オクバデ前提の普遍論争から掘り下げ(哲学と神学について)

オクバデ前提の普遍論争についてnote投稿してから、
「じゃあなんでそもそも普遍論争とかの前に、よくわからん~派とか、~~論ってのがあるんですか」っていうところからのスタートを書きたいなと思い。自分用のまとめも兼ねて書いとこうとなりました。
またも拙い文が続きます。読みにくくて申し訳ございません。

オクバデ前提の普遍論争にて書いたアベラール派、オッカム派なんですが。
じゃあ、そもそもなんでこういう人たちがいるんだ?という方もいらっしゃるかと思います。

これは全て"哲学"に繋がるものです。が、ひとまず"哲学について"は置いときます。
多分書くと長くなるので…(書くのが面倒くさくて端折ります、すみません…哲学自体の歴史って本当に長すぎて…)

とりあえずオクバデが産まれる時代よりも5世紀くらい前頃、当時の欧米諸国では今みたいな学校ってのが確立されてなくて、皆が勉強をしに通ってたのは教会や、バデちが行ってたような修道院でした(院バデ可愛い過ぎて本当に…)
で、教会内での学校、いわゆる"生徒が勉強する場所"は総じて「スコラ」って呼ばれてました。
これ、現代の"スクール"の語源なんですよね。歴史は意外と今にも繋がってます。

で、そのスコラで教えられてたメイン科目ってのがあの「神学」です。
今の時代だと、学校でまず習うのって国語、算数、理科、社会あたりだと思うじゃないですか。
それらはあくまで補助というか予備(今の日本で言えば、美術とか図画工作みたいな感じの科目)にしか過ぎなくて、あの頃はひたすら「いいから聖書読んどけ!」ってな時代だったので。
それもあってラファ君やバデちは「神学!神学!」と口うるさく周囲から言われていた訳です。

バデちなんかは神学なんてとうに履修済みな上で、さらに幾何学や数学を勉強してたでしょうし、それで懲罰受けるとか本当に理不尽極まりないと思うんですが。あの時代は割とあったみたいなので、それらが積もり積もって教会全体の腐敗を招いたともいえます(才ある新芽を片っ端から潰していく感じなので)。
(まあでも懲罰受けるバデちにえちちを感じてしまうんですが…)

今でいえば、
「ラファ君は簡ッッ単に東大に行けるし、なんなら推薦出てるよ!東大行けば進路も未来も間違いないよ。チョレーよ?」
「バデ君も余計な雑学してないでさ?神学だけやっといてくれたら、もっと上の役職つけるよ?給料も上がるよ?」
な感じだったわけですが、
二人はそれを蹴ってでもあの地動説を信じたんですよね。
で、話を戻すと、要はその時代にスコラ(教会学校)で教えられていた神学のことを「スコラ学」といいます。
スコラさんって人がいた訳では無いんですね(この時代の名前ややこしいなぁ)。

で、じゃあ「スコラ学」って何するん。今更古い聖書を読みまくれと?ってなると思うんですよ。

スコラ学で、ラファ君やバデちたちが何を学んでいたのかというと、
「聖書の内容を今時っぽくアップデートしてこ。」って感じのことです。
で、そのアップデートに使ったのが、アリストテレスさんって大昔のギリシャの人の哲学論でした。

アリストテレスさんは「人からごちゃごちゃ又聞きするより、とりあえず自分の眼で見て、そっからいろいろ自分で考えてこーぜ。」的なのを得意にしてた人です。代表でいえば生物や政治、論理学など数え切れないくらいあります。
アリストテレスさん本当にエリート過ぎる人なんで、もう書ききれないくらい色~~~~んな考え方を残した人です。なので、ここは端折りますが、分かりやすいのをあげるとしたら、
「物事には"原因"があるやろ。」っていう考え方を初めに言い出した人です(言い出しっぺみたいなもんです)。
社会人にはこれ滅茶苦茶ぶっささる。まず、「ミスが起きた"原因"はなに?」って言われる感じのやつです(心死ぬからやめちくれぃ)。
なので、要は"理詰め"ってやつですね。これがアリストテレスさんの哲学で重要視された「理性」ってやつだとふんわり思っておいてほしい。

で、そのアリストテレスさんの哲学にある"理性"と、聖書からなる"信仰"。
この二つをフュージョンさせてこ、ってのが、スコラ学で行われていたことでした。
つまり、アリストテレスさんの理性を「クロスワードパズルの原本」としたら、
その中の空欄に、「文字となる聖書の教えを当てはめて」神様ってものをもっと詳しく知ろ!っていう感じです。
たぶんバデち的にいえば、
「アリストテレスの理性を"数学の方程式"として、X、Yに聖書の教えを当てはめろ。」ってな感じになるのかな。

で、そのスコラ学の中でのやり方は今の大学とかでもよくある討論方式だったんですよね。仏教でもよく似た"禅問答"っていう論争バトルがあります。
禅問答はおもろいので、個人的に好きですね。

で、普遍論争で長きにわたってレスバを繰り広げてきた
「神の存在を証明できるか?」っていう有名な問いがあります。
これに対して、皆が思い思いに意見を述べるわけです。
ただ、「3-2=?」みたいな答えの決まっているものと違って、
それぞれの考え方や感じ方、性格で全く違う答えが出ますよね。
で、そこで意見をいう時に参考にされてたのが、あのアベラール、オッカムみたいな人たちの考え方だったわけです。
まあいろいろな人たちがやってたので、中には自分と違う考え方を嫌うアンチ文しか書かない人だとか、とりあえず聖書とか偉い哲学者の名言を引用しとけみたいな感じでコピペ塗れになる人も一定数いたみたいです。なので、あの掲示板で「はい論破ァ!」「これってあなたの思想ですよね?」みたいなことを言われるとカッチーンって来ちゃう人もいたわけですよね。
(低俗な例えで本当にすみません…)

な ん で す が。

実はもう、
バデちやラファ君たちがいた15世紀よりも前の時代(13世紀)に
既にトマスさんって人が神学を完成させちゃってました。
トマスさんのおかげで神学は「お!ええ感じにまとまったやん!」ってな感じになり、トマスさんが書いた本は爆売れ。いろ~んな教会がその本を使って皆にスコラ学のお勉強をしました。

ですが、14世紀になってあのオッカム、アベラールが登場。
オッカムさんがトマスさんの考えを真っ向から「いや、これ違うだろ」って言ったもんで、そこで対立しちゃうわけです。
しかもその当時になんとペストが大流行した挙句、フランスとイギリスが百年戦争まではじめ、挙句の果てにはなんと「教皇vs皇帝」みたいなスポニチ競馬の見出しみたいな揉め事まで起きちゃいました。
ちなみにその時オッカムさんは皇帝側につきました。
「教皇のくせに王様にケチつけるとか流石にやべーよ!」ってブチぎれてたみたいです。
てなわけで、世の中は戦争・流行り病のフルコンボだドン!
まあ民は当然「今は神学とかいいから!現実!どうにかして~!」となるわけです。

で、ここからチ。の時代である15世紀になります。
15世紀になってから、「改めてギリシャの考え方、良くね?」ってのが広がり始めました。
ラファ君が牢屋でノヴァクさんに話したように、若くて柔軟なタイプは今までのようなアリストテレスではなく、ソクラテスやエピクロス、セネカといった色んな哲学者の考え方を取り入れていくようになるわけです。
こうしてラファ君のような考え方が広まり行くこの時代を
「ルネッサンス」と呼ぶようになります。

新しく柔軟にさ、色々取り入れて知識深めていこ~よ!と行きたいところですが、ここで立ちはだかったのがまさにノヴァクさんや、修道院でバデちに懲罰を与えたような、古い考え方にとらわれた人たちだったわけです。
「新しい考えなんて異端(邪道)だ!古きよきものこそ全て!大体、新しい考え方は世俗的過ぎる!」な彼らと
「いいや、新しい考えをどんどん研究して生み出していかねば!残さないといけないんだ!」というバデち達やラファ君。
それのぶつかり合いだったわけですね。
けど、別に古い考え方にとらわれた人たちが一概に「悪人」だったとは言えないわけです。現代と違い、ネットなんて皆無なあの時代は狭い上に閉鎖的な地域や国も多かったわけで。そういった場では考え方も凝り固まってしまいやすいですし。
ノヴァクさんが最期に「私はこの物語の悪役だったんだ」と言って、ラファ君がそれに対して答えたのが私は何よりもの最適解だと思っています。

ぶっちゃけて例えるなら、大正浪漫か、平成ポップとでもいえばいいんかな…(分かりにくくてすみません…)
要するに、過去の時代にはその時代なりの、現代には現代なりの、
「それぞれの時代で生まれたもの全てに良し悪しがある」っていうのを言いたい。こういうニュアンスでお伝えせざるを得ないことを許してください…(単に語彙力がない)

大正浪漫と聞けば、素敵な和モダン、大きなリボンの女学生、書生さんというような素敵な絵が浮かぶかと思います。もちろんそれこそ大正時代の魅力です。ですが、同時期には第一次世界大戦、関東大震災といった出来事も起きています。
平成も同じで、明るくてエモに溢れてるギャル、ギャル男全盛期!みたいな明るさがある反面、猟奇的な殺人事件、地下鉄での毒物事件、東北大震災など…数え切れないほどの出来事があったわけで。
けれど、あとの時代の人にとってみれば、学生だろうが、軍人だろうが、どんな罪人だろうが。
「その時代を生きた人たち」なわけです。

我々も同じように、教科書や歴史の本を見るとき、「平安時代の人たち」「江戸時代の人たち」「縄文時代の人たち」というように括って見ているわけですね。
名を残している歴史の登場人物はあくまでも「その時代にいた人」の中でたまたま「名を後世へ残せた」ということでして。
偉業を成し遂げたから、とても強くて勇敢だったから、と理由はあれど。それらの人々の陰には、数え切れない程の名を知られていない無名の人々がいます。有名な歴史上の人物の名は即座に出てきても、ではその人の母の名は?その人を育てたのは?その人の親友は?と聞かれて答えられるのは中々難しいのではと思います。勿論これは調べさえすれば出てくることも多いですし、書物や記録に残されている人もいます。ですが、名が残っていない人が多くいるのは確かです。それは血縁や身内であっても、です。

すみません、話がだいぶ逸れました。
つまりどの時代にも「良いこと」「悪いこと」があり、
当時は正しかった知識も、時代と共に認識や意識が変わることも多くあります(ヨレさんが受けていた男女差別もその一例です)

哲学と宗教って実は深く結びついていることが殆どです。
何故なら、哲学は人間が「心」「脳」で考えるものであり、
宗教は人間が「縋りたいもの」「信じたいもの」と、
両方ともが「考え」という人間の性質から生まれたものなので。
動物や植物たちには感情こそあれど、人間のように神に祈ったりはしません(これもまた哲学の一種です)。

キリスト教と仏教とかも、考え方の始まりとしては割と似てる部分もあったりはします。
上記二つの宗教の原点は「生きるのマジ辛い」です。
で、そこから完成された宗教は、時代を経るにつれて考え方や解釈が変わっていったわけです(バデち達はまさにその考え方や解釈を考えなきゃいけないという時代にいたのですね)。

いうなれば二次創作と同じです。
始めは同じ原作を通り、その後に皆がそれぞれの解釈(カップリングや攻受もろもろ)でいろいろ生み出していきますよね。
で、好きな推しや推しカプが同じメンバー同士でサークルを作ったり、イベント開いたりするじゃないですか。
自分の性癖詰め込んで本出したり、グッズを作ったりしますよね。

宗教もそれと同じような時代を経てきたわけです。
だから仏教もキリスト教もいろんな宗派があるわけですね。

ちなみにXでも呟いたんですが、
哲学は英語だとphilosophy(フィロソフィ)と訳します。
Ideology(イデオロギー)の対みたいなものです
フィロソフィは元々哲学が盛んだったギリシャ語のフィロソフィアから来てまして、 フィロは愛、ソフィは智(または知)。

つまり「チ(智・知)を愛する」というのが哲学の基盤てなわけです。
これが作品に繋がるのかどうかは定かではないのであしからず…
ただ個人的にはふと思い出して「アッ!」ってなったので書いときました。

こんな感じでざっくりと神学、それに繋がる哲学についてのお話でした。
長々と書いちゃった…すみません。
(これらのnoteは全て個人的な考え方の下に書いている部分がでかいので、解釈や考え方は本当に人それぞれなんで…こういうのもあるんやなくらいの認識で思っておいていただけたらと思います…)

では、ここまで読んで下さった方、本当に本当に!!!!
ありがとうございます!!!!!!!!!
オクバデよ永遠なれ。



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