「ノーサイド」について、朝のメモ
夜中の3時に目覚めて、ふと思った。
どうして様々な復権運動は、終結宣言をしないのか。
差別はヒトの心に残って終わらないからか。
そこでまた考えた。
被差別はどのように終わるものなのか。
差別は何をもって「終わった」と言えるのか。
最後のひとりまで「偏見」を失くしてから?
つまり差別する側の人々の心次第なのだろうか。
それを指標とするのは何だか嫌だなと思う。
いや、分かってる。
差別は後々まで、こまごまと、残り続けるのだ。
「この課題が未解決だった」ということも出て来る。
そこでの対応は必要になるだろう。
また寝て、起きて、再び考える。
しかし私はちがうように考えていたようだと。
「象徴的な」法的整備。教育における整備。
誰もが同じように生をスタートできて学べる環境であること。
それが保障された時点で、勝利宣言をしてよいように感じていた。
例えばひとつ「同性婚」という平等を示して、国民が祝福されるような。
読みさしの本にここまで読んだと栞を挟むような。
「甘い」だろうか。「考えが足りない」だろうか。
人権の歩みに、私たちは「喜び合う」経験をしていない。
それが嬉しい経験なのだと知らない。
それぞれが人権的勝利であったと思うのに、分かち合わない。
「もう差別されなくてよい」と喜ぶ人々がいると知ってさえ、それが「もう差別しなくてよい」というもう一方の喜びでもあると、知らない。
誰もそんな風に教えないから?
だからマジョリティはいつも、葬式のような顔をしている。
終わらない懲罰と苦役が始まったというような顔をしている。
「差別者め!」「悪人め!」と名指される恐怖しかなかった。
それが自分たちにとっても解放だと、知ることがなかった。
「支配者になれ」と育てられた人々の解放を祝うことがないから?
私は想像している。
国やマジョリティ側が「差別は終わった」と言えば、支配だし抑圧だ。
しかしマイノリティは段階的な象徴的勝利を、都度祝ってよい。
その祝いの席にマジョリティを迎え、互いの解放を祝い合えばよい。
私たちはこの歩みにおいて、共に勝利を手にしたのだと。
これで一緒に歩めるようになったと。
これから、共に進んで行くのだと。
そんなひとときを味わって来なかった、続きを生きている。
解放される喜びを、祝いたい。
悲しみはいつも、一方のものだったか。苦しさは。
(NO、と言い続けよう)
そんな小さな、朝の確認。

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