川の街リュオーレの物語③ 第2話 花屋
冬を前にした街で、何かが少しずつ変わり始めていた。
昨年までなら、心待ちにしていた季節だ。
店の前の石畳をほうきで掃きながら、ヨガーベは小さくため息をついた。
ヨガーベは、毎朝ほとんど同じ時間に目を覚ます。
店の置き時計は当てにならないが、
彼の身体は、ずっと正確だった。
あの時計を買ったのは、何十年も前。
この花屋を開いたときだ。
何か記念になるものがほしくて、
大きな街から取り寄せた。
妻のランリルが
「大きけりゃいいってもんじゃないのに」と
渋い顔をしていたのを思い出す。
でも、広場まで行かずに、店で時を知りたかった。
背の高いその時計は、毎時刻、正時に鐘が鳴るはずだった。
でも、すぐに時間がずれ始めた。
「こいつはもう、どうにもならん」
繰り返し修理を依頼した
近所のベテラン時計師も、
しまいには匙を投げた。
今となっては、一体いつ鐘が鳴るのか、
誰も気にしなくなっている。
気まぐれな時計のねじを巻いてから、
ヨガーベはいつものようにパンとゆでた卵の朝食をとった。
朝食の後は、暦表の日付に印をつけるのが日課だ。
毎年、街の文書館から暦表をもらってくる。
一日ずつ、日付を羽ペンで丸く囲んでいく。
はじめはバツ印を付けていたが、
ランリルが「丸の方がいい」と言うようになった。
今年も、丸のついていない日付が
だんだん残り少なくなってきた。
「ちょっと行ってくる」
ランリルに声をかけ、
ヨガーベは帽子をかぶって外に出た。
店に並べる花を、畑から持ってこなくてはいけない。
カゴと花を切るためのハサミを持ち、西の方へ歩き出す。
旧市街の入り組んだ細道を通る人影は少ない。
建物の影から、一匹の猫が顔を出した。
このあたりに住む、茶色で尻尾の長い猫だ。
あいつには、人が少ない今の街並みが
当たり前の景色かもしれない。
昔は、違った。
西の市街がリュオーレの中心だった頃、
人の流れは絶えることがなかった。
ヨガーベがこの場所に花屋を開いたのは、
その頃のことだ。
祭りの前、若かったランリルが
店先で花束を結び続けていた……。
考えながら歩いているうちに、畑に着いた。
秋の収穫を祝う祭りの前、
家族や友人に花と菓子を贈り合うのは
この街の昔からの習慣だ。
ちょうど今日ぐらいから
花束を買う人が出てくるはずだ。
澄んだ青空のもとに咲く
オレンジや黄色の花を前に、
ヨガーベはしばし考え込んだ。
どれだけ用意すればいいだろう。
灰色橋ができてから、客は減る一方だ。
東の市場に、どんどん人が流れていく。
西の旧市街は、住む人も、買い物に来る人も
少なくなっている。
もうひとつ、気がかりなことがあった。
ヨガーベとともに長年、
西の市街で商いをしてきた近くの菓子屋が
夏に店をたたんだ。
山の方で育てられている貴重な米で、
味わい深い菓子を作っていた。
もう歳だからと言っていたが、
それだけではないはずだ。
花と菓子を、
このあたりでは揃えられなくなった。
それを理由に、ヨガーベの店から
足が遠のいてしまう客もいるだろう。
うちの店も、潮時が近づいているのかもしれない。
実際、少し離れた大きな街に暮らす息子からは
引っ越してこないかという誘いを何度か受けている。
それで、いいんだろうか。
花切りバサミを手に持ち、
ヨガーベは畑の前で立ちすくんだ。
冬ごもりを前に、ミツバチたちが小さな羽音を立てて
忙しそうに花の間を飛び回っていた。
結局、昨年までより少なめに花を切ることにした。
店で妻に渡すと、
ランリルは何も言わずにそれを眺め、
いたわるように花束を作り始めた。
その手つきは、何十年も変わっていない。
広くはない店の中に、
甘い香りがほのかに広がる。
畑で育てた花に、山の小さな花や葉を添える。
それが、この店の花束だった。
手間もかかるし、パッと目を惹くこともない。
東の市場で売られている花束に比べれば、ずっと地味だ。
でも、それでいい。
花は鮮やかなほどいいというものではない。
いくら派手な花が人気を得たとしても、
流行に押されてそこを譲ろうとは
ヨガーベもランリルもまったく考えていなかった。
あまりよくない予感は、当たりやすい。
ヨガーベは、これまでの経験から、そう思っている。
実際、午後になっても客足は伸びなかった。
いつもの常連が数組と、近所に住む者が数人。
店先に並べた花束を覗いて
そのまま去っていった人もいる。
西日が差し込む頃、店に入ってくる人がいた。
「あら、ハルナギさん」
ランリルが呼びかける。
ハルナギはヨガーベに軽く会釈し、
ランリルの方に向かった。
「種を持ってきたよ」
小さな包みを差し出した。
ランリルの顔が明るくなった。
「いつもありがとね、助かるわ」
ハルナギは、ときどき
山野草の種を持ってきてくれる。
あまり見かけない色や種類の花も、
どこからか種を見つけてくる。
ランリルは、そうした山の植物を
丁寧に育てあげるのがうまかった。
他の店には置いていない鉢植えとして、
また花束に独自の色合いを加えるアクセントとして、
山野草はこの花屋になくてはならない
ものになっている。
店内の棚に並ぶ鉢植えを見渡していたハルナギが、
花束の近くに歩み寄った。
まだ、五束以上が売れずに残っている。
「これをひとつ、もらっていいかな」
と、懐から銅貨を出した。
「お金なんていいって。
いつも種をもらってるんだから。
気に入ったやつを持っていきな」
ランリルは、そう言ってハルナギを見た。
ヨガーベが言葉を継いだ。
「うちの花束なんか使わなくても、
あんたなら、山の花をいくらでも摘めるだろう」
ハルナギは少し考えてから答えた。
「供えたいところがあるんだ」
間を置いて、続けた。
「年に一度、そこにちゃんとした花束を置きたくて」
ハルナギはランリルに礼を言い、
花束をひとつ手に取って出ていった。
「あの子が花束を置きたい場所って、
どんなところなんだろうねぇ」
しばらくしてから、ランリルが言った。
そして、種の包みをヨガーベに渡し、
台所の方に入っていった。
鎧戸を閉めて暗くなった店内で、
ヨガーベはまだ椅子に座っていた。
ちゃんとした花束、か。
突然、置き時計がボーンと続けて鐘を鳴らした。
時間は、かなりずれているはずだ。
……もしかすると。
大事なのは、正確さよりも
鳴り続けることかもしれない。
正しい答えなど、わからない。
でも、もう少し
この店をやっていこうか。
ヨガーベは、包みを開けて
小さな山野草の種を見つめた。
そして、包みをそっと握り直し、
ゆっくり立ち上がった。

リュオーレの物語は、静かに続いていきます。
第1話の最後に、各話への道しるべを置いています。
