TORAJIRO個展(2025/08/02終了)
この個展はご自身も画家である清方さんのおすすめだった。そのレビューに心をつかまれて、同じ絵の前で同じように立ち尽くしてみたくなった。
東銀座で地下鉄を降りれば、目指す画廊はすぐだった。工事のためにA2出口が封鎖されていたのでA1出口から出たが、それでも横断歩道を渡るだけだった。8月2日17時。約一か月もの期間があった個展の最終日も、間もなく終わろうというタイミングだった。先の参院選後、気分が沈んでいた。何も楽しめなかったし、出かけるのは億劫だった。個展そのものは楽しみだったが、ずるずると先延ばしにしていたのだ。しかし最終日、もう後がない。納期が迫った仕事で腰も悪くしていたのだが、出かけることにしたのだ。
個展が最終日だったことに加えて、意外にもきっかけになったのは出版元から送られて来た徐京植氏の本だったかもしれなかった。私は徐京植氏の死後、徐京植氏の本が読めない。献本していただいたことは感謝しているが、何か少しでも宣伝になることをしたいと思えば、その本を読まなくてはならない。タイミングとしては辛かった。しかし「電車のなかで読もう」と思うことができた。家でひとり読むのはつらいが、街の喧騒を意識半ばに捉えながらなら、他に遺稿がなければ氏の最後の出版であろうその本も読み進められそうな気がしたのだ。そうして、銀座に立った。前回来たのはサングラスを作りに来た時だった。忘れもしない、肉親から裏切られ、精神状態がひどく悪い時期だった。日々どうしても左手の小指を自分の歯で嚙み切りたくなる衝動と闘っていた。そんな自分を立て直したくて、ふとサングラスをオーダーしようと思い立ったのだった。「今回は平和な用事だ」と思う。花火でもあるのかちらほらと浴衣姿の女性がいる。街の華やぎを感じた。昭和通りにも立ち並ぶハイブランドのビルを横目に信号を渡り、画廊に向かった。
エレベーターを降りると、50代の終わりと思しきゲイカップルが帰ろうとするところだった。二人は楽しそうに見える。こういう時、やはり何となく仲間意識のようなものを感じる。少し笑顔を多めに会釈して道を譲った。ふたりがカップルだと察した上でこちらがそうしているのだと分かって欲しかった。ふたりから展示スペースに向き直ると、そこにTORAJIRO氏がいた。

Boys Just Want to Have Fun
「ただ楽しみたいだけ」
その言葉の裏にはいくつもの沈黙と葛藤があります。
個展「Boys Just Want to Have Fun」は、「静かなレジスタンス」の集積です。
そこには声高な主張はありません。描かれた男性たちの身体やまなざし、画面を満たす色彩が語りかけ、そして言葉にならなかった感情の「痕跡」を残します。
近年、世界各地でLGBTQ+の権利が前進や後退を繰り返す中で、私たちは「ただ生きる」「ただ楽しむ」ことすら、政治(やそれぞれの国の法律)に左右されることをまだまだ実感しています。
日本においては、同性婚の法制化はいまだ実現せず、学校や家庭、職場といった日常のあらゆる場所で、マイクロアグレッション(さりげない差別)や制度的な抑圧が根強く存在しています。
このような状況において、TORAJIRO の描く男性たちは「声高な主張」ではなく、「沈黙の中にある感情」で世界と対峙しています。彼らはこちらを見つめ、時に視線をそらし、動物たちと寄り添い、ただ立ち尽くします。
絵画の中に流れる色彩の全ては、複雑な感情の痕跡です。
個展タイトル「Boys Just Want to Have Fun」は、1980年代のシンディ・ローバーのフェミニスト・アンセム「Girls Just Want to Have Fun」へのオマージュでもあり、同時に、ジェンダーの枠を超えた自由とユーモアを内包するアイロニカルな表現です。
この展示を通じて、「日々を楽しむこと」「だれかを愛すること」「自分に正直になること」といった、ごく当たり前で、だからこそ奪われやすい行為の尊さを再確認したいと考えています。
絵画は、政治的スローガンを叫ぶ代わりに、沈黙と色彩を通して、もっと深い真実を語ります。
その静かな語りかけが、あなたの心にそっと響く空間になりますように。
TORAJIRO
「あの……撮影してもよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ」
「どの絵ならOKでしょうか」
「全部OKです」
他にも客はいる。忙しそうなTORAJIRO氏だったが、合間に話をさせてもらった。私は何を訊いたのだっけ——たとえば男性モチーフの絵がもつ意味だ。彫刻でも絵画でも、人が神々を描いた時代をのぞいて、男性をモデルにしたものは決して多くはない。特に裸体が描かれる場合は。
「一人なら、ただ男性であるだけです。しかし二人だと、人が絵に見るのはゲイです。メッセージ性を帯びますよね」
「そうですね」
「メッセージ性と言えば、『声高ではない』とありました」
「トランプ大統領の一件があって、しかし僕たちの存在や日常で発言に対峙したいと考えたんです」
「とてもポップですよね。抑圧を描こうとはなさらなかった。被害を思わせる絵は今回、絆創膏の一枚だけですよね」
「そうです。もう幸福でいていいのだということを、ほかのことよりも言いたかったんです」
「しかし今は彼らの目は一様に愁いを帯びている。二人でいる時にさえ」
「そうですね」




「この絵、面白くて。だって向日葵じゃないですか。ゴッホの」
「構図の半分を使って、リスペクトなんです」
TORAJIROさんは語る言葉の間に、気遣わし気に何度も「分かります?」と確認する。こちらの理解力を疑っているのではなく、ご自身が充分に説明できているか絶えず気にかけているのだ。素朴で誠実な人柄がしのばれた。





徐京植氏が著作の中で、投獄された兄ふたりを助けようと世界各地を回りながら支援を求める日々に、そうしたさなかでも行く先々で美術館を巡り、絵画に魅入られていたと書いている。つかの間の休息。それでも内奥の苦しみに行き場を探して、目を引かれ心奪われるのは戦争を描いた作品だった。
(そうだ。ゲルニカだ)
徐京植氏がMoMA(ニューヨーク近代美術館)でピカソの「ゲルニカ」を見たと書いてあったことが、頭をよぎる。TORAJIRO氏のカラフルでぬいぐるみのように優しい動物たちが人物に寄り添う絵と重なった。
(これは TORAJIRO さんのゲルニカなのだろうか?)
「ゲルニカ」はドイツ空軍による無差別爆撃を描いており、絵の中では降り注がれた銃弾に動物や人が傷ついている。それは「死」の絵である。
TORAJIRO氏の絵では、彼らは寄り添い、雨が過ぎるのを待っている。
今は濡れても、雨はやむだろう。私は絵に賛歌を聴いていた。


