謀りごとにはうってつけの殺人 [2/3]
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午後十一時、実験室には西條がキーボードを打つ乾いた音だけが響いていた。静けさは冬の寒さをいっそう強めている。隣の実験台にヘッドマウントディスプレイが無造作に転がっている。ひざ掛けを剥ぎ取り、西條は空のマグカップを持って立ち上がった。
実験室の扉を開けて廊下へと出る。人感センサーが反応し頭上のLED灯から白い光が落ちた。左右に伸びる廊下の先は暗闇に消え、正面の居室の扉だけがくっきりと浮かび上がっている。西條は居室に入るとマグカップにインスタントコーヒーの粉を適当に放りお湯を注ぐ。
西條のデスクの上には積まれた論文の山がいくつかある。一番手前の山を手元に引き寄せ、上から順に捲っていく。目当ての論文は十報も見ない間に見つかった。スタンフォード大学の研究チームによる報告である。VR空間でスーパーマンとなって人助けをした経験をすると人は親切になるという。その研究では、VR体験後にわざと参加者の前でペンを落とすとスーパーマン体験をした全員がペンを拾った。一方対照群は――彼らにはVR空間でヘリコプターに乗せた――ペンを拾わない者もいたという。ペンを拾った場合も、拾うまでの速度はスーパーマン体験群が早かった。
田端の研究テーマはこの報告に関連する。つまり『善意が善行を促すのではなく、善行が善意を引き起こす』という仮説にたって研究を進めていた。
――この研究は他者をコントロールするものですか? 判断や行動を変えることはいくらでも悪用ができそうです。この点についてはいかがお考えですか?
森瀬研のメンバーに嫌というほど浴びせられたお決まりの質問だった。面倒なので森瀬からは当たり障りのないコメントをするように言われている。倫理観は果たして誰に必要なのか。科学的事実に罪はない、声高らかに叫びたいと心の底では思っている。しかし場合によってはその回答は研究者としての自殺行為と同義になる。
――悪意の検証をしているんではないんです。私は善意の検証をしているんです。
田端の返答には危うさを感じた。悪用できると暗に認めているようなものだし、善悪は条件次第でいかようにでも逆転する。
ドアノブをまわす荒い音が来訪者を告げる。西條は手元の論文を山の途中に差し込み、回転いすに身を任せて扉を向いた。開かれた扉の先には田端の姿があった。
「やっぱり悠か。実験室の方の明かりもか?」
昼間抜けた時は夜に研究室に来る。これまでの付き合いでよく知る田端の行動である。
「ああ、テム社の開発品の鏡があっただろ? あれの出力画像の調整をしたくてね」
「あの案件、悠がやらされてんのか。面倒くさいのによく引き受けたな」
付き合いの濃いテム社からは、試作機の効果検証を求められることがよくある。森瀬が担当を適当に振り分けるのだが、今回は西條が貧乏くじを引いた。田端は言われても断るか適当に済ますので、そもそもの頭数に含まれていない。
「言われたデータさえ出せばいいし、予算を超えない範囲なら見返りに自分の研究用にも改良して使える。そう悪いとまでは言えないよ」
鏡といいつつも実際は上部についた小型カメラの映像を左右反転してリアルタイムで有機ELディスプレイに出力している。画像データのため、顔の各部位の形状や位置、色を任意に変化させることができる。実物より目を大きくしたり、頬を染めたりできるのでテム社としてはZ世代向けのコンパクトミラーとして売り出せないか検討しているらしい。
テム社から構想の説明を受けた当初から今現在も需要には懐疑的である。精密かつ複雑な出力に耐えうるので技術的には興味深いが、若者の活用としてはスマートフォンアプリで事足りるのだ。スペックがいくら上がっても興味が湧くはずがないことは感覚として担当者も分かってはいるのだろうが、それでは経営陣の承認がおりないらしい。
まだ試作段階のためサイズは大きく置き鏡仕様である。西條は化粧品を選ぶとその化粧顔が現われるメークシミュレーション用に改良して研究室の女性の反応を見ている。
「たまにはアカデミア視点から外れてガジェットありきで研究するのも悪くない。人様の金で実験できるし、社会に役立つ研究ですって大腕振れる」
最後の皮肉に田端は声を出して笑う。
「違いない。応用研究があってこその基盤研究だ。実社会で試さなきゃならない」
田端は自席のデスクトップPCには触れず、背後にある研究用のハイスペックPCを立ち上げる。ふたりはしばらく黙って作業を進めていた。頃合いを見計らって田端の様子をうかがうと、二枚の作業ディスプレイの一方にはソースコードで埋まった画面が、もう一方には燃えさかる洋館の映像が映っていた。
「ん? その火事の映像、この前の研究報告会じゃマンションじゃなかったか?」
「ちゃんとマンションもある。あっちは消防隊員になって災害救助する体験だ。思いついてこれを試してみようかと」
田端が差し出したものは有名なミステリ小説であった。
「ミステリって、まさか」
「そう、名探偵体験が何をもたらすのか。スーパーマンがあるなら名探偵も必要だろ?」
田端の言い分に全く理解は及ばなかったが、虚構の存在と接地した時に人は何を学ぶのかはたしかに興味深い内容であった。田端は時折、真面目かふざけてか分からない調子で突拍子のないことを始める。
「いやでも探偵って事件に巻き込まれてから解決するまで長くないか?」
「いい質問だ。ひと通りの事件すべてを体験させると没入感こそよくても長くて単純評価ができない。短くすると何が名探偵体験なのかさっぱり分からない」
つまりうまく提示できずに研究には使えないということだ。犯人視点ならば切り取っても体験になるのでは? と思い立ったが伝えることはしなかった。それこそ悪意のインストールだ。
「作ってはみたけどやっぱ成立しなさそうだな。ひとまず今日は止めとくか」
「潔いな。他の作業とかないのか?」
「あるっちゃあるけど、テンション下がったからいいや。悠はまだやるの?」
田端はPCをシャットダウンする。田端が研究室へやってくる前にひと通りの作業は終えていた。今しがた作業を終えたふりをして、外付けハードディスクにデータを移行し、抜き取ったハードディスクをトートバッグに入れる。
「俺も終わるよ。智、少し時間あるか?」
「大丈夫だけど、急にあらたまってどうした?」
田端は小型の冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出す。先ほどまで作業していた場所には戻らず、西條の横に椅子を寄せて座る。
「いや今日、アプリで知り合った子と会ったんだろ? どうだったかなと思って」
想定外の質問だったのか、田端は目を丸くする。
「堅物人間が珍しいな、風邪か? もしくはクリスマス前の雰囲気に屈したか?」
田端と研究以外の話をすることは苦手だった。ましてや女性の話をどう切り出してよいのか分からなかった。
「そうじゃない。明日、森瀬先生が帰ってくるだろ? お前、今日一旦抜けたし余裕があるなと」
「なんだ、説教か。その辺は抜かりない。愛しの後輩が頑張ってくれたからな。緑女の子を紹介してやるって言ったら目を輝かせてたぜ」
緑女と聞いて驚いた。田端からその言葉が出るとは思いも寄らなかった。よい流れに乗じて水を向ける。
「もしかして今日会った子は緑女だったのか?」
「……ああ、DMしてたらまさかの緑女でびっくりしたよ」
芹崎に関係のある人物だろうか? 彼女はもうこの世にはいない。そもそも人に会っていたかどうかも定かではない。不自然な間は動揺をあからさまに表しているようだった。
「羨ましいかぎりだ。もしかして土曜日来なかったのもその子なのか?」
「土曜は別の用事だ。博士に進んだら今より時間ないだろ? 今のうちに遊んどこうかと」
見た目の華やかさと軽い言動で誤解を招くことも多いが、田端もまた研究に貪欲な人間であることは間違いない。森瀬もよく理解していて自由にさせている。遊びこそすれ研究より優先するという理由を口にすることに違和感を覚えた。
「わざわざ引き留めてまでなんだよ。もしや森瀬先生から見張りを頼まれたな」
「なあ土曜日、髙山会館を使っただろう? 何をしていた?」
田端は瞬時に表情を曇らせる。
「……お前、何か知ってるのか?」
「何のことだ? 土曜日に智を会館の近くで見かけたんだよ。遠かったから声はかけなかったけど」
踏み込み過ぎたか、平然を装う。
「そういうことか、金曜日にあそこ使っただろ? 実験ノートを忘れて取りに寄ったんだよ。時間があったから会館でそのまま論文読んでたけどな」
金曜日の実験は一階大会議室を使ったことは、学部生に確認していた。論文を読むためだけに三階に行く必要はないはずだ。田端は表情を固めていた。芹崎と一緒にいたのだろうか? 田端は明らかにこちらの様子を警戒している。
「ちゃんとやってるじゃないか。土曜も研究室に顔を出さなかったし心配して損したよ」
これ以上の追求はないと考えたのか、田端は安堵の表情を浮かべた。
「だから抜かりないって言ったろ」
調子を戻した田端はスマートフォンをデスクの上に置いた。その行動が妙に気になった。土曜日のことを聞いている間、田端は両手でスマートフォンを握りしめていた。
西條は自身のスマートフォンに視線を落とす。研究にも使いたかったため、必要スペックを満たす機種を選んだ。田端も同じ理由で同機種を購入していた。色は紺と黒で薄暗い部屋だと違いに気がつかない可能性が高い。幸運にも先週に田端が西條の目の前でロックを解除した。そのロック解除パターンを覚えていた。頂点から左回りにロの字を描けばよい。西條はひとつの賭けに出る。
「智、ちょっと手伝ってくれないか? 急ぎで組んでおきたいプログラムがあったのを忘れてた」
西條は実験室を指すと田端の返事を待たずに歩きだした。田端はスマートフォンを手に取ると西條を追ってくる。田端から手元が見えないように背で隠し、西條は自身のスマートフォンの電源を切った。
田端に頼んだプログラミングは集中して五分程度で終わる作業だろう。田端のスマートフォンは作業中の田端の後ろの実験台に置かれていた。西條は作業を眺めるふりをしながら、慎重に後ろ手で自身のスマートフォンとすり替える。
「居室には用がないしPCを落として荷物をこっちに持ってくるよ」
田端は背中越しに左手を挙げる。はやる鼓動を抑えながら西條は実験室をあとにした。万が一、入れ替えた西條のスマートフォンを手に取ったとしても電源を入れるまで少しの時間は稼げるはずだ。
西條のPCには普段からマイクロUSBケーブルが挿しっぱなしにしてある。田端のスマートフォンを繋ぎロック解除パターンを入力すると、問題なく解除された。画像ギャラリーの最上段に動画ファイルがあった。保存日は土曜日、これに間違いない。保存フォルダの場所を開き、動画を西條のPCのデスクトップ上に複製する。短い動画だったようで複製作業はすぐに完了した。
動画の中身を確認する時間まではない。メールソフトから新規メールを立ち上げてファイルをドロップしメールに添付する。これであとから西條のスマートフォン上で確認ができる。急いでPCをシャットダウンする。
音を立てないように実験室の扉を慎重に開く。隙間からのぞく田端は作業を続けており、扉が開いたことに気がついていない。最大限の注意を払って扉を閉める。足元の機器類やケーブルに気をつけながらゆっくりとカーペットを進んでいく。キーボードを叩く小気味よい音が段々と大きく聞こえてくる。恐ろしいほど長い時間を体感し、ようやく田端の背後までたどり着く。手を伸ばしスマートフォンを入れ替えようとした瞬間、田端がエンターキーを強く叩く。作業を終えるときに行う癖だ。まずい、田端が後ろを振り返ろうとする。
咄嗟に持っていたトートバッグを田端の右横に落とす。バッグの中身は幾重もの激しい音を立てて床に散乱する。田端は背を跳ね上がらせて立ち上がる。振り返った田端の表情はひどく強張り目を見開いていたが、西條の顔を認めるとすぐに弛緩させた。
「すまん脅かすつもりは、あったがバッグを落としたのは故意じゃない」
「ふざけんな。心臓止まるかと思った」
西條は座り込んで足元のハードディスクを拾いあげる。
「やってしまった。壊れてなければいいけど。智、ついでにそっちに転がっていったペンを取ってくれないか?」
文句を垂れ流しながらも田端は右手側に転がった荷物をすべて拾っていく。
「ほらよ」
「すまんな。頼んだプログラムは……問題なさそうだな」
ふたり揃って研究棟を出る。
「俺は一服してから帰る」
田端は喫煙所へ消えていく。
西條は南門から出て自宅へと歩き出す。十二時も越えるとずいぶんと冷え込む。ダウンジャケットのファスナーを首元まであげる。予定よりも帰宅が遅れている。西條は歩みを速めた。自宅近くのコンビニエンスストアは煌々として不気味であったが、入店した足でトイレへ駆け込む。鍵を掛けバッグからイヤホンを取り出すと、乱暴にスマートフォンに差し込んだ。
田端が落ちた荷物を拾っているあいだに、すんでのところで取り戻すことができた。保存メールから目的の動画を開く。
映っていたのは白郷大学大学院進学への口利きを餌に、田端が芹崎に見返りを求めた映像だった。防犯カメラに細工をし、芹崎を侵入させたのは田端であった。
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玄関には見慣れた黒のショートブーツがつま先を玄関に向けた状態で揃えられていた。シューズボックスの上にある小皿に鍵を置く。小皿にはすでに鍵がひとつ置かれてあり、重なりぶつかった拍子に鈍い音を立てた。姿見をのぞき乱れた前髪をただす。ダウンジャケットを脱ぎつつ廊下を進む。
ダイニングルームへと続く扉のドアノブに手を掛けて、西條ははたと動きを止める。扉の下の隙間から漏れる光の量が極端に少ない。一方でまったくの暗闇という訳でもない。意を決してドアノブを回す。乾いた扉からは軋む音がする。西條は目を見開いた。部屋には想定以上に負の感情が満ちていた。
正面にあるダイニングテーブルの奥側の椅子にマリーが座っている。テーブル中央をぼんやりと見つめ、時折まばたきをする以外に表情に変化がない。シーリングライトは点されておらず、西條からみて左手側のキッチンからの明かりのみが部屋をうすぼんやりと照らしている。マリーの冷たいのっぺりとした表情が右半分だけ浮かび上がっている。数日前に見た時よりも一層白い印象を受けた。笑顔の絶えないマリーが精神的な病に侵されたと説明を受ければ研究室の誰もが納得するだろう。
「ごめん遅くなった。マリー?」
西條の声にマリーがゆっくりと顔をあげる。時間をかけて徐々にマリーの焦点が西條に合う。
「……ああ、ハルくん。おかえり、待ってたよ」
か細い声に不安を覚える。マリーをソファに移動させようと近づいたところで異変に気がつく。
「これ、どうしたの?」
マリーの右手首を取る。右手は赤く染まっていた。よく見ると手のひらに無数の切り傷があり、そこから血が流れ出ているようだ。血を洗い流そうとキッチンのシンクへマリーをそっと引き寄せる。シンクには割れたワイングラスが転がっており、鋭くとがった淵から排水溝に向かって細く赤い道ができていた。
「ごめんね。なんだか悲しくなって、握りしめたら割れちゃった」
呆然と言い放つマリーの言葉に、悲しさなど微塵も含まれていないように感じられた。あったのは冷たい怒りの感情だった。
この様子では出張の際、森瀬は困っただろう。のちに森瀬から聞いたところ、あまりにもひどい状態だったため会食は中止にしたそうだ。東京駅からタクシーに乗せて帰らせたらしい。マリーはその足で西條のマンションへとやってきた。
「あー本当にごめんね。ハル君に迷惑かけちゃった」
流水をあてるとマリーは顔を顰めた。消毒をして包帯を巻く。しばらくするとマリーは上辺だけ明るく取り繕って謝罪と感謝を口にしたが、すぐにぼんやりとした表情に戻った。一昨日よりも状態が酷くなっている。
「修平さんと連絡とってる?」
マリーはゆっくりと首を横に振った。マリーと夫の修平との関係はよいとは言えない。なにか特別なことがあった訳ではない。ただマリーに無関心であるという一点だけであった。四年前の結婚後からすぐに始まって以来、真綿で首を絞められ続けたそうだ。そして三日前に金曜日、海外出張にいく修平を玄関で見送ったあと、緊張状態であった糸がぷつりと音を立てて切れた。『殺された日』とマリーは言う。
「データはまとまった? 今日は一緒に寝る?」
金曜日、土曜日と続けてマリーは西條の元に訪れた。半年前から付き合いを始めているが、西條の部屋に連日くることなどなかった。今はできる限り傍にいたほうが精神状態も安定するだろう。
「大丈夫、終わらせてきた。シャワー浴びてくるから、よかったら待ってる間にこれを試してくれない? 画面が気持ち悪いって言ってたから改良したんだ」
リビングのローテーブルの上に置いてある鏡を手元に寄せる。テム社の開発品だ。PCに鏡とハードディスクを繋ぎ、今日実験室で改良した仕様を反映させる。田端の横に落としたハードディスクは幸いにも損傷していなかった。
「よし、これでオーケー」
マリーをソファに座らせて鏡を覗いてもらう。上手く動いているようで、鏡に映るマリーの顔には微笑みが浮かび、頬に赤みがさしている。西條は実際のマリーの顔と鏡像を見比べる。ふたつの顔は少し異なっていた。
「……気持ち悪さがなくなってる。むしろいいかも。ハル君がシャワー浴びてるあいだに色々と試してみるよ」
マリーは鏡の端に設けられたアイコンをタッチして、様々なメーク顔を作成しては保存していった。マリーの好きな化粧品ブランドの最新データを入れており、よく馴染んでいた。うつくしい顔が次々と現れていく。
西條は撮影したベースとなる顔画像に手を加えていた。口角や眉の位置、血色は実際の顔よりもわずかに変更された状態で鏡に出力される。美容雑誌を眺めていて、表情豊かなモデルがよりメーク映えしていることから考案した機能だ。明るい表情を提示すればマリーは前向きになるだろうと踏んだのだが、うまくいったようだ。
シャワーから戻るといくぶんかマリーの表情は改善していた。マリーの右手に触れないようにそっとベッドに入る。鎖骨下に入った小さなツバメのタトゥーにそっと口づけをするとマリーが微笑む。その様子をみて西條は安堵した。
「少しは落ち着いた?」
「ハル君と一緒にいれば、つらいことも頑張れる気がするよ。ありがとう」
マリーの小さな頭を抱え込む。鏡の作用のことは伝えていない。心理実験では実験者の意図を被験者が理解すると没入感が薄れ、効果が出にくくなることは多くある。明日以降も使ってもらえれば徐々に明るいマリーに戻るだろう。
今日は精神をすり減らすことが多かった。ほっと一息つくと、急激に眠気が襲ってくる。西條は頭を振ると、マリーの頭の下に右腕を滑り込ませる。
「マリー、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
マリーが身体ごとこちらを向く。
「金曜日に実験で髙山会館に行っただろ? 田端の様子におかしなところはなかった?」
「おかしなところって?」
「普段と態度が違ったとか、行動が違ったとか」
「ん、実験に関していえば特に変なことはなかったと思うけど。強いて言えば実験が終わったあと、妙に優しかったかも。同意書のコピーをわざわざ自分で取りにいったり、飲み物を買ってきてくれたり。普段そんなに気を遣う人じゃないでしょう? そこはちょっと違和感あったかな」
事務室近くに何度も足を運び、機会を見計らって防犯カメラを止めたのだろう。
「田端君がどうかしたの?」
「いや大したことはないんだ。さっき研究室に田端が戻ってきた時にちょっと様子がおかしかったから。金曜じゃなくて土日になにかあったかな」
マリーの様子を窺い見る。土曜日、田端は芹崎を髙山会館に忍び込ませた。マリーは土曜日何のために会館へと足を運んだのか? 間接照明は薄闇の中、彼女の首から顎あたりを浮かび上がらせている。西條はそのなめらかな皮膚をじっと眺めていた。
「……田端君なら土曜も会館にいたみたい。わたしとはすれ違いだったけど」
眠気は完全に追いやられ意識が研ぎ澄まされる。跳ね起きたい衝動をどうにか抑える。
「マリーが個人的に会館を使うなんてめずらしいね」
「相手に指定されて。そのときに聞いたんだけど、わたしの前に田端君に会ってたんだって」
頭を打ち付けられた思いだった。田端の手によって侵入した芹崎玲はそのあとにマリーにも会っている。なぜ田端と芹崎が髙山会館を利用したのかがよく分からなかったが、マリーとも会うためだった。
「その相手って芹崎玲さん?」
「えっ、彼女のことハル君も知ってるの?」
「いや、田端から緑女に親しくしている人がいるって聞いたから。その芹崎さんはマリー相手になんの用だったの?」
「なぜか、ちょっと前にSNS経由で連絡がきて。院に行くか、就職するかで悩んでたみたい。テム社の人事部長か研究所長を紹介してくれないかって。正直、緑女の学部卒だとテムで希望する職種にはつけないし、紹介すること自体も難しいってはっきり伝えたけど、彼女もそれは分かってたみたい。だから田端君に――」
「白郷の院に入りたいと」
マリーは頷く。白郷の院卒なら確かにテム社の研究職に就き易いだろう。芹崎のことはよく知らないが、平均的な緑女生ならば白郷の院試に合格することは難しい。田端はその状況を利用し、芹崎を誘い込んだ。芹崎は田端からマリーの情報を得たのかもしれない。就職にせよ大学院入学にせよ、正規ルートを使おうとしない芹崎の強かさに脱帽する。
「芹崎さんと会ったあとはふたりで会館を出たの?」
マリーは怪訝な表情を浮かべた。
「……田端君じゃなくて、芹崎さんのことが気になるの?」
西條はかぶりを振って取り繕った。
「いや、マリーと会ったあとに田端と芹崎さんがまた会ったんじゃないかと思って。ほら、ようやく田端に彼女ができたのかと」
「他人の恋愛に興味を持つなんてハル君らしくないね。実は芹崎さん、わたしとの話で機嫌損ねちゃって。しょうがないかもしれないけど、正直に伝えたことで馬鹿にされたと思ったみたい。一緒に出るように伝えたんだけど、電話する用があるからって断られた。わたしと一緒にいたくないんだなってその時は思ったんだけど、もしかして田端君と会ってたのかも」
芹崎はどう言いくるめられたのか、田端の策略下で髙山会館に忍び込んでいた。それを知らないマリーと事務窓口前を通ると事務員に怪しまれる可能性がある。マリーの言う通り田端と会ったのかもしれないが、カメラ映像が残っておらず死人に口もない。
田端は戻ってきたのだろうか? 芹崎が田端のあとにマリーに会うことを知ったのであれば、殺人計画を見直して別の日に犯行に及べばいいのだ。戻るリスクが高すぎる。マリーに罪を着せることができると判断したのか? 罪を着せるつもりであれば、既にマリーが犯人となり得る証拠が出ていてもおかしくはないが、そうではない。
であればマリーが罪を犯した可能性が俄然高くなってくる。素直に考えるのであれば芹崎と最後に会ったのはマリーで、それはつまり殺害機会が十分にあったということに他ならない。
どちらかが芹崎を殺した。可能性の芽を残すのであれば、片方に決定づけることはできない。どちらかが犯人である蓋然性が高まれば磯山は満足するであろうか? ふと隣を見るとマリーは寝息を立てていた。西條も混乱する思考とまどろみに身を任せ、眠りについた。
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