東北の伯爵邸×2【上杉邸:中條精一郎&伊達邸:山添喜三郎】【伊達家のトビラ7】 山形県米沢市、宮城県仙台市
建物の老朽化や運営法人の経営不振によって、人知れず姿を消すミュージアムがあります。公設であれば大なり小なりニュースになりますが、知名度の低い小さな私設ミュージアムはリアルにひっそりと・・・
ここ数年はコロナによる収入減や天災による被害が引き金になったりと人の力ではどうにもならないケースも。大混雑も困りものですが、訪れる人が少なすぎて閉館となるのは何より残念。
伯爵とは、かつて華族と呼ばれた貴族階級の1つ。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵とランク付けされた真ん中クラス。
かつての武家は、江戸時代の所領の大きさや戊辰戦争の立ち位置に応じて叙爵されています。
上杉伯爵邸

上杉伯爵邸は、米沢上杉家13代で伯爵となった上杉茂憲(1844-1919)によって、1925年米沢城の南側に再建された屋敷(旧屋敷は1896年建築ですが1919年に焼失)。
茂憲は最後の藩主から明治政府でも米沢知藩事や沖縄県令を歴任した人。

建物は銅板葺き、総檜の入母屋づくり。
設計は中條精一郎(1868-1936)で、日本近代建築の父 J・コンドルの1期生だった曽禰達蔵と曽禰・中條建築事務所を設立した米沢の人。
小笠原伯爵邸(東京都新宿区)も手掛けています。
山形県米沢市丸の内1-3-60


付属の庭園は、徳川将軍家の浜離宮(東京都中央区)に倣ったものらしい。
邸宅はかつて鶴鳴館と呼ばれ、当時の皇族方の宿泊所にも。

米沢上杉家の祖は上杉謙信(長尾景虎:1530-1578)。
守護代長尾家に生まれ、関東管領を務めた山内上杉家を実力で継承。

上杉家の源流は藤原北家勧修寺流の公家。足利将軍家の縁戚として鎌倉公方の関東管領(目付役)として勢力を伸張します。
没後の謙信は遺骸に甲冑装備の姿で甕に密封され、春日山城内(新潟県上越市)に安置されます。
上杉家が越後から移封されると甕のまま運ばれ、米沢城内の御堂に安置。
明治維新後には上杉家御廟へと改葬されています。

米沢藩のお抱え絵師・小田切寒松軒(1690-1774)による謙信像(佐久市教育委員会蔵)。戦闘モードの御姿は武神そのもの。
謙信自身と米沢とのかかわりは、文字通りの聖なる存在として。
実際に米沢を所領とした最初の当主はその養子。
上杉景勝(1556-1623)は謙信の甥(姉の子)。
謙信没後にこちらも実力で家督を相続。

その右腕は直江兼続(1560-1620)、愛の兜の人。
景勝(喜平治)と兼続(与六)の足跡は、二人三脚のように語られます。
上杉家は豊臣政権時代には120万石もの大大名でしたが、徳川家康に対抗し敗れると米沢30万石へと大幅ダウン。勝敗は兵家の常。

邸宅は1950年に米沢市へと寄贈され、現在はレストラン・カフェとして利用されています。米沢牛のほか、米沢の伝統食材(鯉やうこぎ等)を提供。

玄関付近には上杉鷹山(治憲:1751-1822)、為せば成るの人。

米沢育ちで知らない人はいないとされる名君。

洛中洛外図(狩野永徳作)は、明治天皇や大正天皇(皇太子時代)が行幸でご覧になったという上杉家伝来品の白眉。
邸宅の東側にある米沢市上杉博物館で所蔵・公開。


続いてもう一方の伯爵邸へ。
伊達伯爵邸:鐘景閣
伊達伯爵邸鐘景閣は、13代仙台藩主伊達慶邦(伊達家29代)の子邦宗(1870-1923)が建てた邸宅。邦宗は伊達家31代当主で伯爵の2代目。

宮城県仙台市太白区茂庭人来田西143-3
こちらも1947年には昭和天皇の宿泊所に。
かつての邸宅は仙台市若林区一本杉(現聖ウルスラ学院)にありましたが、聖ウルスラ学院から仙台市に寄贈、1980年に現在地の茂庭へと移築。
現在は仙台南ICのすぐそばにありますが、なんだかビミョーな立地。

建物は吟味された上質の木材(樹齢200年以上と)が使われた瓦葺きの木造2階建。かつての大名屋敷のように表玄関と脇玄関に広間、大書院、小書院を備えています。


設計は解体時発見の棟札にも記されている山添喜三郎(1843-1923)。
登米小学校(1887年、現教育資料館:宮城県登米市、重要文化財)の設計も手掛け、宮城の近代建築に貢献した新潟の人。

仙台藩の祖伊達政宗(1567-1636)は伊達氏の17代目。
生まれは出羽米沢の米沢育ち。名前は伊達9代目の政宗にあやかって。

現在の当主泰宗さん(1959- )は34代目。
伊達家の源流も藤原家で、藤原北家山蔭流とされています。
こちらは仙台城本丸跡に設置されていた騎馬像の胸像部(現在の騎馬像は1964年の復元で、こちらがオリジナル)。

騎馬像は太平洋戦争で軍事供出されましたが、紆余曲折を経て奇跡的に仙台市にカムバック。胸像は仙台城跡麓の観光施設(2023年オープン)前でにらみを利かせています。騎馬像よりも間近で見られます。

鐘景閣の名前は、5代藩主吉村(1680-1752)が揮毫した扁額から。


こちらはレプリカ(たぶん)。
ちなみに仙台市内にある総鎮守大崎八幡宮の扁額も吉村による揮毫。

八の字がハトなのは八幡宮あるある。文字も楽しそうに踊っています。

鐘景閣は飲食店(料亭?)として営業していました(仙台箪笥に盛り付けた料理が特徴)。ところが2025年2月に運営会社の破産により閉鎖中。

実は鐘景閣のそばには、同じ企業の運営する宿泊施設もありました。
コロナや2022年の福島沖地震の影響で、そちらはすでに閉鎖。
2023年に仙台へ立ち寄った時には、鐘景閣の営業を確認しています。
ランチタイムにバスツアーでの団体客を受け入れていたようで、玄関付近で食後の一服を楽しむメンツが大勢いたのでスルーしましたが。
歴史ある建物なので館内は禁煙だったのでしょう。
ただこういう建物で、玄関口の雰囲気に気を配らない運営会社・・・
現在はHPも閉鎖されていますが、鐘景閣の所有権は不明。
鐘景閣の古い案内には、仙台市から運営会社が借り受けたとありましたが。

鬼瓦の紋は伊達家始祖朝宗(1129-1199)が、奥州平定の功により源頼朝から贈られた三ツ引両。
八幡宮の扁額にも確認できますが、現在は仙台市の紋章のモチーフにも。
2016年には米沢で上杉・伊達両家の特別展が催されています。
互いに因縁のあった両家ですが、見ての通り似たデザインの家紋を使用。

2016年10月-11月 米沢市上杉博物館
政宗の大叔父実元(1527-1587)は越後守護だった上杉家の後継となるはずでした。しかし政宗の祖父晴宗の入嗣反対が誘発した天文の大乱によって話は消滅。
ただ養子契約のプロセスで上杉家から伊達家へと「竹に雀(上杉笹)」紋が贈られています(また伊達家の家紋は多い)。
米沢上杉氏は元々上杉家の家宰だった長尾家が山内上杉家を継承した家(越後守護家とは別家)。そういう訳で両家の竹に雀は微妙に違います。


関ヶ原の戦い東北編では緊張関係にあった上杉家と伊達家。秀吉によって領地を取り上げられた政宗が、旧領の新たな主となっていた景勝と睨み合い。家康方となった政宗は白石城を奪還し、山形の最上氏(岳父)もヘルプ。
ただし家康からの百万石のお墨付きは戦後に反故とされ、結果62万石に。
幕末の戊辰戦争での伊達家は奥羽越列藩同盟の主軸となりますが、新政府軍の前に敗退。その罪により28万石へと大幅ダウン。上杉家は14万石に。
そして後の叙爵では両家ともに伯爵に。
ちなみに新政府側へと立場を変えた佐竹家(出羽久保田20万石)は侯爵。
上杉伯爵邸は現在では米沢の観光コンテンツ。敷居の高さを感じさせつつも実は見学のみでもOK、さらに観光拠点として裾野を拡大中です。
一方の伊達伯爵邸の将来は現時点ではまったく分かりません。
ただこれを契機に、数少ない伊達家ゆかりの現存建物として仙台城跡あたりに移築するのもアリなのかも。
現在は伊達家の手を離れた鐘景閣ですが、34代目の御方様の存在に気がついたのはこの記事の情報収集中。なんと御方様は不動産デベロッパー・森トラストのトップ(創業家一族でメディアの露出も多い人)。
2024年には京都御所・下立売門そばにある有栖川宮旧邸を取得しています。
伊達邸も良い形で存続、継承できれば。
