見出し画像

【死と再生】水泳の授業

下記の記事の夢に関連して、自分にとって心理的な「死と再生」の実体験と思われることを整理してみることにした。思い当たる現実の出来事がいくつかあるので、1記事にひとつずつ整理する。


実体験1

中学初年度の水泳の授業である。25mを数人ずつ順番に泳いでゆく。私は前年に浮くことを覚えたばかりで、ほとんど泳げない。スタート位置からすぐのところに、3mの深さの場所がある。

7〜8メートルも泳げば、深いところは越える。でも自分はその距離を泳いだことはない。みんなは、つぎつぎに泳いでゆく。悩んでいるうちに、泳ぐ順番が来てしまった。
ままよ。私は思い切って、我流で泳ぎ始める。がぶっと水の音。全然進んでない、という声が聞こえる。しばらく泳いだら息が続かなくなったので、立ち上がろうとした。しかしそこはまだ深く、足がつかない。顔を上げれば沈む。息をつごうと藻掻くが、息はできない。
このままでは溺れる、と思った瞬間、腹が据わった。まだ息は、もう少しだけ大丈夫だ。息の続く限りもう少し泳ぐ決心をした。
そしてしばらーく泳いで立ち上がった。足がつき、息ができた。先生が声をかけてきた。「えらいぞ。」

あとで級友に聞くと、私が水深の一番深いところで明らかに溺れ始めたので、水泳の先生は、着ていたTシャツを慌ただしく脱ぎ、救出に飛び込む態勢まで取ったようだ。そのとき私が少しずつ進み始めたらしい。

考察

幼い体験である。自分は特別泳げないのだと訴えて先生と相談するなどとは、当時は恥ずかしくて出来るものではなかった。恥ずかしくて相談できないという自分の状態が、さらに恥ずかしかった。その結果、恐怖がありながらも、大人に素直に従うことしかできなかった。

死ぬかと思ったという経験は、このようなものであれば、状況は異なれどたいていの人にあるのではないかと思う。しかしこの体験が、死と再生の構造を持つと仮定してみれば、次のように整理できるだろう。

 :息ができず、足がつかない。「このままでは死ぬ」と思う。
転機:しかし恐怖の中で腹を据え、「もう少し泳ぐ」と決断する。
再生:足がつき、呼吸が戻り、先生から「えらいぞ」と承認を受ける。

つまりこの体験は、身体的な限界に近づく恐怖を経て、「別の自分」として再生される通過儀礼のようなものとして理解できると思う。
外部からの承認があった意味も、当時の自分にとっては大きかっただろう。

また腹が据わった瞬間の身体感覚は、その後の人生でも何度か体験しているような気がする。それは、自己の深奥との接近の感覚なのかもしれない。

冒頭の記事の夢との関連はどうだろう。
あの扇の夢には「静けさのなかに潜む死の問い」があった。
そしてこの水泳の体験には、「静かに死が近づいてくるとき、内側から沸き起こる生の意志」があった。
両者は、次のようにつながる。
夢の中の “死の問いかけ” に対し、自分はかつて “生の決断” をしたのだ。

心理的な「死と再生」と思われる体験の整理とは、過去の弱い自分を、恥ずかしいなら恥ずかしいままに受け入れ、どう再生したかを確認し語り直す作業であることが分かってきた。

また、平凡で第三者から見た大冒険のような出来事でなくても、丁寧に扱えば、十分自己省察になるようだ。

いいなと思ったら応援しよう!