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武闘派というより文化系の人々 近江弧篷庵から五先賢の館 滋賀県長浜市

関西にはかつての日本の都が(遷都多過ぎ)、そして歴史上重要な遺跡・遺構が数多く残っています。その中心エリアはよく京阪けいはんとか京阪奈けいはんなと表現されます(京阪電鉄的にはおけいはん)。
そしてなぜかビミョーに蚊帳の外なのが滋賀県(京阪電鉄は琵琶湖のフェリーも運営)。
その歴史は京阪奈とも遜色なく、国宝の数こそ京都・奈良には差をつけられますが大阪とはほぼ同数。重要文化財を加えると大阪を凌駕。
自身の歴史への興味は戦国時代から、そういう訳で関西で足を運ぶ頻度が多いのは京都でも大阪でもない滋賀派です。


滋賀県は面積の1/6が琵琶湖。近江おうみと呼ばれますが、まさに近つ淡海(けっこう波や風がワイルド)。
県内の区分も湖北、湖東、湖南、湖西と琵琶湖中心という分かりやすさ。湖岸では釣り人をよく見かけます。
長浜市の人口は112,000人と滋賀県第3位(2024年末)。
長浜、彦根、東近江の3市が同規模です。

近江弧篷庵

山門に至る道の左側には小堀家のお墓があります。

山門は2011年に京都春光院から移築。山門から本堂玄関までの庭園を手掛けたのは、京都の作庭家・北山安夫(1949- )。

滋賀県長浜市上野町135

小堀遠州の菩提を弔うため子の正之まさゆき宗慶そうけい:1620-1674)が大徳寺の円恵えんけい霊通江雲宗龍こううん そうりゅう)を招いて、小堀家の出身地(所領)近江に建立されたのが近江弧篷庵(臨済宗大徳寺派)。庭園は1709年ごろの築庭。
小堀家が改易されると荒廃しましたが、昭和期に小堀定泰じょうたい和尚が再興。
円恵さん(円慧?)は大徳寺184世で遠州の甥。小堀家による小堀家のためのお寺。基本は無人のようで、拝観料を箱に入れるスタイル。

パンフ 2024年版
かすれつつある弧篷庵の扁額

襖絵は染色家の皆川月華みながわ げっか(1892-1987)の手によるモノ。
水墨画ではなく着色され、空気の流れを感じさせるモダンな画風。

なぜか般若心経

本堂の南西面は五老峰、海、舟石を配した枯山水庭園が、北東面には錦渓池を中心に瀟湘八景を模した池泉回遊庭園。

人の手で管理されすぎず、イイかんじの庭。

編笠門は庭園へのトビラ。凝ったデザインです。

途中にあったお墓にもご挨拶すべし

小谷山、琵琶湖方向に面した斜面に

藩主(初代から6代)の方々と家族が並びます。

遠州さん(初代)を中央に、左に正之さん(2代)、右に光輪院さん(遠州正室:藤堂高虎養女)。遠州さんの作事技術は築城名人の義父からも継承?

一段下には家老一族や家臣団のお墓が300基ほどあり、今も藩主家をがっちりとガード。


小堀遠州という人

遠州像 @五先賢の館
(たぶんどこかの模写)

小堀遠州こぼり えんしゅう政一まさかず:1579-1647)は近江長浜の人。武将というより幕府の代官や奉行として才能を発揮した官僚系の人。
作事や普請を得意としましたが作庭のセンスも超一流、茶道では遠州流の祖に。大徳寺の春屋宗園しゅんおく そうえんに師事。

正次まさつぐ(1540-1604)は近江浅井家に仕えていましたが、織田信長の畿内進出によって羽柴秀長の家臣に。のちに豊臣秀吉、徳川家康に臣従。

遠州さんは秀長の小姓時代を経て秀吉直臣となり、千利休や黒田官兵衛らとの知遇を得ます。茶の湯の師匠は古田織部ふるた おりべ(1543-1615)。
父が亡くなるとその遺領を継ぎ、各地の幕府奉行を歴任しています。

書は定家流を学び、茶の湯のスタイルは奇麗さびとよばれます。天皇家や公家、上級町衆からなる文化サロンの主要メンバー。もちろん幕府内でも。

(参考)遠州所用 紺糸威二枚胴具足 @トーハク

籠手の白檀塗がお洒落な遠州さんの具足。シンプルなスタイル。

(参考)黒羅紗陣羽織 @トーハク

陣羽織の生地はヨーロッパからの輸入品。

(参考)大徳寺弧篷庵(京都市北区)

オリジナルの弧篷庵は大徳寺内ではポツンと離れた場所にある塔頭。名前は開基の遠州が春屋宗園から授かった号から。基本的に非公開の塔頭。

はじめは大徳寺の塔頭龍光院りょうこういん内に遠州が江月宗玩こうげつ そうがんを開祖、黒田長政をスポンサーとして1612年に建立されています。1643年に現在地(当時はなかった紫野高校の西側)へと移転。

遠州ゆかりの茶室や近江八景を模した庭園で知られ、井戸茶碗喜左衛門きざえもん(国宝)を所蔵。宗玩の後継となったのが江雲宗龍。

特別公開時は少人数でのグループ入れ替え制で、スタッフによる案内付。

小堀遠州と大徳寺弧篷庵についてはこちら。

司馬遼太郎による大徳寺ぶらぶら日記。
時に鷹の目、時にアリの目と自在に切り替える司馬さん。
30年前の発刊ですが、歴史オタクにとっては現役のガイド本。

長浜に戻ります。

五先賢の館

近江弧篷庵から目と鼻の先にある五先賢の館は1996年の開館。五先賢とは相応和尚、海北友松、片桐且元、小堀遠州、小野湖山の選ばれし5名。
ミュージアムが位置するのは、この5人の出身地の中心という出来過ぎの立地。外観はキリシタンを匂わせるデザインとなまこ壁が同居する不思議さ。

滋賀県長浜市北野町1386


パンフ 2024年版

当日は何かのイベント開催時だったようで、駐車場がまさかのほぼ満車。
入館すると「お早いお帰りですね!」と声を掛けられましたが、どういう意味なのか分からずにたまたま寄った事を伝えると「よくもまあこんな所に」的なリアクションでした。

編笠門

近江弧篷庵にもあったような門、そして枯山水庭園も完備。地方のミュージアムではよく見かけるフォーマット。

展示品を見ていると、複製品(パネル)に挟まれながら入館料300円とは思えない品々が並びます。
トップバッターは弧篷庵からの流れで遠州さん。

小室陣屋(城)指図 @五先賢の館

今や陣屋跡には何もないそうです。藩主小堀家らしいのは2つの茶席。

小堀遠州書状 家老宛 写し @五先賢の館
徳川秀忠朱印状 写し @五先賢の館

2代将軍徳川秀忠ひでただが遠州に対して、12,460石(備中、大和、和泉)の所領を与えますよと記した書状の写し。

徳川宗春 書状 @五先賢の館

書状は尾張の殿様が、5代小堀政峯まさみねに宛てた新春のお祝いの返礼。
徳川宗春むねはるは将軍徳川吉宗よしむねに盾突いた尾張徳川家の派手好きな殿様。イメージは長いキセルで煙草をプカプカ吸ってる人。
幕府の倹約令に対して規制緩和政策で対抗しますが、いろいろあって蟄居させられてしまいます。近年その評価が見直されつつある人。

ルソン壺 @五先賢の館

ルソン壺は新茶が詰められた殿様への献上用。茶の湯系大名の必需品。


片桐且元

片桐且元像 @五先賢の館
(たぶんどこかの模写)

2番手は片桐且元かたぎり かつもと(1556-1615)。父は近江浅井氏の家臣。のちに北近江の領主となった秀吉に出仕。賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、福島正則や加藤清正らとともに七本槍と賞されます。
バリバリの武闘派かと思いきや遠州同様に戦闘力より奉行としての才能にも恵まれ、秀吉没後の秀頼時代には家老に。
豊臣政権の官僚業務を支えた近江採用組の1人で、河内の狭山池(日本最古の人工池で過去には行基や重源が改修)の治水事業も担当。

徳川家と豊臣家の関係が微妙になってくると豊臣家中から疑われるようになって大坂城を退去。大坂夏の陣では徳川方として豊臣家滅亡を目の当たりにしています(泣ける)。

ちなみに且元の弟貞隆さだたか(1560-1627)は大和小泉の大名として江戸時代を生き抜きます。その血筋は武家茶道石州流せきしゅうりゅうに。

片桐且元書状 遠州宛 @五先賢の館

上は和泉(大阪)の奉行をしていた且元から遠州へ、和泉にある小堀家の所領トラブルを自力で解決するよう伝える書状。
下は且元からの礼状&幕府業務のヘルプ依頼。
且元さんと遠州さんは共に仕事をする間柄だったようです。

片桐且元書状 遠州宛 @五先賢の館
且元と父の位牌 @五先賢の館

片桐親子の位牌。何故ここに?
且元さんの家は継嗣に恵まれず断絶しています。貞隆系は気にしなかったのでしょうか。2人の父なのに。

且元の髪 @五先賢の館

且元さんのモノと伝わる元服時の前髪。これまた何故ここに?

浅井家の守り本尊 @五先賢の館

3体の仏像は小谷落城時に浅井長政あざい ながまさ(1545-1573)が且元に託した浅井家の守り本尊。のちに且元の甥が観音堂を建立して安置(縁起書も付属)。

ちなみに近江の各地では観音像が大切にされていて、観光コンテンツ化に熱心な印象。

出身地にはディープなゆかりの品々が残されていて驚かされます。

海北友松

海北友松像 @五先賢の館
夫妻象をトリミング加工したモノ?

3人目の海北友松かいほう ゆうしょう(1533-1615)は狩野派に学んだ絵師で、父は浅井氏の武闘派家臣海北綱親つなちか。生い立ちは岩佐又兵衛いわさ またべえ(1578-1650)とダブります。

知己だった斎藤利三としみつ(明智光秀重臣)が山崎の戦い後に磔刑に処されると、夜間に東陽坊長盛と共に遺骸を奪取。そして真如堂(真正極楽寺)へと運んで弔ったとされています(奪取については創作論あり)。その行動力や人脈は単なる絵師ではありません。
ちなみに利三と友松さんのお墓は、今も並んで真如堂に。

西王母・東王父図(原本は木之本地蔵院:長浜市) @五先賢の館
(参考)雲竜図 @建仁寺(京都市東山区)

海北友松の代名詞建仁けんにん寺の雲龍図(重要文化財)。
現在見学できるのは、キャノンがスポンサーとなった高精度複製品。

(参考)雲竜図 @建仁寺

友松作品を学ぶには最適の図録を2冊。共に絶版ですが古本屋で入手可能。

図録その1 近江の巨匠ー海北友松 展
発行:1997年 125ページ 大津市歴史博物館
図録その2 海北友松 展
編集:京都国立博物館 毎日新聞社
発行:2017年 347ページ
毎日新聞社 NHK京都放送局 NHKプラネット近畿

図録その2は、友松コーナーに張られていたチラシ(特別展)のモノ。
どちらの図録も表紙のチョイスが雲竜図というのは偶然でしょうか。
地元大津版は古本屋で入手しましたが、キョーハク版の方が現時点でのベスト版(20年の時の流れは比較できます)。
ちなみにキョーハク版には、本能寺の変の原因説にも取り上げられる斎藤利三書状(明智光秀と四国・長宗我部氏との関係を示す)も掲載。

図録その2をお探しならこちら。

古本の程度は価格も含め玉石混交なので要注意。
また表紙は2種類あります。雲竜図のチョイスが鉄板とは思いますが。

小野湖山

小野湖山像 @五先賢の館

4人目の小野湖山こざん(1814-1910)漢詩人。安政の大獄では幽閉されるという経歴をお持ちの人。残念ながら展示資料ではその経歴の一端を知るのみ。


相応和尚

最後の相応和尚そうおう かしょう(建立大師:831-918)は、比叡山千日回峰行のパイオニア。学問の神となった菅原道真すがわら みちざねとは仲良しだったそうです。
おしょうではなく、かしょう(天台宗ルール)。
衣装に気を取られ肖像画は撮り忘れ(下の写真奥に小さく)。
偉大なる先人から学ぶべきは継続するメンタリティ。

展示の衣装は、現代の千日回峰成功者藤波源信ふじなみ げんしんさん(大阿闍梨:1959- )の荒行時のリアルコスチューム。スタッフの方がやや誇らしげに教えてくれました。気になったのは草鞋の耐久性。

当日のイベントは、相応和尚の千日回峰行のプチ地元版(少しハードなトレッキング)でした。

館内には公民館的なお部屋もあります。3幅並んだ書は湖山さん童時代のモノ。そして館は地域の子供たちのワークショップの役割も。
地元の歴史を学ぶのには十分すぎる環境とコンテンツ。ただし理解できるのは大人になってからかも知れません。


(参考)豊臣秀吉像 @豊国神社(京都市東山区)

最後に小谷攻城戦で大手柄を立て、今浜を長浜にした人(写真では神様)。
江戸時代の長浜は彦根藩領でしたが、現在の長浜には井伊家よりも秀吉の歴史を前面に押し出す雰囲気がちらほら(井伊家の中心は彦根)。
遠州、且元、友松たち3人の才能を見い出し、彼らの人生を大きく変えた天下人。というより秀吉の統一事業が近江の人々にブーストされたのかも。

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