神八井耳命の祭祀的な役割を考えるうえで、見落とせないのがその母系である。
『古事記』では、神武天皇の后・比売多多良伊須気余理比売は、大物主神と勢夜陀多良比売との間に生まれた娘とされる。
したがって、『古事記』の系譜に従えば、神八井耳命と神沼河耳命は、大物主神の外孫にあたる。
一方、『日本書紀』神武天皇紀では、后となる媛蹈鞴五十鈴媛命は、事代主神と玉櫛媛との間に生まれた娘とされる。
『古事記』は大物主神。
『日本書紀』は事代主神。
両書の伝承は同一ではない。
大物主神と事代主神を、初めから同じ神統としてまとめて扱うこともできない。
それでも両書には、共通する構造がある。
日向から大和へ入った神武天皇が、在地の神の娘を后に迎え、その女性から生まれた皇子が王統を継承するという構造である。
父系には、日向から大和へ入った神武王統が置かれる。
母系には、大和あるいはその周辺の土地と結びついた神統が置かれる。
神武王統は、父系だけで完結しているのではない。
在地の神統と婚姻によって結ばれることで、大和を治める王統としての正統性を得る形になっている。
そして、その婚姻から生まれた二人の皇子のうち、弟の神沼河耳命が王位を継ぎ、兄の神八井耳命が祭祀を担う。
整理すると、次のようになる。
父系――神武王統
母系――大物主神、あるいは事代主神の神統
王位――神沼河耳命
祭祀――神八井耳命
ここには、在地神統から受け継いだ正統性を、王位と祭祀という二つの役割に分けて配置した構造を見ることができる。
もちろん、母が神の娘とされるからといって、その子が母方の神を祀ったとは限らない。
『日本書紀』の事代主神系譜も、それだけで磯城・三輪祭祀との関係を示すものではない。
しかし、『古事記』が神八井耳命を大物主神の外孫に位置づけ、その神八井耳命に「忌人」という祭祀的役割を与えていることは重要である。
大物主神は、三輪山に鎮まる神として、後の崇神天皇段で王権の安定を左右する存在として現れる。
その大物主神の外孫が、王位ではなく祭祀を担う人物として描かれているのである。
これは、単なる偶然なのだろうか。
あるいは神八井耳命の「忌人」という役割には、母系を通じて受け継がれた三輪の祭祀的正統性が重ねられているのだろうか。
第五章 弟磯城――記紀が描く磯城勢力の包摂
神八井耳命と磯城・三輪地域との関係を考える前に、見落としてはならない人物がいる。
神武東征の物語に登場する、弟磯城である。
『日本書紀』では、神武天皇が磯城の勢力を攻めようとした際、兄磯城はこれに抵抗する。
これに対して弟磯城は、八咫烏の招きに応じて神武のもとへ参上し、兄磯城が兵を集めて決戦を準備していることを告げる。
兄磯城はその後、神武の軍に敗れる。
一方、帰順した弟磯城は、神武天皇の即位後に行われた論功行賞で、磯城県主に任じられる。
『日本書紀』は、弟磯城の名を黒速と記している。
ここには、磯城の在地勢力が神武王権へ組み込まれる過程が、きわめて分かりやすい形で描かれている。
抵抗した兄磯城は排除される。帰順した弟磯城は、旧来の地域名を冠する磯城県主として存続を認められる。
つまり『日本書紀』の完成形において、磯城勢力は完全に消されたのではない。神武王権に従属する地域支配者として、王権の内部へ位置づけ直されているのである。
ただし、『古事記』の叙述は異なる。
『古事記』は兄師木・弟師木を撃ったと記すだけで、弟磯城の帰順も、磯城県主への任命も語らない。
したがって、弟磯城を通じた磯城勢力の包摂は、少なくとも『日本書紀』が選んだ説明の形として捉える必要がある。
さらに、『古事記』では綏靖・安寧・懿徳天皇の系譜に師木県主系の女性が現れ、『日本書紀』にも磯城県主系女性を后妃とする異伝が繰り返し収められている。
磯城勢力は、地域支配者として王権へ組み込まれただけでなく、婚姻を通して王統の内部にも接続されていく。
ここで一つの疑問が生じる。
磯城勢力が弟磯城を通じてすでに王権へ包摂されていたのなら、神八井耳命と多氏の系譜に、さらに磯城・三輪勢力の記憶が重ねられる必要があったのだろうか。
この問題を考えるには、政治的な支配権と、祭祀的な正統性とを分けなければならない。
弟磯城の物語が示すのは、磯城の地域支配者が神武王権へ帰順し、県主として再配置されたという政治的・地域支配上の包摂である。
しかし、それだけで磯城・三輪地域に存在した祭祀的な権威まで、神武王統の内部へ移されたとは限らない。
本稿が神八井耳命と多氏系譜に見ようとしているのは、その別の層である。
すなわち、磯城・三輪の古い祭祀的正統性が、神武天皇の皇子であり「忌人」とされた神八井耳命の人物像へ重ねられ、多氏の系譜を通して皇別氏族の内部へ置き直された可能性である。
弟磯城は、磯城勢力の政治的包摂を示す。
神八井耳命は、祭祀的正統性の系譜的包摂を示すのかもしれない。
両者を同一人物や同一氏族として結びつける史料はない。
しかし、異なる形で神武王統へ組み込まれた磯城勢力の記憶として、両者を比較する意味はある。
第六章 神八井耳命は三輪山を祀ったのか
ここまで見てきたように、神八井耳命は祭祀を担う人物として描かれ、その母系は『古事記』において大物主神へ接続されている。
また『日本書紀』では、磯城の在地勢力が弟磯城を通じて神武王権へ組み込まれる過程が描かれている。
では、神八井耳命の「忌人」という役割を、三輪山における大物主神の祭祀と結びつけることはできるのだろうか。
神八井耳命が三輪山で大物主神を祀ったと明記する史料は存在しない。
「忌人」という言葉だけでは、祭神も祭祀地も特定できない。
また、大物主神の娘を母に持つからといって、その子が必ず大物主神の祭祀を継承するとは限らない。
したがって、「神八井耳命は三輪山において大物主神を祀った」と断定することはできない。
しかし、神八井耳命の人物像を構成する要素を重ねていくと、三輪祭祀との関係は、単なる思いつきとして退けられるものでもない。
第一に、『古事記』では神八井耳命が大物主神の外孫に位置づけられている。
第二に、神八井耳命は王位を継がず、「忌人」として祭祀を担う。
第三に、その後裔とされる多氏は、神事や祭祀に関わる氏族として伝えられる。
第四に、神武東征の物語では、磯城の在地勢力が神武王権へ組み込まれている。
第五に、三輪山の大物主神は、後の崇神天皇段において、王権と国家の安定を左右する神として現れる。
これらの要素は、それぞれ単独では神八井耳命と三輪祭祀を結びつける証拠にならない。
しかし全体を一つの構造として見るならば、神八井耳命の祭祀的な人物像に、磯城・三輪地域に存在した古い祭祀的正統性が重ねられている可能性は浮かび上がる。
ここで重要なのは、神八井耳命本人が実際に三輪山で祭祀を行ったかどうかだけではない。
本稿が問題にしているのは、神八井耳命の伝承がどのように形作られたのかということである。
神武天皇の皇子でありながら王位を弟へ譲り、自らは祭祀を担う。
その母系は大物主神へつながり、後には多数の氏族の祖となる。
この配置は、磯城・三輪の祭祀的権威を神武王統から独立したものとして残すのではなく、神武天皇の皇子の役割として語り直す仕組みだったのではないだろうか。
すなわち、
磯城・三輪に由来する祭祀的正統性
↓
神八井耳命の「忌人」という役割
↓
神八井耳命を祖とする多氏系譜
という形で、在地の祭祀伝承が皇別氏族の系譜へ包み込まれた可能性である。
ただし、この仮説には大きな問題が残る。
三輪山において大物主神を祀る正統な祭主として、記紀が明確に示すのは神八井耳命ではない。
崇神天皇の時代に見出される、太田田根子である。
もし神八井耳命やその後裔が三輪祭祀の正統性を担っていたのなら、なぜ崇神天皇段では、神八井耳命を経由しない別の大物主系譜に属する太田田根子が、祭主として求められたのだろうか。
神八井耳命と三輪祭祀の関係を考えるには、この太田田根子の存在を避けて通ることはできない。
第七章 太田田根子という正統な祭主
三輪山における大物主神の祭祀を考えるうえで、記紀が明確に祭主として示す人物がいる。太田田根子である。
崇神天皇の時代、国内には疫病が広がり、多くの人々が命を落とした。天皇が神意を問うと、大物主神は、自らの子孫である太田田根子に自分を祀らせれば、国は安らぐと告げる。そこで太田田根子が探し出され、大物主神の祭主とされる。
『古事記』では、太田田根子は、大物主神と活玉依毘売との間に生まれた櫛御方命から、数代を経て連なる子孫として示される。
すなわち太田田根子は、大物主神から連続する父系的な系譜の末端に置かれている。
これに対して神八井耳命は、大物主神の娘を母とする外孫にあたる。系譜上の距離だけを見れば、神八井耳命も大物主神に近い。しかし、太田田根子には、神八井耳命にはない決定的な要素がある。大物主神自身が、太田田根子を自らの祭主として指名していることである。
太田田根子の祭主としての正統性は、単に大物主神の子孫であることだけに由来するのではない。神自身による指名と、その資格を説明する具体的な系譜が、物語の中に明示されているのである。
一方、神八井耳命については、大物主神から祭主として指名されたという記述はない。三輪山で大物主神を祀ったという記録もない。
神八井耳命と太田田根子は、どちらも大物主神の系譜に接続されるが、その役割は同じではない。
神八井耳命は、弟王を祭祀によって補佐する人物として描かれる。大田田根子は、大物主神を実際に祀るべき祭主として、神自身から名指しされる。
この違いは重要である。
神八井耳命の「忌人」を、そのまま三輪山における大物主祭祀の世襲祭主と理解することはできない。
もし神八井耳命やその後裔が、三輪祭祀の正統な祭主として継続していたのなら、なぜ崇神天皇の時代に、太田田根子を改めて探し出す必要があったのかという疑問が残るからである。
さらに、太田田根子が見出された場所は、『古事記』では河内の美努村、『日本書紀』では茅渟県の陶邑とされる。
いずれにしても、太田田根子は三輪山の近くで祭祀を継承していた人物として現れるのではなく、三輪から離れた地域にいた後裔として、王権によって探し出されるのである。
ただし、太田田根子が三輪山から離れた場所で発見されたことは、祭主としての正統性を否定する材料にはならない。
むしろ、失われていた正統な後裔を王権が発見し、神の指示に従って本来の祭祀を回復することが、この物語の中心だったとも考えられる。
ここで、神八井耳命と太田田根子の役割を整理してみたい。
神八井耳命――神武王統の内部で、王を祭祀によって補佐する人物
太田田根子――大物主神自身によって指名され、三輪祭祀を回復する正統な祭主
両者は、大物主神との関係を持ちながら、異なる役割を担っている。
この違いを踏まえるならば、神八井耳命に重ねられたものは、後世の三輪山祭祀を直接担う祭主の記憶ではなかった可能性が高い。
むしろ、磯城・三輪地域に存在した祭祀的正統性を、神武王統の内部へ接続するための象徴的な役割だったのではないだろうか。
太田田根子が、三輪祭祀を実際に担う祭主として位置づけられたのに対し、神八井耳命は、その祭祀的権威を皇統と氏族系譜の側へ結びつける人物として配置された。
つまり、太田田根子は、祭祀の実行者である。
神八井耳命は、祭祀的正統性を王統へ接続する人物である。
そのように役割を分けて考えることで、両者が異なる系譜に属しながら、いずれも大物主神との関係を持つ理由を説明できるかもしれない。
しかし、神八井耳命を祖とする多氏の系譜そのものは、どこまで一貫したものだったのだろうか。
第八章 多氏系譜に見える広がりと世代圧縮
すでに第三章で見たように、神八井耳命の後裔とされる氏族は広い地域に分布している。ここでは、その広域性に加えて、多氏系譜に見られる世代数の問題を検討したい。
『先代旧事本紀』の国造本紀では、神八井耳命の孫とされる速瓶玉命が、崇神天皇の時代に阿蘇国造へ任じられたと記されている。神八井耳命は神武天皇の皇子である。一方、崇神天皇は、記紀の皇統系譜では神武天皇から数えてはるか後代に置かれる。
神武朝から崇神朝までには、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化という複数の天皇が並ぶ。それにもかかわらず、神八井耳命から崇神朝の速瓶玉命までが「孫」という近い世代関係で結ばれている。
両方の系譜を字義通りに組み合わせれば、神八井耳命の二世代後の人物が、神武天皇から数えて十代目にあたる崇神天皇の時代に活動したことになる。両方の系譜を字義通りに組み合わせれば、大幅な世代圧縮が生じる。
ただし、この不整合を、ただちに系譜の誤りとみなすことはできない。古代の系譜では、中間の世代が省略されることがある。「子」や「孫」という言葉が、厳密な一世・二世の関係ではなく、広い意味での子孫を表す場合もある。また、初期天皇の在位年代や世代数そのものを、後世と同じ歴史年代として扱うことにも慎重でなければならない。
それでも、この世代圧縮は、多氏系譜がすべて同じ時期に成立した、一続きの血統記録ではない可能性を示している。
異なる時代に伝えられていた氏族祖先の物語が、後に神八井耳命を頂点とする一つの系譜へ接続されたのではないか。そのように考えれば、神八井耳命の後裔氏族が広い地域に分布し、世代数にも大きな圧縮が見られる理由を、ある程度説明することができる。
多氏系譜は、実際の血縁をそのまま記録したものというより、異なる地域と時代に属する複数の氏族を、神八井耳命という共通の祖へ結びつける系譜として編成された可能性がある。
神八井耳命を共通祖とすれば、それらの氏族は神武天皇の皇子から分かれた皇別氏族として位置づけられる。
それぞれ異なる土地や祖先伝承を持っていた集団であっても、神武王統の傍系として、一つの系譜の中に収めることができるのである。
ここで、本稿の仮説へ戻りたい。
もし多氏系譜が、複数の集団を神武王統の内部へ位置づけるための枠組みだったとすれば、そこに磯城・三輪地域の祭祀勢力が組み込まれた可能性も考えることができる。
神八井耳命は、大物主神の外孫として、祭祀を担う「忌人」に位置づけられる。その人物を祖とする系譜の中へ、各地の氏族や祭祀が接続されていく。
この構造は、磯城・三輪の祭祀的正統性を、独立した在地勢力のものとして残すのではなく、神武天皇の皇子を祖とする皇別氏族の系譜へ包み込むために適している。
ただし、世代数の圧縮や後裔氏族の広域性だけでは、そこに組み込まれた集団を磯城・三輪勢力と特定することはできない。
これらが示すのは、多氏系譜に再編や接続が含まれている可能性までである。
その再編が、どのような歴史的背景のもとで行われたのか。
そして、三輪祭祀の実際の担い手である太田田根子系譜と、神八井耳命を祖とする多氏系譜が、なぜ別々に存在するのか。
第九章 祭祀の再編と、系譜による語り直し
ここまで、神八井耳命と太田田根子という、二つの異なる祭祀的系譜を見てきた。
神八井耳命は、神武天皇の皇子でありながら王位を弟へ譲り、「忌人」として祭祀を担う人物に位置づけられる。
一方、太田田根子は、大物主神自身によって指名され、崇神天皇の時代に三輪祭祀を回復する正統な祭主として描かれる。
両者はともに大物主神の系譜へ接続される。しかし、その系譜も役割も一致しない。この違いを考えるためには、二つの問題を分ける必要がある。一つは、歴史上、三輪山祭祀の担い手や祭祀制度が変化した可能性である。もう一つは、その変化を、後世の記紀や氏族系譜がどのように説明したのかという問題である。
古い祭祀勢力が存在したとしても、その制度や組織が、そのまま後世まで続いたとは限らない。
王権の成立や拡大に伴い、祭祀の主体、祭主の資格、祭祀を統制する仕組みが再編された可能性は十分にある。
崇神天皇段において、太田田根子が改めて探し出される物語は、三輪祭祀が一度失われ、あるいは正しく行われなくなった後に、王権によって再建されたことを示しているようにも見える。
そこでは、大物主神の子孫である太田田根子が祭主として立てられ、祭祀の正統性が明確な系譜によって説明される。
しかし、この祭祀再編以前に、磯城・三輪地域でどのような集団が祭祀を担っていたのかは、記紀には記されていない。
ここに、神八井耳命と多氏系譜を考える余地が生まれる。
本稿は、磯城・三輪の旧祭祀勢力が、そのまま多氏となり、その後に太田田根子系統へ祭祀権を奪われたという単純な流れを想定するものではない。
神八井耳命と太田田根子は、歴史上の同じ職掌を順番に受け継いだ人物として描かれているわけではない。
むしろ、異なる時期に成立した祭祀的な正統性が、別々の系譜によって説明されている可能性がある。
太田田根子系譜は、大物主神を実際に祀る祭主の資格を説明する。
それに対して神八井耳命の伝承は、より古い祭祀的な権威を、神武王統の内部へ位置づけ直す役割を担ったのではないか。
もし磯城・三輪地域に、神武王統とは別の祭祀的正統性を持つ勢力の記憶が残っていたとすれば、それを独立した王統や祭祀勢力として記すことは、神武天皇から始まる皇統の一貫性と緊張関係を生む。
一方で、三輪山祭祀の権威や、磯城地域の在地勢力の記憶を、完全に消すこともできなかった。
そこで、その祭祀的正統性を、神武天皇の皇子である神八井耳命へ重ねたのではないか。
神八井耳命は、王位を継がない。
しかし、祭祀を担う。
そして、その後裔とされる多氏は、神武王統から分かれた皇別氏族として位置づけられる。
この構造を通して、磯城・三輪に由来する古い祭祀勢力の記憶は、神武王統と対立する別系統としてではなく、神武天皇の皇子から分かれた祭祀氏族として語り直すことができる。
弟磯城の物語が、磯城勢力を地域支配者として神武王権へ組み込む政治的な説明であるとすれば、神八井耳命と多氏の系譜は、その祭祀的な権威を皇統内部へ包み込む説明だった可能性がある。
そして、崇神天皇段の太田田根子系譜は、再編後の三輪祭祀を担う正統な祭主を、あらためて示す物語だったのではないだろうか。
整理すると、次の三つの層が見えてくる。
弟磯城――磯城勢力の政治的・地域支配上の包摂
神八井耳命と多氏系譜――磯城・三輪の祭祀的正統性の系譜的な包摂
太田田根子――再編された三輪祭祀における正統な祭主
もちろん、記紀はこの三者を一続きの歴史として説明してはいない。三者を直接結びつける系譜も存在しない。
しかし、記紀の各所に分散して置かれた伝承を重ねると、磯城・三輪地域の政治的・祭祀的権威が、異なる物語と系譜の中へ分けて保存された可能性が見えてくる。
神八井耳命の「忌人」という役割は、その分散された記憶の一つではなかっただろうか。
まとめ─ 神八井耳命は何を祀ったのか
神八井耳命が、実際に三輪山で大物主神を祀ったと明記する史料は存在しない。しかし、ここまで見てきた要素を重ねると、神八井耳命の祭祀的な人物像を、磯城・三輪地域の古い祭祀伝承との関係から検討する余地は残る。
『古事記』では、神八井耳命は大物主神の外孫に位置づけられる。
神武天皇の皇子でありながら王位を弟へ譲り、自らは「忌人」として祭祀を担う。
さらに、その後裔とされる多氏の系譜には、大和だけでなく、九州や東国に関係する多数の氏族が接続されている。
『日本書紀』では、磯城の在地勢力が、弟磯城を通して神武王権へ政治的に包摂される。
一方、崇神天皇段では、太田田根子が大物主神自身によって指名され、三輪祭祀の正統な祭主として改めて立てられる。
これらの伝承は、記紀の中で一続きの歴史として語られているわけではない。
しかし、全体を一つの構造として見ると、磯城・三輪地域の権威が、異なる人物と系譜の中へ分けて配置されているように見える。
弟磯城には、地域支配者としての政治的な包摂が語られる。
太田田根子には、三輪祭祀を実際に担う祭主としての正統性が与えられる。
そして神八井耳命には、王位を継がず、祭祀によって王権を支える役割が与えられる。
その神八井耳命を祖とする多氏系譜は、各地の氏族を、神武天皇の皇子から分かれた皇別氏族として位置づける枠組みとして機能した可能性がある。
本稿が提示したいのは、次の見方である。
磯城・三輪に存在した古い祭祀勢力の記憶は、独立した王統や祭祀勢力として残されたのではなく、神八井耳命の「忌人」という役割と、多氏の始祖系譜の中へ包み込まれたのではないか。
その意味で、神八井耳命が「何を祀ったのか」という問いに対する答えは、特定の一神の名だけでは捉えきれない。
神八井耳命に与えられた役割は、磯城・三輪に由来する祭祀的な正統性そのものを、神武王統の内部へ引き受けることだったのかもしれない。
神八井耳命は、三輪山の祭主として描かれた人物ではない。
しかし、三輪の祭祀的権威を、神武王統と皇別氏族の系譜へ接続するための人物として造形された可能性は残る。
記紀は、神八井耳命の祭神を語らない。
その沈黙は、ただの記録の欠落だったのか。
それとも、特定の祭神や祭祀地を明示できないほど複雑な形で、古い祭祀勢力の記憶が皇統系譜の中へ組み替えられた結果だったのか。
神八井耳命の「忌人」という短い言葉の背後には、王位を譲った一人の皇子の物語だけではなく、政治的中心から退いた磯城・三輪の祭祀勢力が、神武王統の内部へ包み込まれていく過程が残されているのではないだろうか。
(了)
参考文献
『古事記』(岩波文庫、倉野憲司校注)
『日本書紀』(岩波文庫、坂本太郎他校注)
『三輪氏 大物主神の祭祀者』(青垣出版、宝賀寿男)
『東国の古代 産鉄族オオ氏の軌跡』(崙書房、柴田弘武)
