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僕が大学を去った理由の一つ――「研究され尽くされている」という言葉への違和感

皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。

僕が大学を去った理由はいくつかありますが、
その中の一つに、今でもはっきり覚えている出来事があります。

大学にいた頃、ある数学の教授と話す機会がありました。
その先生は、こんなことを言いました。

「もう数学の世界は研究され尽くされている。
残っているのは、ほとんどが難しい問題ばかりだよ」

研究者としての実感なのだろうとは思います。
でも、その言葉を聞いたとき、僕は強い違和感を覚えました。

引っかかったのは、「難しい問題ばかりだ」という点ではありません。
「研究され尽くされている」という言い切りでした。


世界は、本当に「分かりきっている」のか

思い出されるのは、物理学の歴史です。

アインシュタインが相対性理論を打ち立てる前、
「物理学はほぼ完成した。残っているのは細部だけだ」
そんな空気が漂っていた時代がありました。

19世紀末にケルビン卿は、
物理学に「二つの暗い斑点(clouds)」が残っているだけだ
と言ったそうです。

ところが、その直後に起きたのが、

  • 相対性理論の誕生

  • 量子力学の誕生

でした。

そこから世界の見え方は一変し、
物理学は「終わる」どころか、爆発的に広がっていった。

この歴史を知っていると、
「もうやることはない」という言葉は、
どうしても視野の狭さとして響いてしまいます。


「仕事がない」という感覚の正体

この話は、研究の世界だけの話ではないと思っています。

たとえば、バイト先でこんな言葉を聞くことがあります。

「今日は仕事ないわ。暇だわ」

確かに、客が少ない日もある。
忙しさという意味では、そうなのかもしれません。

でも、よく周りを見てみると、

  • 床の汚れ

  • 陳列のズレ

  • 声かけのタイミング

  • マニュアルに書かれていない違和感

そういう「仕事の芽」は、いくらでも転がっています。

気をつければ気をつけるほど、
仕事はむしろ増えていく

それが見えないとき、
仕事が本当に「ない」のではなく、

「仕事がここにある」というセンサーが鈍っている
だけなのではないか。

僕はそう思っています。


「もうない」と言う人と、「まだある」と思う人

「もう研究することはない」
「もうやることは残っていない」

そう言う人は、
世界が狭くなったのではなく、
世界を見る解像度を下げてしまった人なのかもしれません。

一方で、

「まだ分かっていないことがある」
「まだやることは残っている」

そう思える人は、
世界を広く見ているというより、
深く見ようとしている人なのだと思います。


僕が大学を去った理由

僕が大学を去った理由は、
数学そのものを嫌いになったからではありません。

むしろ逆で、

  • 「もう終わった」と語られる空気

  • 探究よりも閉塞を感じる言葉

そこに、
自分が立ち続けたい場所が見えなくなった

それだけのことです。

世界は、
「分かりきっている」と思った瞬間から、
本当に分からなくなる。

そして逆に、
「まだある」と思えた瞬間から、
仕事も、問いも、生き方も、
いくらでも立ち上がってくる。

僕は、そう信じています。

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