川の街リュオーレの物語⑲ 第10話 写真館
川沿いに吹く北風が、落ち葉を舞い上げる。やっと顔を出した太陽が、道端の霜を少しずつ溶かし始めている。
「嵐でも吹けば、客が来ない理由になるのに……」
誰もいない建物の中で、イッゼフは机に頬杖をついて座り込んでいた。
このひと月ほど、写真館を訪れる人がめっきり減った。相談に来て、そのまま連絡がない客も、以前よりずっと増えている。
思い当たることは、一つしかなかった。
妻のムツカが店に出られなくなっているからだ。
この街で、写真を残す人はまだ多くなかった。だからこそ、イッゼフは撮影の技を磨き続けてきた。客にとって一生に一度かもしれない機会に、最高の写真を撮るために。
現像した写真を渡すとき、客の顔に笑顔が広がる。それを見るのがイッゼフの喜びだった。少しずつ、「あそこに行くと雰囲気のいい写真が撮れる」と評判が広まっていった。おかげで、決して大きくはないリュオーレで写真館を続けてくることができた。
街の移り変わりとともに、店を旧市街から新市街へ移した。この数年は、ボッフェンや西の街からも、客が来るようになった。
そんな日々が続くものだと思っていた。
ムツカが病で寝込んでしまうまでは。
この店に来る人が期待しているのは、自分の撮影術だ。そんな自信があった。
だから、ムツカがしばらくいなくても仕事にはほとんど影響はないだろうと考えていた。
でも、すぐに気づかされた。求められているのはそれだけではないことに。
初めて写真館に来た客の緊張をほぐし、どんな写真を撮りたいのか丁寧に聞き取ること。できるだけ希望に沿った写真にするための方法を一緒に考えること。そして、撮影のときに自然な表情を引き出し、暗幕やランプで光の加減をしていくこと。
話し好きで気配りができるムツカがいたからこそ、ここで写真を撮ることを選んでくれていたのだ。
体調を崩したムツカは、川を少し上った先の知人の家で過ごすようになった。代わりに、ボッフェンから写真助手を呼んだ。
でも、客との話がうまくかみ合わない。
「前と違う」そんな声を聞くことも増えた。
気づけば訪れる人が減り、助手も別の街へと移っていった。
自分だけでも、手順に沿ったやりとりはできる。だから、この店で写真を撮ると決めている客には応対できた。数日前、不自然なほど着飾って年に一度の写真を撮りに来た評議員たちのように。散々細かい注文をつけられても、それが写真の撮り方についてのことであれば何とかなる。

ただ、イッゼフが撮りたいのは金持ちや有力者の写真だけではなかった。街の暮らしに、写真を撮ることの魅力を溶け込ませていきたかった。故郷で店を開いたのも、そのためだ。初めて写真を見たとき、自分がひと目で虜になったあの感覚を、リュオーレで分かち合っていきたいとずっと思ってきた。
窓から差し込む光が、机の端を照らし始めた。
出かけるにはいい日和だ。この店を訪れる客は今日もいないかもしれないけれど……。
そういえば、あの人はいつ来るだろう。
数日前、広場に行ったときのことだ。ムツカがいない間は、買い物を自分でしなければならない。後ろからハルナギに声をかけられた。
妻はハルナギと気が合うようで、ときどき店の外で話をしている姿を見ていた。でも自分とはほとんど接点がない。
文書館に行くところだというハルナギは、控えめにムツカの様子を尋ねてきた。しばらく話をした後、「もし、よければ」とハルナギは言葉を継いだ。
写真館の庭を、少し整えさせてもらえないだろうかと。
ムツカが山野草を育てていたが、しばらく人の手が入っていないようで荒れてきていると。
胸の奥が、少しざらついた。
でもハルナギの口調は穏やかで、視線には気配りが感じられた。
客のいない時間を使って、ムツカが楽しそうに庭の一角に草花を植えていることは、イッゼフも知っていた。体調が思わしくないと言い始めた夏ごろから、手入れができなくなっているのを気にしていたことも。
今、庭がどんな状態になっているのか。考えても、浮かんでこなかった。
自分では何もできそうにない。「ありがとう。頼みます」とイッゼフは答えることにした。
少し準備をすると言っていたハルナギが来たのは、二日後の冷え込んだ朝だった。店を開けて間もなく、入り口からハルナギの声がした。吐く息が白くなっている。外の桶を借りるとことわって、店内には入ることなく庭に向かっていった。
広場でハルナギと話した日、店に帰ってきたイッゼフは建物の脇に向かった。背の高い草、低い草、枯れた草。さまざまに入り混じって、細長い庭に生えている。どう整えればいいのかはわからない。でも、ムツカがいた頃と様子が違っていることは感じられた。
客が一組、入ってきた。ボッフェンからときどきやってくる商人だ。最近は市場で装飾品などを売っていたはずだ。今度、家族で来たときに写真を撮りたいという。話はしたが、本当に来てくれるだろうか。
ハルナギが井戸から水を汲む音がする。イッゼフは暖炉の火を確かめてから扉に向かった。
今日も北風が吹いている。ハルナギはしゃがんで土に向かっていた。
近づいて声をかけた。振り向いたハルナギの指が、少し赤みを帯びている。
「ほとんど、終わったよ」小さな鎌を脇に置き、ハルナギが言った。
背の高い草は、すべて取り去られていた。枯れた草も刈り取られている。
「これ、見て」
指さした先を覗き込むと、紫色の小さな花がいくつか見えた。
「咲いてくれて、よかった。ムツカが好きな花なんだ」
この庭に冬も咲く花があることを、イッゼフは知らなかった。
いや、気にしていなかった、と言うべきだろう。
ムツカは、いつ種をまいたのだろうか。
紫の花びらに、白い色が混じっている。
よく見ようと、ハルナギの隣に腰を下ろした。
「霜か……」
思わず声が出た。
ハルナギが、黙ったまま頷く。
少しして、遠慮がちな声が聞こえた。
「これ、写真に撮れないかな」
驚いてハルナギの顔を見た。
花を写真に撮るなど、やったこともないし、考えたこともない。
「花を……。写真には、白と黒しか写らないんだぞ」
ハルナギの表情は真剣だった。
「ムツカにも、見てもらいたいな」
「……」
イッゼフは何十年という間、人を撮ることに全力で向き合ってきた。
その瞬間や写真が、記憶や思い出につながると思ってきたから。
でも……写真にできることは、もっとあるのかもしれない。
「写真機を、外に出す。手伝ってくれ」
ハルナギは、顔をほころばせて頷いた。
紫の花が風に揺れ、朝の霜が小さく光っていた。

リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
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