川の街リュオーレの物語⑰ 第9話 川漁師
「霧は、まだ出んのか……!」
唸るような親方の声が聞こえた。
バチン、バチンと拳を手のひらに打ちつけている。
今朝も、引き揚げた網は拍子抜けするほど軽かった。
隣の舟で片付けをしている親方も同じだろう。あまり話しかけない方がよさそうだ。
俺は、足音を忍ばせて焚き火の方に向かった。
この数年、セナーグ川がまるで知らない場所のように思えることがある。
見えない何かが、変わったんだろうか。
俺たちは、誰よりも川に親しんでいるはずなのに。
今年は、天気もおかしかった。
夏は動かなくても汗が噴き出し、秋は雨がやまなかった。
だから、だろうか。
川で捕れる魚やエビが少ない。
魚がいないとこぼしていた昨年よりも、さらに。
俺だけの秘密の場所に仕掛けをしても、
ほとんど捕れないことさえある。
それに、暦表ではもうとっくに霧が出ているはずの頃だ。
霧は、魚も連れてくる。
でも、まだ空気が冷えてない。
日に日に心配になっていくのは、俺も同じだ。
親方はなおさらだろう。
子どもが四人いる。
いつだったか、そう言っていた。
ただ、そのいら立ちを人にぶつけるのはやめてほしい。
おかげでこっちは気が休まらない。
俺の方がずっと若くて体も大きい。なのに、あの迫力にはかなわない。
ちょっと睨まれただけで、何も言えなくなっちまう。
「おい、トゥンジェ!」と呼びつけられりしたら、なおさらだ。
漁がうまくいっているときは、親方ほど頼りになる人はいない。
朝から豪快に笑い、昔のはちゃめちゃな話をしてくれる。
どこまでが本当のことか、わからない。
それなのに、何度聞いてもおかしくて腹がよじれる。
夜になると、酒場に連れていかれた。
酔うとご機嫌になって、街に伝わる古い歌を歌い始める。
その深い声も、たまに起きる揉め事も、俺は好きだった。
もうどれほど、あの歌を聴いていないだろう。
「おめぇらにやる魚なんて、ねえぞ!」
荒っぽい声が聞こえた。
振り返ると、親方の舟の近くに猫が来ている。
たまに見かける、大きいやつだ。
親方にすごまれても、平気な顔で近づいてくる。
かなり図太そうだ。
親方も、拍子抜けしたようにしかめ面を少しだけ緩めた。
「仕方ねぇ奴だ、こんだけだぞ」と
仕分け用に使っている金だらいに小魚を放り込む。
少しだけ手元に残しているのは、もう一匹の常連のためだろう。
猫は、愛想を見せるわけでもなく
魚を食べ、姿を消した。
「市場へ、行ってきます」
カゴを担いで、俺は立ち上がった。
いくらかの魚とエビ、カニが入っている。
これだけだったら、二人で行くまでもない。親方の返事を待たず、早足で歩き始めた。
魚屋の親父は、「今日もちょっとかぁ」と苦い顔をした。返す言葉がない。
昼まで漁をすれば、もっと捕ることはできる。でも、それはするなと親方からきつく言われている。でないと、川の生き物が減っちまう、と。
ブツブツ言いながらも、魚屋は思いのほか多くの銅貨をくれた。お礼の言葉だけは、元気に出た。
もらった銅貨は、いつもそのまま親方に渡す。親方はきっちり、半分俺にくれる。
舟は別々に出しても、分け前は同じ。この街の川漁師は、昔からそうしてきたらしい。
風が出てきた。
焚き火の炎が揺らぐ。
近くに落ちている木の枝を数本、火の中に放り込んだ。
土手を誰かが降りてくる。
街外れの丘に住んでいる人だ。何度か、親方と話しているのを見たことがある。
親方が舌打ちをした。
「猫も人も、いろんなやつが来やがる」
威圧するような声だったが、気にせず歩み寄ってきた。
「エンゾが、これを」
丘の人は親方に二本の瓶を見せた。
灯りの油だろう。
「橋守の爺さんが、余計なことを」
親方は毒づくが、声の鋭さが薄れている。
「霧さえ出りゃあ、魚が上がってくるんだ」
丘の人は、川の方をしばらく眺めてから親方の方を向いた。
「あと何日かだろうって、言ってたよ」
親方が鼻を鳴らす。
「ふんっ、橋の上から見てるやつにわかるもんか。暦表じゃあ、とっくに出てるはずなんだ」
少し、間が空いた。
「西の山も、上の方が白くなってきた」と丘の人。
「コヴァーレ山が」
俺は反射的に西の方を見た。
親方も立ち上がっている。
ここからでは山は見えないと、わかってはいたけど。
「暦と少しずれることも、あるんじゃないかな」丘の人が言葉を添えた。
そして、「お茶、入れようか」と袋からポットを出し、
川辺の少し上流側で水を汲んで焚き火にかけた。
親方の視線を感じた。
俺は急いで舟に置いている茶碗を取りに行った。
丘の人は、慣れた手つきでポットに茶葉を入れ、少し待ってから茶碗に注いだ。
香ばしい香りがする。
濃いお茶だ。
飲み終わるまで、誰も言葉を発しなかった。
突然、親方が俺を見た。
「おい、トゥンジェ!」
思わず体がビクンとする。
「月が一つ余分に入るのは、いつだ?」
俺は必死で記憶をたどる。
「た、たしか、来年だったはず」
「そうか……」
親方は、空を見上げた。
バチンッ!
親方が拳を手のひらに打ちつけた。
一度だけ。
そして、
「もう少し、かもしれんな」と続けた。
そこに、いら立ちは含まれていなかった。
昔の歌を歌うときのような、深く響く声だった。

リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
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