「つくられてゆく古典」

茅原実里ファンでTwitter上のSpaceを開き討論した。

そこで「クラシック」の話が出てきたので、このとき話したことを交えながら、綴る。

「古典」はつくられる

いま「クラシック」(Classic)は西洋の古典音楽のことを指しているが、「クラシックス」(Classics)という言葉もある。これは日本語で言うと「西洋古典学」を示し、特にギリシア・ローマにまつわる文学を示したものである。とはいえ「文学」とひとくくりになったものでもなく、哲学・歴史・社会学……など、ギリシア・ローマ時代を幅広く研究するものがClassicsと考えている。
私も大学時代に、この世界に土足で踏み込んで、それなりに研究して、留年した上で去って行った経験がある。

このときに学んだことだが、ギリシア・ローマ時代の書籍が現代に伝わるには、様々な経路を経ているのだ。
そもそも当時は紙が存在しないため、文字を物理的に固定するには碑文にするほか、パピルス(エジプト原産の葦の繊維から作られたもの)が使われていた。中世時代にはそれが長持ちする高価な羊皮紙に代わったが、当然ながらコピー機もないため、何かの本を作るときには、人が手書きで新しい書物に書き写すことを繰り返した。これは印刷技術が発明されるまでずっと変わらなかった。
このとき人が書き写すため、内容を写し間違える可能性があった。それが何世代にもわたって繰り返されると、もう原文自体が分からなくなる。さらにひどい場合は書き写す本人がラテン語を知らないまま作業したり、担当者の自己検閲(好ましくない内容を書き換える)までありえただろう。中世になるとこれらの活動は修道院で行われるため、キリスト教的価値観からすれば異教の世界に対する視線は否応なく厳しい。
羊皮紙は削って繰り返し使える分だけ、当時より価値の高い本を書き写すために再利用されて、原文が消えてしまう(最近では蛍光X線分析にかけることで、削る前のテクストが読めるようになった)。面白い作品や後世の著者が引用した作品は長く残されるが、引用元が少ないものは消える。長大な作品は要約だけが残されることもあり、注釈書だけが残ってしまうこともあっただろう。
しかも戦争や文化的破壊事業によって、それらは簡単に消し飛んでしまう。紙は燃え、炭化して読めなくなる。技術的発展により、炭化したままでもパピルスを読めるようになったのはつい最近のことだ。

アリストテレスの著作は、アラビア語に翻訳されて生き延びた。制作後千年近く経った、外国の王の施策により、翻訳されていたのだ。

どれもこれも、誰かが積極的に継承しなければ、すぐにどこかで消えてしまっていただろう。古典は自然と「古典」になるものではなく、継承しようとする意志の元に成立し、長い時間を経ても生き残ったことで「古典」の名を手にするのだ。
もしかすると、地中海世界のどこかに、数千年前に親しまれていた作品のパピルスが、壺に入った形で埋められているかもしれない。それはある瞬間のベストセラーで、現代でも楽しめる魅力のあるものかもしれない。
しかし、それだけの人気があれば我々が持っている当時の文献のどこかに、その名前があってもおかしくない。そして、それだけの人気があれば誰かが何度も複製して、現代まで進まなくとも中世くらいまでは残っていたりするだろう。だから、その作品は、それほど人気のあるものではないはずだ……。そういう推測までできる。

ゆえに、今から何かを古典にしようとするのなら、それを複製し、生き延びられるようにしなければいけない。現代であれば文化庁や国立国会図書館が保管してくれてはいるが、それが毀損されたり、火事や地震で焼失したりする可能性がある。デジタルデータのDVDにも物理的な劣化はあるし、30年後にDVDドライブが残っている保証はないし、著作権保護機能や暗号プロトコルがまだ利用可能かは、わからない。
実際、まさにいま、あれだけ使われたVHSビデオテープは稀少化しているし、鳴り物入りで誕生したUHD BDは、セキュリティ機能のために、パソコン上では読み込めなくなっている。

データはデバイスをまたいで複製できるが、継続してデバイスをまたぎ続けなければ、いつかハードウェア上に取り残されてしまう。しかし今の社会情勢は厳しく、30年前に残っていた会社が30年後に存続できるだろうか? 存続できなくなったとき、どのようにデバイスをまたぎ、引き継げばよいのか?

つくられた「古典」は生き延びるかもしれない

私がいまメタラーをやっているのは、1984年に録音された、アルカトラスのライブ音源がきっかけだ。

何度でも語りたくなるほど電撃的なイングヴェイ・マルムスティーンのギタープレイ、荒々しくも華麗なグラハム・ボネットのシャウト。これは当時のニューアルバムとしてリリースされた音源だ。1984年なら、もしかするとまだレコードだったかもしれない。
当時のリスナーにとってはあたりまえの音源だが、いま2025年にはじめてイングヴェイ・マルムスティーンに触れたとき、この音源は貴重だ。なにせ2025年のイングヴェイは、専任ヴォーカルもつけず、手癖のフレーズを嵐のように流し込んでくる、悪魔のようなミュージシャンになってしまっている。いまのイングヴェイでなく、当時のイングヴェイを先にインプットしておかないと、彼がこんなに人気が出たかもわからなくなってしまう。
音楽は入る順番も結構大事で、最初のきっかけが苦しいと、もっと深くdigる勇気もなくなってしまう。

同じように、Deep Purpleの伝説的な武道館ライブが残っていることで、彼らの偉大さは永遠に伝わるだろう。

レーベル側は、いま音源を売り上げることしか考えていないかもしれない。だが音楽は長生きする。CDがない時代にはレコードが、レコードがない時代にも楽譜が残り、音楽を引き継いだ。
1750年没のバッハ、1759年没のヘンデル、1791年没のモーツァルト、1827年没のベートーヴェン、彼らの音楽こそが「クラシック」の名を受けている。それが現代だ。

だから、「古典」を今つくる

古典は、引き継がれなければ古典たりえない。とはいえ「これを古典にしよう」と、どこかの委員会が選定するようなものでもない(いや、日本ならやる気もするが……)。
ただ、引き継がれる媒体に残しておかなくてはいけない。ホメロス『イーリアス』も吟遊詩人による口承の物語が文字化されて残ったのだ。口承のままだったら、変わりゆく方言や民族構成の変化、戦争による言語や民族の消滅、記憶の忘却により、断絶してしまっていたかもしれない(日本でも「アイヌ神謡集」はその類だろう)。

とりあえずデータにして保存する。音源ならwav、録音時のマイク位置にも気を遣って……なんて技術的な話はここではやらない。
やらないが、録音したり記録しないと、古典にはなり得ない。ここがスタート。
ライブアーティストは、ライブに来てほしいがために「一回しかやらない」とか言うものだが、将来的に忘れ去られるリスクも考えておいて欲しい。King Crimsonは、ありとあらゆるライブを録音して自分たちでリリースし、無限とも思えるライブバリエーションを網羅している。

ここまでくると狂気の域ではあるが……

「古典」は未来に生まれる

最近の事例では、日本のシティポップが再ブレイクする出来事があった。なんと5億再生。

実はこの人、「ダーティペア」や「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」の主題歌を歌っていて、アニソンとも関わりがあったりする。ともかく予想外の再ブレイクは、音源を残していないと始まらないのだ。

大事なことは、今だけではなく、未来に評価されるための土台を作っておくこと。未来に「古典」と呼ばれるように、現物を作り、未来方向に埋めていくことだろうと思う。

我々が「古典」をつくる

同時に、古典が「古典」たるには、公式なものだけでは足りないとも思っている。作品を語るメタ的な作品があればあるほどよい。
たとえば「機動戦士ガンダム」の例を考えてみよう。いまでも新作が出続けているコンテンツだが、本放送時は視聴率が低かったとか、再放送で売れたとか、ガルマ・ザビの葬式が開かれたとか、ファンイベントに永野護と川村万梨阿がコスプレで参加していたとか、数々の小ネタが出てくる。この連なりが「古典」へと繋がる一歩だと、今から振り返れば思えてくる。それほどの盛り上がりがあったのだと後世の人が考えることで、自然と重みが生まれ、価値となる。
たとえばDeep Purpleのコンサートを取り上げた新聞に描かれた熱狂、テレビの映像、ラジオの音源。場合によっては、ブートレグが出回ることで伝説となる「古典」さえある(さらに、ブートレグ音源を公式化して販売する猛者アーティストもいる。本人がまともな音源を記録していないためだろう)。もちろんブートレグは公にやりとりするものではないが、まあそういうこともある。
評論もその中のひとつだろう。我々が何かを語るたびに、「古典」への道は一歩進んでいく。我々が行ったライブのひとつひとつが記録になったとき、たとえそれらが公式音源にならなくとも、個人の思い出を超えた財産になる。

古典づくりは今から始まる。そう、今からやぞ!