恋愛とセックスに命をかけて挑むことが恋に殉じるという私なりの葉隠だ。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
この一句で人間の人生の全てを網羅している
葉隠という思想。
私は数年前に三島由紀夫の「葉隠入門」を読んで
感銘を受けたが、

この機会に再読している。
最近三島由紀夫と縁が深い執行草舟氏の
「超葉隠論」に出会い、読んでいく中で
私も私なりの「葉隠論」を構築し、執筆することこそが、
私なりの恋に殉じる生き方のひとつになるのではないかと心が踊った。
この本は葉隠の思想に基づき、
・永久孤独論
・永久燃焼論
・永久恋愛論
・永久革命論
・永久運命論
という5つの章に分かれているが、
実は私はまだ永久恋愛論しか読了していないため、この本全てというよりも、この永久恋愛論について私の思想を導き出したい。
ちょうど一年前にも、三島由紀夫生誕百年のつどいにおいて私は、基となる思想の土台は既にもう持っていた。
現代の恋愛といえば、
いかにパートナーから溺愛されるか、そしてその関係を長く継続させ、その結果その先に多くのものを獲得し、さらにそれを多くの人間に認められ、羨望を集め、挙げ句の果てにはそれを商売にまでするという、そこまでの流れが出来上がっている。
それは決して悪いことではないし
民主主義であり幸福追求主義である現代においては、その思想はまさに最高に快適であり、幸せに生きていけることであるのは間違いない。
だから多くの人間はその状態に憧れ、渇望している。だから市場を生み出し、ひとつの大きな価値となっている。
現代では、この超葉隠論の永久恋愛論のような恋なんて苦行でしかなく、誰も賛同も共感もしないため、こういった思想に価値はない。
唯一あるとしたら物語の中だけだ。
悲恋ものや心中ものはいつの時代も人の心を打つ。
それはやっぱり命懸けで恋しているからだ。
どんなことでも、人は人が命懸けで何かを成し遂げたり取り組む姿には心を動かされる。
名作「ベルサイユのばら」
のオスカルとアンドレの恋はまさに武士道、葉隠精神の恋だ。
お互いのために命を懸け、死することで
永遠の恋を叶えたふたり。
先に命を懸ける気概を見せたオスカルに対して
自ら死してその恋に殉じたアンドレ。
残されたオスカルは貴族の身分を捨て、
アンドレと一緒になるために現世から離れ
その恋に殉じたオスカル。
現世では決して結ばれることができない恋こそが、まさに葉隠の永久恋愛精神を体現している。
三島由紀夫が好きで、武士道精神に傾倒している私はこの永久恋愛論はとても甘美なものとして心酔してしまい、危ういことを考えるようになった。
私は、好きな人に殺されたい。
と。
どんな確固たる関係でも、生きている限り
必ず別れが訪れる。
そうなるくらいなら、いっそ今目の前にいて
好きな気持ちが最高潮のこの瞬間に殺されたい。
だが、よく考たらそれは武士道、葉隠精神には反している。他人に殺してもらおうなんて
そんな卑しい考えは、この崇高な葉隠精神から乖離し過ぎている。
自らの恋のために殉じるからこそ、美しいのだ。
では、死が崇高なものではなくなり、恋に殉じることに何の価値もない現代において
恋に殉じるということはどういうことなのだろうか?
私の、恋に殉じるという生き方はどうしたら叶えられるのだろうか?
そこで私は私なりに考えた。
私なりの、恋に殉じるということの定義を。
・大好きな人との恋に生命燃焼すること。
・気持ちを伝えることひとつとっても、言葉と態度をもって真摯に挑むこと。
・セックスに真剣に取り組むこと。絶対に気持ちよくなるという気概で臨み、エネルギーの交換と濃密なコミュニケーションを欠かさないこと。
恋やセックスは、簡単にしようとすればいくらでもできる。
実際、恋やセックスに夢中になることは堕落の始まりだと揶揄されるくらい、
適当にすると痛い目に遭うし、ただ時間と自らを消費するだけで、何の達成感も喜びももたらされない。
だからこそ、だからこそ、
恋愛とセックスは真剣に取り組むのだ。命を懸けるのだ。そうでなければ、只の、いくらでもとって変わるだけの大量消費の現代の娯楽と同じものになってしまう。
人生と命を賭して、恋とセックスに挑み続けるのだ。
それが私なりの武士道であり、葉隠精神だ。
