川の街リュオーレの物語⑪ 第6話 菓子屋
「何を、今さら!一年前に、もうやらんと伝えたじゃろうが。帰ってくれ!」
空気を震わす夫の怒号を聞いたのは、つい先刻だ。
その響きが、まだ壁に残っているような気がする。
無理もないと、パシュアは思う。
でも、胸の奥が少しだけ引っかかった。
リュオーレの旧市街で長年営んできた菓子店を、昨年の夏にたたんだ。
コジューロとパシュアが夫婦で続けてきた店だ。
パシュアが生まれ育ったのは、山の村。
そこで採れる米を使った餅菓子は、ほかにないものだった。
リュオーレでは、米は特別な日の食べ物だ。
祭りや、年の節目には、店の前に人が並んだ。
ただ、時代は変わる。
最近の人はあまり米にこだわらなくなってきた。
それでも、街が年でいちばん盛り上がる夏祭りには、甘みをつけた餅が欠かせない。
だから、昨年まではどうにか店を開けてきた。
「次からは、夏祭りの餅づくりを別のところに任せることにした」
市場の長をしているギュンネが言いにくそうに店に来たのは、
昨年の祭りが終わってすぐのことだった。
「ボッフェンから、菓子職人を呼ぶことになったんだ」
街の評議員の一人は、大都市ボッフェンから来た男だ。
どうやら、自分がひいきにしている店を呼びたいらしい。
コジューロとパシュアは、長年祭りの餅づくりを担ってきた。
それなのに、何も知らないところで物事が決められたのは腹立たしかった。
でも、自分たちも商売をする身だ。
毎年同じことが続いていくとは限らない、ということはわかっている。
最後に、夫のコジューロは市場の長をにらみつけて言った。
「わかった……ちょうどわしらも、もう店を閉めようかと思っとったところだ。
好きにしろ」
自分を落ち着かせるように、大きく息をして続けた。
「ただ、言っておく。
……祭りの餅はな、誰にでも作れるもんじゃない。
米の扱いを知っている奴を呼べ。わしは手伝わんからな」
そして一年が過ぎ、今年の夏まつりを六日後に控えたとき。
市場からギュンネがふたたびやってきた。
昨年よりもさらに気まずそうな顔をしていた。
「もう一度だけ、祭りの餅を作ってもらえないだろうか……」
「帰ってくれ!」
ギュンネを怒鳴りつけたコジューロは、相手が動かないのを見て
荒い足音で家の奥に引っ込んでしまった。
パシュアは、口ごもりながら話すギュンネの言葉を聞いた。
「……ダメ、だったんだ。ボッフェンの連中では……」
「見た目は、きれいなのができた。でも、味と食感が、まるで違う……」
ボッフェンから呼ばれた職人は、パンや焼き菓子しか作ったことがなかった。
もう5日ほど餅の試作を重ねているが、ギュンネたちが首をひねるものしか
できていないという。
やっぱりね、とパシュアは思った。
麦と米は、実っている姿こそ似ているが、まったく別のものだ。
触れたときの重さも、水を含んだときの表情も違う。
熟練の職人でも、麦しか扱ったことのない者が短期間で
この街に伝わる餅の味を出せるとは思えなかった。
しかも今は夏だ。暑さも、湿気もある。
餅を作るのに、いちばん気をつかう季節だった。
ギュンネが繰り返した。
「今年だけ、今回だけ、もう一度祭りの餅を作ってくれないか……。
米は、準備してある」
頷くことも断ることもできず、パシュアは
「ちょっと、考えさせて」とだけ答えた。
翌日、パシュアは旧市街の広場へ向かった。
その端に、自分たちの店がある。
昨年店を閉めてからは、ここを訪れる機会が減っていた。
何度か、一人で来たことはある。
もう使わないはずの道具も、手入れはしておきたかった。
でも、最近はあえて近づかないようにしていた。
茶色い猫が、小走りで横道へ入っていく。
それを見届けるように、ハトの群れが広場に降りてきた。
見慣れた光景だ。
店の前に立った。
看板だけを見れば、まだ営業しているように思えるかもしれない。
砂埃が詰まっているのか、表の木戸は重かった。
力を入れて半分押し開け、店に入る。
閉ざされていた空気が、ゆっくりと流れ出した。
米を蒸す道具も、蒸した米をつくきねと木の臼も、
いつでも使えそうなまま残っている。
ただ、人の気配だけがない。
昨晩、パシュアは夫と話をしようとした。
でも、コジューロは「わしは手伝わん」と繰り返すばかりだった。
昔から、一度決めたことは貫く性格だ。
心変わりは期待できないだろう。
「私だけじゃあねぇ……」
独り言がこぼれる。
米を蒸して、木の臼に入れ、餅にするためにつく。
きねを持つ人と、タイミングを合わせて臼の中の米をひっくり返す人が必要だ。
そして、できた餅は、熱いうちにちぎって丸め、
味付けをしなくてはならない。
最低四人、できれば五人はいるだろう。
重いきねを何度も振り下ろし続けるには、男手もほしいところだ。
引き受けると決めたわけではない。
でも、パシュアの頭の中では、どこにどんな役割の人がいて、
それぞれが呼吸を合わせ、同じリズムに乗って餅を作っていく様子が
浮かび上がっていた。
半分開いた入り口に、人影が見えた。
「この店は、もう閉まってるよ」と言いかけて、パシュアは口をつぐんだ。
ハルナギだった。
店を続けていた頃、ときどき餅を買いに来てくれていた。
「あら、どうしたの」パシュアは声をかけた。
「木戸が、開いていたから」
ハルナギがそっと顔を覗かせる。
「ちょっと考えごとをしにきたの。
祭りの餅を、もう一度作ってくれないかって言われてね」
ハルナギが、店の中に数歩、足を踏み入れた。
「それは、できないことなの?」
パシュアは小さくため息をついた。
「あなたも知ってるでしょ。
この店は、もう一年前にたたんだのよ」
薄暗い店内の様子を眺めてから、ハルナギが言った。
「パシュアの手は、まだ餅を作りたがっているんじゃない?」
パシュアは、知らぬうちに自分が
餅を握る手つきを繰り返していたことに気づいた。
笑みとも、苦笑いともつかない表情が自然と浮かぶ。
「何十年も、続けてきたからね。
でも、もう、人もいないし」
昨年までこの店でともに働いてくれた職人たちは、
ほとんどリュオーレに残っていない。
ハルナギは、しばし無言になった。
そして、顔を伏せて小さな声で歌い始めた。
突然、何を聴かせるつもりなのか。
いぶかしむようなパシュアの目が、大きく開いた。
「あなた、その歌……!
なんで、知ってるの?」
歌詞も、調子も、少し違う。
でもそれは、まぎれもなく、パシュアが山の故郷で
昔から親しんできた、餅をつくときの歌だった。
「小さい頃、誰かがよく歌っていたのを覚えてる」
自分でよければ、とハルナギは言った。
餅をついたことはないけれど、この歌は体に沁み込んでいると。
ハルナギが出ていった後、
パシュアはここで餅をつき、祭り用の餅菓子を作る様子を
もう一度頭の中で思い浮かべた。
味付けの仕上げは、自分がやる。
ハルナギは、教えれば臼の中の米をひっくり返す役目を任せられるだろうか。
あと、必要なのは……。
できるかもしれない。
そんな思いが、パシュアの心で形になりかけていた。
祭りが始まる前日。
「さあ、やるよ」
パシュアが声をかけた。
皆の顔に緊張が走る。
無理もない。
自分以外、誰も餅をついたことがない。
きねを持つのが、ギュンネと、街のパン屋の息子・ノバール。
ハルナギは米を返す。
ノバールは、麦と米を両方使いこなせるようになりたいと言った。
「そうすれば、もっと多くの人に食べてもらえると思って」
と明るく笑う。
夫のコジューロにも声をかけたが、来なかった。
ギュンネには、こう伝えていた。
今回だけ、餅菓子を作ってもいい。
ただ、作れるのは祭りの初日分だけ。
そして、次を担える人を手伝いに来させてほしいと。
ノバールだけでなく、ギュンネが自らやってきたのは意外だった。
でも、もとはチーズ工房の店主だ。市場の取りまとめだけでなく、
たまには食べ物を生み出す場に戻ってくるのもいいだろう。
前の日からひと晩水につけていた米は、布に載せて蒸し始めている。
かまどの火は最大まで上げてある。
この米は、昨年までパシュアたちが使っていたものとは違う。
いつものような粘り気を出せるだろうか。
でも、やるしかない。
日の出に合わせて集まったメンバーには、
額に布を巻いてもらっている。餅に汗を落とさないように。
蒸しあがった米を布ごと持ち上げ、大きな木の臼に移した。
両側に立つノバールとギュンネが、交互に杵を振り下ろす。
二人とも力仕事には慣れているはずだ。でも、見るからに動きがぎこちない。
ハルナギも、臼の中で米の塊をひっくり返すタイミングを計りかねているようだった。
時間をかけすぎると、蒸した米が固くなってしまう。
「こうするんだよ」
パシュアは、ギュンネの手からきねを取り、やってみせた。
気づくと、あの歌が口からこぼれ出ていた。
歌に合わせて、ハルナギの手が動く。
パシュアのつく姿を見ていたノバールが、
もうひとつのきねを握った。
ばらばらだった音が、だんだんそろっていく。
歌と、かけ声。そして、目の合図。
誰が仕切るわけでもなく、ひとつのリズムに溶けていった。
米の小さな粒が、少しずつ滑らかな餅へ形を変え始める。
そう、この感覚だ。
息を合わせているうちに、疲れより先に身体が動いていく。
餅をつく歌は、夕方まで響いていた。

遅い日暮れもすっかり終わろうとする頃、パシュアは家に戻った。
今日つくった餅の包みを二つ、手に下げている。
暗い雲が空を覆い始めていた。遠くで稲光が瞬いている。天気が崩れてきそうだ。
戸を開けるとすぐ、夫のコジューロが出てきた。
「今までかかったのか」と言いながら、
目はパシュアではなく手の餅を見ている。
一年ぶりの餅つきで、腕も肩も重かった。朝からずっと、米を蒸し、つき、餅を握り続けた。
台所の卓に餅を置くと、コジューロは待ちきれないように「味見するぞ」と包みをほどいた。
餅を口に入れた途端、顔をしかめる。
「パシュアが手伝って、これか」
あきれたような表情だった。
パシュアは、肩をさすりながら答えた。
「それは、最初につくった分。別の方を、食べてみて」
もうひとつの包みを開けると、コジューロの眉がわずかに上がった。
やっぱりこの人は、見ただけでわかるんだ。
コジューロは、餅を口に含み、ゆっくり噛みしめた。
「パン屋の息子か……」
ひと口、水を飲む。
「まだまだだな」
パシュアが口を開く前に、コジューロが続けた。
「祭りが終わったら、来年に向けて叩きこんでやる」
そして、コジューロはもうひとつ餅を口に入れた。

リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
第1話の最後に、各話への道しるべを置いています。
