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「『か』は何個ありますか?」——国語教育が文学を殺す瞬間

皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。

本を一冊開いて、こう聞かれたらどうだろう。

「この本の中で、“か”という文字は何個使われていますか?」

おそらく、多くの人は戸惑うはずだ。
なぜなら、私たちはそんな読み方を本来していないからだ。

物語を読むとき、
人物の息遣いを感じ、
言葉の余韻に立ち止まり、
気づけば別の世界に足を踏み入れている。

そこにあるのは、
文字の集合ではなく、世界そのものだ。

視点を一つ入れると、世界は痩せる

もちろん、
「“か”の数を数える」こと自体が、
知的に間違っているわけではない。

問題は、それが
唯一の正しい読み方として強制されることにある。

一つの視点を入れた瞬間、
それ以外のすべては背景に退く。

  • 感情の揺れ

  • 行間の沈黙

  • 読者自身の記憶との共鳴

それらは、
「設問に関係ない情報」として切り捨てられる。

これは理解ではない。
切り取りだ。

国語教育という名の「問い」

国語教育は、こう問いかける。

  • 作者の意図は何か

  • この表現の効果は何か

  • この場面の心情を30字以内で答えよ

一見すると、
文学を“深く読む”訓練のように見える。

しかし実際には、
「問いに合致する部分だけを拾う読み」
習慣化させている。

結果どうなるか。

問いに書かれていないものは、
読まなくなる。

 豊穣な世界を、試験用に痩せさせる

文学は、本来、
答えを持たない。

読む人の数だけ、
意味が生まれ、
時間とともに解釈が変わる。

それなのに、
国語試験はそれを

  • 一つの正解

  • 一つの視点

  • 一つの読み

に押し込める。

これは理解の訓練ではなく、
従属の訓練だ。

狭い読書体験が生まれる理由

こうして育つのは、

  • 自分の感じ方に自信を持てない読者

  • 「何を答えればいいか」を先に探す読者

  • 感じる前に、考えようとする読者

文学は、
本来もっと乱暴で、個人的で、自由なものなのに。

だから、私は国語試験に反対だ

誤解しないでほしい。
私は、思考することに反対しているわけではない。

反対しているのは、

👉 思考の入口を一つに固定すること
👉 問いが、読む体験を支配すること

だ。

文学は、
「問われる前に、感じるもの」だ。

最後に

もし本当に文学を愛するなら、
まずはこうして読んでみてほしい。

  • 役に立つかどうかを考えず

  • 問題になりそうな箇所を探さず

  • 正解を思い浮かべず

ただ、
世界に身を沈める。

「“か”が何個あるか」ではなく、
その一文が、なぜ胸に残ったのかを大事にしてほしい。

文学は、試験のためにあるんじゃない。
生きるためにある。

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