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川の街リュオーレの物語㉑ 第11話 余白

広場の木々が風にざわめいている。葉を落とした枝だけの姿を見るのは、嫌いじゃない。

澄んだ青空に、薄い雲が流れている。文書館の三階で窓を開けたナナトは、いつものようにぐるりと外を見渡した。

川の近くは今日も朝霧に覆われている。寒いけれど晴れた日が多いこの時期は、咳もあまり出ない。窓は夕方まで開けたままでいいだろう。

ふと、視線が空の一角に吸い寄せられた。すごい速さで右から左へと横切っていく鳥が見えた。二羽、いや、少し遅れてもう一羽。

かなり高いところを飛んでいる。ボッフェンから西のサスキアードを目指す伝書鳩だろう。

伝書鳩がどんな手紙を運ぶのか、詳しくは知らない。きっと、街の運営や商いに関わる、大事で急ぎの用件なのだろう。

そんな話は、このリュオーレを素通りしていく。

あっという間に飛び去っていく鳥たちを、目で追おうとしていることに気づいた。ナナトは、あえて視線を下に向けた。

文書館は今、人手が薄い。少し前に若手が一人辞め、別の一人はボッフェンに派遣されている。閲覧の受付をナナトが担う日が増えていた。

今日は朝から四人、来館者があった。馴染みの者が二人と、旅装の者。あと一人は、引退した元評議員のゼイガンさんだ。

ゼイガンさんは、優しそうな老人にも見えるが、ときどき値踏みされているような感覚を受ける。今日も、応対に少し口ごもってしまった。

評議員を辞めたのは、昨年のことだ。詳しいことは、ナナトも知らない。
それでも、今も街の相談ごとに関わっていると聞く。

館主と馴染みのようで、文書館に来たときは二人で話している姿もよく目にしていた。

「そろそろ、これの整理もしなくちゃな」
受付に持ってきた火鉢のそばで閲覧簿をめくり、小さく呟いた。

閲覧記録をまとめようと言い出したのは、ナナトだった。ボッフェンの文書館でそうしていると聞いた。

いつ、誰がどんな史料を見ているのか。月や年単位でまとめれば、文書の収集にも役立つし、それ自体がこの街の記録になる。

そんな思いは、同僚にはあまり伝わっていない。閲覧簿は空欄だらけだ。ページをめくる手がところどころで止まってしまう。

閲覧を申し込むための帳面を新しくしたのも、ナナトだ。昨年のことだった。

来館した日と名前、見たい書物の内容。これは、必ず書いてもらう。

住む場所や生業(なりわい)は、絶対ではないが、なるべく書いてほしい。

リュオーレは街道を行き来する人も立ち寄るし、川にまつわる生業も多いと聞く。閲覧簿そのものを記録とするためには、できるだけ詳しい情報を残していきたい。

でも、人によっては最小限のことしか書いていない。受け付けた文書館の者も、それでよしとしているようだ。

「そんなに人が来るわけでもないのに」
同僚から不満げにそう言われたこともある。
数の問題ではないはずなのに……。

閲覧簿を綴じた帳面をめくっているうちに、ナナトはあることに気がついた。文書館に何度もやってくる人たちの中でも、書き方がかなり違う。

ナナトの目を引いた一人は、最近文書館に来るようになった時計師の娘だ。少し前にボッフェンから戻ってきたらしい。

数日前も、ナナトが受付をしているときにやってきた。この街とボッフェンの気候の違いについて記した書物がないかと聞かれた。

ただ天気や気温について記したものではなく、それが街の暮らしや文化とどのように関わっているかを知りたいと、細やかなところまで相談されたのが印象的だった。
探すのに少し時間がかかったのを覚えている。

彼女は、閲覧簿のすべての欄をきっちり埋めている。名前は、フロッカ。住む場所には時計店がある通りの名が記され、生業の欄には「準時計師」と書いてある。

書物が書かれた時期は「できればこの十年以内、なければ二十年以内」と小さい文字で几帳面に記されていた。ナナトがこうあってほしいと思うとおりの、見本のような書き方だった。

時計師になるのはたやすいことではないと、ナナトも知っている。準時計師というのは、道のりのどのあたりなのだろう。

そんなことを考えながら、帳面をめくっていく。少し先で、ナナトの目が細くなった。いつも最小限のことしか閲覧簿に書かない、別の常連に行き当たったのだ。

ナナトが広げた閲覧簿には、ハルナギという名前と、「リュオーレ近郊で見られる植物について」とだけ記されていた。丘の方に住む女性だ。

住む場所も生業も、空欄だ。日付は、受付をした文書館の者が書き入れたようだ。

筆跡は整っている。字を書くのが苦手ということはないだろう。ナナトが受付をしたときも、滑らかに書いていたはずだ。

なぜかわからないけれど、自分も、ハルナギが来たときにすべての欄を書いてほしいと伝えていなかったようだ。次からは、ちゃんと言わなくては。

ナナトは閲覧簿の先の方へとめくった。評議会館が昼の鐘を鳴らした気もするが、違うかもしれない。空腹感は、特にない。帳面の最後まで見ておこう。

ほかにも書き方を注意した方がよさそうな者が何人かいた。あの女性ほどではないが。手元のメモに、気づいたことを書きつけていく。

視線の端で、戸が開いた。誰かが入ってきたようだ。薄暗い机で閲覧簿を眺め続けていたので、外の明るさをまともに見ることができない。

目をつむり、指でこすっている間に、その人は受付の机の前に来た。

「書物を、見たいのだけど」
と言う声に、聞き覚えがある。

目を開けると、立っていたのはハルナギだった。

「これを」

慌てて差し出した閲覧簿に、ハルナギは書き込んでいく。戻ってきた帳面には、名前と、「西の採石場の歴史について」とだけ、記されていた。

ナナトは息を吸い込み、背筋を伸ばした。

「あの……書いてない欄が、あるんですが」

ハルナギは、ナナトの指先ではなく、顔を見ている。頬が火照ってくるのを感じる。

「そこは、絶対ではないと聞いたから」
静かな言葉が返ってきた。

「そう、ですが……」
少し、間を置いて
「できれば、書いてほしくて」

自分の声が小さくなっていくのを感じる。でも、ちゃんと聞こえるように言えたはずだ。

少しして、ハルナギは何も言わず、ナナトが差し出した閲覧簿に書き足した。

見ると、住む場所「丘」、書物が書かれた時期「古いもの」とだけ、書かれていた。

それ以上、ナナトは言葉を継ぐことができなかった。

「少し、待っていてください」と詰まりながら伝え、書物を探しに三階の書庫へ向かった。

必要以上に早足になっていたかもしれない。喉に少しつまったような感覚がある。
書庫に入り、わずかな木の香りを嗅いでナナトは小さく息をついた。

持ってきた閲覧簿に目を落とす。

「今は、これで、いいかな……」

空欄の残るページを見つめながら、ナナトはつぶやいた。

窓から、低くなってきた太陽の柔らかい日差しが差し込んでいた。



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リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
各話への道しるべは、こちらから。

リュオーレの物語 道しるべ|湖上珊歩