烏合の衆 ―革命か包摂か―
■ 烏がとまっていた
娘の卒業式の日、ついでに駒場キャンパスに行って、一枚の写真を撮った。
「右合の衆」と書かれた立て看板に、烏が一羽とまっていた。
「右合の衆」は、「烏合の衆」からのネーミングだろう。そのセンスは、嫌いではない。そこに本物の烏がとまっていたのだから、いくらなんでも出来すぎている。私はその写真を撮った。今回のコラムのタイトルを『烏合の衆』にしようと思ったのは、その写真があったからである。
看板には、こう書かれていた。
国家なき多様性、道徳なき自由に未来はあるのか。
憲法、国防、移民、家族観――本気で語れる場を東大に作る。
「美しい国日本」を守り続ける。
思考なき優秀は、臆病の別名だ。
志あるものよ、集え。
なるほど、と思った。国家、道徳、自由、憲法、国防、移民、家族観、美しい国日本。ずいぶんと分かりやすい。ここまで正面から保守的な語彙を並べられると、むしろ清々しさすら感じる。
その後、この「右合の衆」が五月祭で企画した参政党・神谷宗幣の講演をめぐって騒動が起きた。講演に反対する人々が現れ、会場周辺で混乱が起き、さらには「爆破予告」まで届いて、五月祭(の1日目)は中止となった。
この件について、大井赤亥さんがJBpressに寄稿していた。私は大井さんのテキストを読むのは初めてだ。簡単に調べると、立憲民主党からの立候補経験があり、有田芳生の政策秘書でもあった人らしい。本人は、自分の問題意識を「リベラルの内側からのウォーク批判」と述べている。なるほど、そういう立場からの文章なのだろう。
ただし、ここで大井さんのテキストを逐語的に批評するつもりはない。
五月祭の一件そのものについても、正直なところ、私はそれほど強い関心を持っていない。
国政レベルで見れば、参政党側に「われわれは言論弾圧された」という物語を与えてしまった。その意味では、反対した側の失敗だったと言えるかもしれない。
一方で、学園祭という部分だけを見れば、そこでヘイトスピーチをさせなかったという結果は、学生たちにとって十分に成功だったとも言える。
国政の物語と、現場の切実さは、必ずしも同じ尺度では測れない。
だから、私にとって問題は、五月祭で誰が勝ったかではない。
問題は、その騒動をめぐって語られる「リベラル・左派」批判であり、さらに言えば、その批判を受けてなお見えてくる「リベラル・左派」の中途半端さである。
先の選挙での敗北以降、「リベラル・左派」は反省せよ、という空気がある。説教臭いから嫌われる。ウォークが行き過ぎた。反差別が暴走した。大衆を見下している。そういう批判は、たぶん、だいたいにおいて当たっている。
しかし、私には、その反省ですら無意味に見える。中途半端だからだ。
「リベラル・左派」は、なぜ中途半端なのか。
なぜ説教してしまうのか。
なぜ包摂できないのか。
そして、そもそも彼らは本当に「リベラル」なのか。
このコラムで考えたいのは、そのことである。
■ 「リベラル・左派」もまた保守である
「右合の衆」は、分かりやすく保守である。
国家、道徳、自由、憲法、国防、移民、家族観、美しい国日本。看板に並ぶ言葉は、どれも分かりやすく右派的で、分かりやすく保守的だった。だからこそ、ある意味では潔い。自分たちが何を守りたいのかを、かなり素直に書いている。
しかし、私は「保守」をもう少し広く考えている。
私にとって保守とは、単に自民党を支持するとか、天皇制がどうだとか、家族主義的であるとか、外国人に厳しいとか、そういうことではない。もっと根本的には、現在の領域国民国家を自明の前提としていること、それ自体が保守なのだと思う。
日本という国家がある。
国境がある。
国民と外国人が区別される。
議会がある。
警察がある。
裁判所がある。
所有権がある。
税制がある。
選挙がある。
憲法がある。
その枠組みの中で、よりよい政策を争う。
この前提に立っているかぎり、それは広義の保守である。
もちろん、その内部には右派も左派もいる。排外主義者もいれば、反差別を掲げる人もいる。新自由主義者もいれば、福祉国家を求める人もいる。改憲派もいれば、護憲派もいる。だが、それらはすべて、現在の秩序を前提とした内部対立である。
その意味では、「リベラル・左派」もまた保守である。
「リベラル・左派」は、排外主義に反対する。差別に反対する。人権を語る。多様性を語る。憲法を守れと言う。民主主義を守れと言う。
それはそれでよい。
しかし、彼らの多くは、領域国民国家そのものを壊そうとはしていない。議会制民主主義を壊そうとはしていない。法秩序を壊そうとはしていない。警察権力を壊そうとはしていない。所有権を壊そうとはしていない。せいぜい、それらをより公正に、より包摂的に、より人権尊重的に運用しようとしている。
それは、現行秩序の内部での主導権争いである。
この点では、公式には暴力革命を否定し、「平和的・合法的な社会変革」を掲げる共産党でさえ、私の定義では広義の保守派である。もちろん、これは一般的な政治分類ではない。共産党を右派だと言っているわけでもない。私が言っているのは、暴力革命を排除し、現行の制度的手続きの内部で社会を変えようとする者は、その制度を前提にしているという意味で保守だ、ということである。
誤解のないように言えば、私は実際に暴力革命を企図しているわけではない。
誰かを殺してでも守りたいものが、いま目の前にあるわけではない。現行秩序に不満はあるが、それに逆らうデメリットの方が大きい。だから私は従っている。
ただし、その従属を「市民的成熟」とか「良識」とか「民主主義への信頼」と呼んで美化する気はない。
現在の秩序もまた、暴力によって維持されている。
これは、単に「国家権力は暴力装置である」という話ではない。国家には警察があり、刑務所があり、税を徴収する力があり、国境で人を止める力がある。もちろん、それも暴力である。しかし、私が言いたいのはそれだけではない。
人間社会そのものが、少なくともポストスカーシティ社会に到達するまでは、暴力から逃れられないのではないか。
たとえば、ここに二人がいて、食べ物が一口分しかないとする。殴り合って奪い合うのは、分かりやすい暴力である。では、話し合いで決めたら非暴力なのか。じゃんけんやくじ引きで決めたら、暴力は消えるのか。
私はそうは思わない。
食べられなかった者は、空腹という物理的な暴力に襲われる。殴打は避けられたかもしれない。しかし、身体への苦痛は消えていない。暴力はなくなったのではない。配分され、見えにくくされ、手続きの名で処理されただけである。
ならば、暴力を本当に減らすには、手続きを洗練させるだけでは足りない。食べ物の一口を、二口に、三口に、あるいは誰も飢えないだけの量に増やすしかない。
非暴力的な手続きとは、暴力の不在ではない。
それは、多くの場合、暴力を誰に負わせるかを決める手続きである。
だから私は、「暴力はいけない。言論で戦え。選挙で戦え。法に従え」という言葉を、そのまま素朴には信じられない。もちろん、日常的な実践としては、私も法に従う。選挙にも行く。言論でやりとりする。暴力革命を実行するつもりなどない。
単に、私はその秩序に従う方が得だと判断しているだけである。あるいは、逆らうコストを支払えないだけだ。
その意味で、私は飼い慣らされている。
そして、飼い慣らされている者として、現行秩序の内部で「右」と「左」が争っているのを見る。「右合の衆」は、国家と道徳と家族と国防を語る。「リベラル・左派」は、人権と多様性と反差別と民主主義を語る。
だが、どちらも、領域国民国家の内側にいる。
どちらも、現在の秩序を完全には壊そうとしない。
その意味で、両者は敵対しているようでいて、同じ盤面の上にいる。争っているのは、秩序を壊すかどうかではなく、秩序の中で誰が主導権を握るかである。
だから私は、暴力革命を否定する「リベラル・左派」を、広義の保守派だと考えている。
そして、もし彼らが本当に暴力革命を否定するのなら、残された選択肢は一つしかない。
包摂だ。
■ 「ネトウヨは思想ではなく症状である」
宮台真司がどこかで、「ネトウヨは思想ではなく症状である」という趣旨のことを言っていた、と私は記憶している。
検索しても出典は見つからない。ラジオだったのかもしれない。あるいは、私が宮台の別の発言を勝手にそう要約して記憶しているだけかもしれない。もし宮台本人が「そんなことは言っていない」と言うなら、これは私の発明ということで構わない。
ただ、私はその言葉を聞いて、あるいはそう受け取って、「おおっ!」と思った記憶がある。
ネトウヨは思想ではなく症状である。
これはかなり正しいと思う。
彼らの主張は、体系だった思想というより、現代社会の不満が噴き出した症状である。もちろん、そこには反中、反移民、反外国人福祉のような排外主義がある。歴史修正主義もある。陰謀論もある。差別もある。だから、その言説が無害だと言うつもりはない。
しかし、それらを一つの思想体系として扱うと、たぶん見誤る。
ネトウヨとは、思想というより、まず不満である。屈辱である。退屈である。焦りである。嫉妬である。「なんかおもしろくない」という感覚である。
私は、先進国の右傾化の根本原因は、ほとんど経済だと思っている。
価値観への反発だとか、文化的バックラッシュだとか、そういう説明があるのは知っている。もちろん、そういう側面もあるのだろう。ジェンダー平等、多文化主義、移民、人権、環境、ポリティカル・コレクトネス。そうしたものへの反発が右傾化の燃料になっているのは間違いない。
しかし、それらは後付けの理由ではないか。
根っこにあるのは、もっと単純なことだと思う。
儲かっていないから、おもしろくないのだ。
高度成長が終わる。低成長が続く。給料は伸びにくい。税金や社会保険料は重い。家は高い。老後も不安である。努力しても、昔のように生活が上向いていく実感がない。
一方で、余裕のある人間は資産を持っている。資産を持っている人間は、ピケティ的に言えば「 r > g 」の世界で、複利的に豊かになっていく。働いて稼ぐより、持っているものが増えていく方が強い。そういう世界で、持たざる者はますますおもしろくない。
左を見ると、インテリベラルがリッチな生活を送っているように見える。
インテリベラル。いま思いついた言葉だが、悪くないと思う。インテリで、リベラル。大学にいて、メディアにいて、都会にいて、正しい言葉を使い、人権を語り、多様性を語り、海外経験があり、文化資本があり、なんとなく余裕があるように見える人々である。
実際に彼らがリッチかどうかは、ここではそれほど重要ではない。
そう見えることが重要である。
「お前たちはいいよな」と見える。「安全な場所から説教している」と見える。「こっちはこんなにおもしろくないのに、お前たちは正しい顔をしている」と見える。その見え方が、怒りを生む。
本来なら、その怒りは階級的な怒りとして表現されてもよかったはずである。資本への怒り。格差への怒り。低成長への怒り。資産を持つ者と持たざる者の差への怒り。
しかし、階級闘争は失われた。労働組合も弱い。共同体も壊れた。不満を受け止める場所がない。不満を整理する言葉もない。
そこで怒りは、より見えやすく、より叩きやすい対象へ向かう。
左翼。リベラル。人権派。フェミ。マスコミ。学者。朝日。反日。
だから私は、日本のネトウヨは、単なる排外主義ではないと思っている。
もちろん、排外主義ではある。反中、反移民、反外国人福祉のような言説は、明らかに排外主義である。しかし、その情念の中心は、外国人そのものへの憎悪というより、しばしば「外国人を擁護する左翼」への憎悪である。「中国に甘いリベラル」への憎悪である。「日本を貶めるマスコミ」への憎悪である。
つまり、日本のネトウヨは、排外主義である以上に、排左主義なのではないか。
彼らが憎んでいるのは、外国人だけではない。むしろ、自分たちを見下しているように見えるインテリベラルである。
そう考えると、「リベラル・左派」がネトウヨに説教することの無意味さが見えてくる。
「あなたは差別的です」
「あなたは歴史を知りません」
「あなたは人権感覚がありません」
「あなたは陰謀論に騙されています」
「あなたは弱者を攻撃しています」
内容としては正しい場合が多いのだろう。
しかし、症状に説教しても治らない。
むしろ悪化する。
ネトウヨは、すでに「左翼やリベラルに見下されている」と感じている。そこに、さらに「リベラル・左派」が説教する。すると彼らは、「ほら見ろ、やっぱりこいつらは俺たちを見下している」と感じる。説教は、治療ではなく燃料になる。
ここで、もう一つ考えたい。
ネトウヨが思想ではなく症状であるなら、「リベラル・左派」もまた症状なのではないか。
宮台は、ネトウヨについて「あれは知性の劣化ではなく感情の劣化だ」という趣旨のことを語っていた。これも、なるほどと思う。ネトウヨ的なものは、何かを知らないから生まれるというより、感情の回路が劣化しているから生まれる。悔しさ、屈辱、不安、嫉妬、孤独、退屈。それらがうまく処理されず、他者への憎悪として噴き出す。
では、「リベラル・左派」はどうか。
ネトウヨが知性の劣化ではなく感情の劣化だとすれば、「リベラル・左派」の説教癖は、感情の劣化ではなく政治的知性の劣化ではないか。
ここでいう知性の劣化とは、学歴や読書量のことではない。東大を頂点とする偏差値のことでもない。むしろ、「リベラル・左派」には高学歴で本を読む人が多いだろう。知識もある。正しいことも言っている。
しかし、政治的知性とは、正しいことを知っている能力ではない。
自分の言葉が相手にどう届くかを読む能力である。
その言葉が力関係をどう変えるかを読む能力である。
自分の発話が、相手を動かすのか、意固地にするのか、第三者を引き寄せるのか、遠ざけるのかを読む能力である。
その意味で、「リベラル・左派」の説教癖は、かなり病的である。
説教しても治らない相手に、説教してしまう。
それは、なぜなのか。
たぶん、説教は気持ちがいいからである。
説教している間、自分は正しい側にいられる。相手は間違っている。相手は差別的で、無知で、愚かで、危険である。自分はそれを指摘する側である。現実の政治を変えられなくても、相手の誤りを指摘することはできる。社会を変えられなくても、言葉を正すことはできる。力関係を変えられなくても、道徳的な優位には立てる。
これは、かなり安い快楽である。
ネトウヨが「なんかおもしろくない」という不満を、排外主義や排左主義に変換しているのだとすれば、「リベラル・左派」は「現実を変えられない」という無力感を、説教に変換しているのではないか。
右は、不満を憎悪に変換する。
左は、無力感を説教に変換する。
どちらも症状である。
もちろん、ここで「どっちもどっち」と言いたいわけではない。排外主義や差別は、現実に人を傷つける。外国人、マイノリティ、生活保護受給者、女性、研究者、メディア関係者、さまざまな人に実害を与える。そこを相対化するつもりはない。
しかし、「リベラル・左派」の説教もまた、政治的にはかなり稚拙だ。
相手を治さない。
相手を包摂しない。
相手を倒しもしない。
ただ、相手をより意固地にする。
その結果、ネトウヨ症候群は治るどころか、さらに悪化する。
そう考えると、先の選挙以降に出てきている「リベラル・左派は反省せよ」という議論も、まだ浅いように思う。
説教臭かったから反省しよう。
ウォークが行き過ぎたから反省しよう。
大衆を見下していたから反省しよう。
それはたぶん、間違ってはいない。
しかし、本当に問うべきなのは、その先である。
なぜ説教してしまうのか。
なぜ包摂できないのか。
なぜ、相手を症状として見ることができないのか。
そして、症状として見るなら、誰がそれを引き受けるのか。
ここまで問わなければ、反省はまた説教になる。
「リベラル・左派」はもっと謙虚になれ、という説教になる。
「リベラル・左派」はもっと大衆に寄り添え、という説教になる。
「リベラル・左派」は説教するな、という説教になる。
説教するな、という説教。
それでは何も変わらない。
ネトウヨは思想ではなく症状である。
そして、「リベラル・左派」もまた症状である。
では、症状に対して、どうするのか。
説教ではない。
反省でもない。
正論でもない。
残る選択肢は、たぶん二つしかない。
革命か、包摂か。
■ 革命か包摂か、愛か暴力か
ここでいう「包摂」もまた、私にとっては宮台用語である。
宮台真司は、かなり早い時期から「脱社会化」という言葉を使っていた。四半世紀以上前からだと思う。社会から切り離され、共同体や身体性や他者との手触りを失っていく人々。そのような存在をどう考えるのか。その文脈で、宮台は「包摂」の重要性を説いていた。
これも記憶で書くが、宮台はネトウヨ(彼の言い方では「ウヨ豚」)を改心させるのは基本的には難しい、という趣旨のことを言っていたと思う。
理屈を言っても無理。
説教しても無理。
改心させるには包摂が必要である。
普通は無理だが、宮台ゼミに来れば改心させられる。
だいたい、そんなようなことを言っていたと記憶している。
これも出典が見つからないので、私の記憶違いということでもよい。ただ、少なくとも私は、その話をかなり重要なものとして覚えている。
包摂とは、相手を好きになることではない。相手の言い分を正しいと認めることでもない。差別や陰謀論や排外主義を許すことでもない。
包摂とは、相手の愚かさ、卑屈さ、攻撃性、被害者意識、承認欲求、生活不安、退屈、嫉妬、孤独を、引き受けることである。
ここで、「社会が包摂すべきだ」と言ってはいけない。
その言い方こそが、私が批判したい中途半端で無責任な「リベラル・左派」の態度である。社会とは誰なのか。行政なのか。学校なのか。福祉なのか。地域なのか。どこかの親切な誰かなのか。
「社会が包摂すべきだ」と言った瞬間、その人はもう逃げている。
包摂の主語は、「社会」ではない。
あなたが、である。
私が、である。
あなたの時間で。
あなたの金で。
あなたの生活圏で。
あなたの共同体で。
あなたの身体で。
それができないなら、包摂などと言うべきではない。
「社会が包摂すべきだ」という言葉は、いかにも正しそうに聞こえる。しかし、その正しさがすでに逃げである。愛の主語を「社会」にした瞬間、愛は行政用語になる。
もちろん、暴力革命を肯定したうえで「社会が包摂する」と言うなら、それはそれで筋が通っている。社会そのものを強制的に組み替えるという話だからだ。
だが、暴力革命を否定し、現行秩序の内部にとどまりながら、「社会が包摂すべきだ」と言うのは、かなり都合がいい。
それは、自分では引き受けないということだからだ。
革命か、包摂か。
言い換えれば、暴力か、愛か。
ここでいう愛は、きれいなものではない。
優しさではない。
博愛でもない。
人権作文でもない。
多様性のスローガンでもない。
愛とは、面倒な人間を自分の生活圏に入れることである。見たくないものを見ることである。聞きたくない不満を聞くことである。相手がそうなった条件を、抽象的な「社会問題」にせず、自分の前にいる人間の問題として引き受けることである。
それは、かなりしんどい。
だから普通はできない。
できないから、人は説教する。
説教は、愛より安く、暴力より安全である。
愛は、相手を引き受けなければならない。
暴力は、相手を敵として倒し、その帰結を引き受けなければならない。
しかし説教なら、自分は安全な場所にいられる。
相手は間違っている。
自分は正しい。
相手は差別者である。
自分は反差別である。
相手は無知である。
自分は学んでいる。
説教している間、自分は正しい側に立てる。
だから説教は気持ちがいい。
私は、「リベラル・左派」の中途半端さはここにあると思っている。
彼らは暴力革命を否定する。
それは分かる。
だが、暴力革命を否定するなら、包摂するしかないはずである。ネトウヨを、排外主義に逃げ込む人々を、排左主義にすがる人々を、愛するしかないはずである。
ところが、それもしない。
彼らは、相手を包摂しない。
相手の不満を聞かない。
相手の退屈を引き受けない。
相手の生活不安に触れない。
相手の屈辱を自分の問題にしない。
ただ、説教する。
彼らの問題は、正しすぎることではない。
正しさの帰結を引き受けないことである。
ここまでが、私の「リベラル・左派」批判である。
そして、ここで話はいったん終わる。
私も、暴力革命を起こせない。
私も、包摂を引き受けられない。
ネトウヨ症候群を抱え込む愛は、私にはない。彼らと飲みに行き、話を聞き、生活の不満を受け止め、孤独をなだめ、排左主義に流れ込まない別の居場所を作る。そんなことをする度量はない。
一方で、誰かを殺してでも守りたいものが、いま目の前にあるわけでもない。現行秩序に不満はあるが、それに逆らうデメリットの方が大きい。だから私は、現行秩序に従っている。
ただし、それを「良識」とか「成熟」とか「民主主義への信頼」とか呼んで美化する気はない。
私は飼い慣らされている。
そして、飼い慣らされていることを、飼い慣らされていると認めている。
それを私は、「自虐的リアリズム 」と呼んでいる。
愛も暴力も引き受けられない。
包摂も革命もできない。
だから、ヘラヘラしている。
まあ、説教しているよりは、少しだけマシだろう。
そう思いたい。
希少性がある限り、人間社会は暴力から逃れられない。政治はその暴力を配分し、手続きで隠すことはできる。しかし、希少性そのものを消すことはできない。
ならば、最後に残る希望は、希少性そのものが消えることだ。
政治に期待できない。
革命もできない。
包摂もできない。
説教にも飽きた。
それなら、あとはシンギュラリティの到来と、ポストスカーシティ社会の実現を祈るしかない。
ハサビスさん、頑張って。
今回の話の前段として、以前書いた「中受とアノミー」がつながっている。あちらでは、リベラル左派の言葉が届かなくなる共同体的な背景を書きました。
