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「好きなら、結婚にこだわらなくてもよくない?」と言われて、うまく笑えなかった理由

「好きなら、結婚にこだわらなくてもよくない?」

その言葉に、うまく笑えなかったことがある。

たぶん、相手に悪気はない。
むしろ、私の立場をおもんばかって、励ましの意味も込めて言ってくれているのだと思う。

「形にとらわれなくてもいいよね」とか、
「二人が幸せならそれでいいじゃん」とか。

きっとこうした言葉も、優しさの延長にあるものなのだと思う。
だから、否定する気にはなれない。

でも、その言葉を聞くたびに、少しだけ引っかかる。

うまく言えないけれど、話がどこか違うところにすり替わっているような感覚。

「結婚」って「好きかどうか」の問題ではないと思う。
もちろん、好きで一緒にいたいから結婚する、という側面はあるだろう。

でも、本当にそれだけなら、誰だって「結婚」にこだわる必要はないはずだ。

たとえば、どちらかが病院に運ばれたとき。
たとえば、一緒に築いてきたものを引き継ぐとき。
たとえば、最期を迎えたとき。

そこにいる「私たち」は「家族」として扱われるのだろうか。
家族というかたちに入っていなくても、はじかれることは絶対にないのだろうか。

結婚関係にあれば、自動的に「家族」になる。

そこにどんな感情があったとしても、婚姻届が受理されれば法的には「家族」だ。

結局のところ、「家族である」という認識は、「結婚」という形によって守られているのだと思う。


「好きなら結婚にこだわらなくていい」

その前提には「結婚は選ばなくてもいいもの」という感覚があるように思う。

でも、私にとっては少し違う。

そもそも「選べるかどうか」が、同じ条件でない。

選べるうえで選ばないのと、選択肢そのものがないのとでは、まったく意味が違う。

それを「こだわらなくていい」と言われてしまうと、本当は触れなければいけない不平等の部分が、やさしい言葉の中に隠れてしまう気がする。

結婚だけがすべてではないし、どんな形であっても、二人が大切にしている関係はそれだけで十分に価値があるだろう。

それでも、「制度の外にいる」という感覚は、ふとした瞬間に顔を出す。

医師から病状の説明を受けるとき。
ふたりで住む家を買うとき。
職場に提出する「緊急連絡票」を提出するとき。
年末調整で、配偶者欄に「無」と丸をつけるとき。

説明しようとすればできるけれど、そのたびに少しだけ疲れる。
だから、うまく言葉にせずに流してしまうこともある。

保健室で子どもたちと関わっていると、似たような“すり替わり”に出会うことがある。

本当は、その子が置かれている状況や環境に目を向ける必要があるのに、「気持ちの問題」や「性格」の話にまとめられてしまうことがある。

分かりやすい言葉で説明できたような気がして、そこで思考が止まってしまう。


「好きなら結婚にこだわらなくていいじゃん」

その言葉も、本質は似ている。
やさしくて、正しそうで、誰も傷つけないように見える言葉。

「こだわらなくてもいい」という言葉に、私は少しだけ立ち止まって考えたい。

それは、「結婚したい」という気持ちが、ただの“憧れ”や“こだわり”として扱われてしまうことに、どこか違和感があるからだ。

問題は、「好きかどうか」ではない。
その関係がどれだけ“当たり前のもの”として扱われるかということ。
そして、その当たり前を支える仕組みの中に、ちゃんと私たちが含まれているかどうか、ということ。

そのことを、なかったことにはしたくないと思っている。



この違和感について、言葉にしようとしている場所があります。

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