掌編「足りないチェック」#537

 麻婆豆腐が思ったよりも辛い。
「夏香は食べない方がいいかも」
「確かに。余計お腹壊すね」
 私が大皿を箸で示すと、赤い口をナプキンで拭いながら桃井も同意する。
「てか」ナプキンがくしゃくしゃと丸められる。「訊いてみた? 店員さんに」
「そうじゃーん。あるかもよ、薬」
 いつの間にか分離した上司陣の席から横槍が入るが、発言者は誰かわからない。と思ったら、笹路部長と目が合う。逸らす。はぐらかす。
「お腹痛いの、我慢しない方がいいよ」
 苦手な上司か、あるいは唐辛子によって吹き出た汗を拭う。「訊くだけ訊いてみたら」
「大丈夫」
 夏香が、涼しげにもなった顔で答える。二枚目のナプキンの間からヒーヒーと声を漏らしながら、桃井が、
「あれ、確かにアタシより元気そう」
「きいてきたから、だいぶ良くなった」
「訊いてきたって」
 すかさず訊き返す。
「夏香、席立ってないよね」
「だよだよ」
「一瞬だけ、立ったけど。十分前くらいに」
「あー」天井に目をやる。
 しかし桃井の方が先に思い出して、
「いや、立って、でもすぐ座ったじゃん」
「あー」目を戻す。「そうじゃん、足痺れたのかと思った。掘り炬燵なのに」
「それに二十分くらい前だよ」
 桃井が腕時計を突っついてみせた。
「細かっ」
「そうだっけ。まあそうか。だから、だいぶ治ってきたよ」
「いや、お腹さすられても。なにが『だから』なわけ」
「きいてきたから」
「だから、訊いてないじゃんって」
 私も二枚目のナプキンに手を伸ばす。「だいぶ後引く麻婆豆腐だこと」
「ほんとに」桃井も気づけば汗を拭いている。「てか、フツーに暑くない?」
 いわれてみれば。私はナプキンを丸める。
「夏香?」
 やはり、すっかりさっぱりした顔の彼女が立ち上がった。
「ちょっと効き過ぎたか」
 壁に下げられたリモコンを手に取る。赤外線の発信部が、空調に向けられる。
 目を見合わせる私と桃井に、彼女が問う。
「下げる?」

おわり


振り返りのコーナー(#536)

大コケすると思っていた分、ウケの良さを感じる。このくらい、説明しすぎなくても、まあ受け入れられるのかという、学び。

いいなと思ったら応援しよう!