川の街リュオーレの物語㉓ 第12話 水車小屋のほとりで
春を告げる黄色い花が、小さなつぼみをつけ始めた頃。
朝霧が残る中、リュオーレの写真館の前から出発した馬車が
川沿いを北の方へ走り始めた。
しばらくすると、馬車は川の本流を離れ、細い流れの方へと進路を変えた。
やがて水車小屋と小さな集落が見えてきた。御者は、その中の一軒に寄せて馬車を止めた。
客車から降りたイッゼフは、少し待っていてほしいと御者に伝え、戸口に向かった。
呼びかけたが、返事はなかった。
もう一度呼ぼうとしたところで、声が聞こえた。
家の中からではない。背後の小川の方からだ。
振り向くと、少し先、水車小屋の脇の土手に、二人の女性の姿が見えた。
一人は、この家の主人、カナベル。もう一人は、妻のムツカだ。昨年から体調を崩していたムツカは、しばらく友人の家で療養させてもらっていた。
二人は、斜面に腰を下ろして何かしているようだ。カナベルが手を振っている。
近づいたイッゼフは、カナベルに会釈をした。
「長いこと、ありがとうございました」
「あたしも、ムツカがいて楽しかったわ」とカナベル。
その手には、植物の茎のようなものが数本乗っている。
ムツカが口を添えた。
「これ、知ってる?この時期だけ生えるんだって」
イッゼフは、眼鏡の縁に手を添えて軽くかけ直した。
ムツカが指でつまんだそれは、細い小さな筆のような形をしていた。
「街中では、あまり見ないかもしれないけどね。春の味がするんだよ」
カナベルが続ける。
それを聞いて、ふと記憶がよみがえった。
昔馴染みの川守が、一度食べさせてくれたことがある。
味は、ずいぶん苦かったような気がする。
「少し摘んで帰りましょ」とムツカが立ち上がった。
「あなたも手伝って。ずっとしゃがんでると、腰が痛くなっちゃう」
ムツカは柔らかい表情を浮かべていた。少し痩せた感じは変わっていない。
でも、血色はよくなっている。暖かな日差しのせいだけではないだろう。
「先が開きすぎていないものを採って」
「茎がしっかりしてるものをね」
重なるように飛んできた声に苦笑しながら、イッゼフは土手の斜面に腰を下ろした。
両手いっぱいに摘んだ野草を軽く川で洗い、カナベルの家に戻った。
ムツカの荷物は、木箱と布の包みにまとめられている。
「これも、持っていって」カナベルが布袋を指差した。
今朝、隣の水車で挽いた粉だという。このあたりの家が共同で使っている水車だ。
イッゼフは、もう一度カナベルにお礼を伝えた。
木箱を馬車に積む。粉の入った布袋は、御者と二人がかりだった。
思ったよりも、ずしっとした重みがあった。
衣類の包みを持ってきたムツカが、ちょっと待っててと、もう一度家に向かった。
カナベルとともに出てきたムツカの手には、額に入った一枚の写真があった。
「また、いつでもおいで」
明るく見送ってくれたカナベルに手を振るうちに、馬車が進み始めた。
道が曲がり、カナベルも水車小屋も見えなくなる。
客車の中で座り直したイッゼフは、ムツカの方を見た。
額に入った写真を、大切そうに膝に乗せている。
そこには、写真館の庭に咲く小さな花と、少し恥ずかしそうに座っているハルナギの姿が写っていた。
ハルナギが写真館にやってきた冬のあの日……。
ムツカに渡す、山野草の花の写真を撮ることにした。
大きな写真機を庭に運び、写す角度をさまざまに考えた。
ふと、花と一緒にハルナギを写せないかという思いが湧いてきた。
自分が写真に撮られるなど、考えていなかったのだろう。
ハルナギは、少し慌てたように首を横に振った。
しかし、イッゼフの頭にはイメージが浮かんでいた。
冬の花と、ハルナギが隣り合っている静かな姿が。
何度か、言葉が行き交った。そして、ハルナギが静かに頷いた。
写真を撮った後、ハルナギは少し頬を赤くしていた。
できあがったものは自分には見せないでほしい、と言った。
よく撮れている。でも、店に飾るのはやめておこう。
ムツカは、写真をそっと抱えたまま目を閉じている。
馬車の窓から外を見ると、セナーグ川が大きく曲がろうとしているところだった。
数羽の鳥が、水面に舞い降りた。
リュオーレまでは、あと少しだ。

川の街リュオーレの物語 第1編 ここまで
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