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宝条潤と九条蓮 推理の交錯―音楽家たちの連続殺人―:第六話【緊迫のシンクロニシティ】



潤は一人、街を歩いていた。
空は重い灰色だったが、午後の東京は相変わらず人通りが多い。しかしながら、潤の思考は周囲には向いておらず、先ほどから同じ場所で足踏みすることを繰り返していた。

(天堂さん、茂呂さん、久遠寺さん…三人が殺された今、犯人の動機は間違いなく篠宮奏介さんの復讐だ)

三年の時を経て、彼の命日に行われる【ルクス国際音楽祭】。
彼を悼む公演が始まろうとしている中、犯人はまさに自身の復讐劇を遂行しようとしている。

(犯人は音楽祭の関係者、これも間違いない。篠宮さんの自殺の理由を知っていて、しかも音楽に詳しい人物。親友の朝比奈さん、恋人の如月さん…黒崎さんに天音さん…或いは、別の誰かという可能性も…)

そこまで考えて、またしても手詰まりとなってしまい、潤は小さく溜め息を吐いた。赤信号で立ち止まり、灰色の空を見る。

(やはり足りない…もう少しで掴めそうなのに、その感触が遠い)

赤信号が青に変わる。潤は再び歩みを進め、雑踏の中を抜けていった。




やって来たのは、都内にある高層マンションだった。エントランスに入ろうとして、目的の人物が立っていることに気付く。ロングコートで俯き加減の表情は、どことなく陰りが見えた。

「……如月さん」
「!宝条先生」

如月レイだった。潤の声に顔を上げると、小さく微笑んで軽く頭を下げた。潤も倣ってお辞儀をする。

「すみません、大変な時に無理にお邪魔してしまって」
「いえ、お気になさらず。…どうぞ、上がっていってください」
「ありがとうございます」

如月に先導され、潤は彼女の自宅へと向かう。エレベーターの中でも廊下を歩く時も、二人は言葉を交わすことはなかった。

通された如月の自宅は、驚くほど整然としていた。白を基調とした壁紙や家具で統一され、窓際には立派なグランドピアノが設置されており、落ち着いた空間となっている。本棚には楽譜や音楽理論書が並べられており、過度な装飾は見当たらなかった。
彼女らしい部屋だ、潤は内心そう呟く。

「どうぞ、お掛けになってください」

そう潤を促し、如月はキッチンへ入っていった。お言葉に甘え、潤は勧められた椅子に腰を下ろす。所作なく自分の指先に見つめていると、やがて如月は湯気が立ち上るカップを二つ持って戻ってきた。
礼を言って、潤はゆっくりとカップに口をつける。香り豊かな紅茶が、喉を滑り落ちていった。

「…ご連絡させていただいた通り、お話したいことがあります」

カップを置き、潤はゆっくりと語り出した。如月が視線だけを潤に向ける。

「今朝…久遠寺さんが、自宅で殺害されているのが発見されました」
「……久遠寺さんが…」

如月は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに伏せた。きゅ、とカップを握る指先に力がこもる。

「久遠寺さんも、天堂さんや茂呂さんと同じ犯人に殺されたんですか?」
「ほぼ、間違いないでしょう。お二人と同じく、久遠寺さんにもヴァイオリンの弦が残されていました…A線です」
「G、D、A…そうなれば、残ったのは…」
「E線のみです」

潤の言葉に、如月は口を噤む。何を言えばいいのかわからず迷っているようで、唇が薄く開いたり閉じたりしている。潤は促すこともせず、もう一口紅茶を啜った。

ふと、リビングの壁際に視線を移した。あたたかみのある木製のフレームに飾られた、一枚の写真だった。美しい青空を背景に並んで立つ、男女二人。
一人は、潤の目の前に座る如月。もう一人は、如月と同じ年代であろう若い青年である。

「――もしかして、あの方は…」

潤が徐に口を開く。潤の視線の先にあるのが写真であることに気付いた如月が、小さく微笑む。

「はい…彼が、篠宮奏介です。三年前に亡くなった、私の恋人です」

如月は立ち上がり、その写真を手に取った。懐かしむように、そっとフレームに指を滑らせる。

「私と奏介は、同じ音楽アカデミーに所属していました。最初は、ただの後輩として接していたんです。とにかく真面目で、それでいて不器用で…でも彼は、誰よりも音楽を、ピアノを愛していました。才能もあるのに、いつも夜遅くまでピアノと向き合っていた…」

如月の話を、潤は柔らかな音楽を聴くように耳を傾けていた。目を閉じ、如月と篠宮が過ごしていた時の光景を思い浮かべる。

「ある時から、私に声を掛けてくるようになったんです。『どうしたら、先輩のように音を人の心まで届けることが出来るんでしょうか?』って。私は、こう答えました。『大切なのは、技術じゃない。自分が音楽で何を伝えたいか…それだけよ』。彼は驚いていましたけど、すぐに笑顔を見せてくれました。本当に、とても素敵な笑顔を」

如月が目を細める。きっと、その時の篠宮の笑顔を思い浮かべているのだろう。

「奏介は、本当に優しい人でした。自分のコンクールが目前まで迫っている時でも、後輩の面倒を見てあげたり…私がスランプに陥っていると、何も言わずにそばにいてくれたり」
「……それだけで、伝わります。とても人が良かったんですね」

潤の言葉に、如月が嬉しそうに頬を緩める。しかし、それはすぐに暗い表情へと変わった。

「そんな彼が自ら命を絶った時、最初は本当に信じられませんでした。…でも、亡くなる一ヵ月くらい前から、様子がおかしくなっていったんです。大好きなピアノのことになっても、だんだん笑わずに塞ぎ込むようになりました。しかもあんなに才能に溢れていたのに、『自分には才能がない』なんて口にし始めて…私がどんな言葉で励ましても、『大丈夫だよ』って力なく笑って…」

久遠寺の話が再び思い出される。その頃から、もしくはそれ以前から篠宮を精神的に追い詰めていたんだろう。如月が信じられないと思うのも無理はない、彼は本当にピアノや音楽を愛していたのだから。

(……あれ?)

如月の掌中にある写真を見つめていた潤は、何か引っかかるものを覚えた。
如月ではない、その隣に立つ篠宮に、妙な既視感が芽生えていた。

(どこかで見た…いや違う。彼とは会ったこともないし、名前を知ったのもここ数日のことだった。どうして見たことがあるなんて思ったんだ…?)

潤の思考回路が急速に動き出す。穏やかに微笑む篠宮の顔が、何かに被さるように脳内に投影される。

(……誰かに似ている、ということか?でも、そっくりって訳じゃない…ダメだ、これも届かない…そこまで来ているのに、もどかしい)

「――宝条先生」

カタン、と軽く音を立てて、如月は写真を置いた。潤ははっと我に返る。

「はい、どうかしましたか?」
「先生さえよければ、一緒に来てもらえませんか?…彼の、奏介のお墓参りに」
「……!いいんですか?」
「はい、もちろんです。ご迷惑でなければ」
「迷惑なんてとんでもないです。こちらこそ、如月さんさえよければ一緒に行かせてください」
「――ありがとうございます」

如月の表情が少し和らぐ。いつの間にか日は傾き、灰色の雲の隙間から、微かなオレンジ色の光が漏れ出していた。




マンションの地下駐車場に、如月の車は停められていた。如月に促され、潤は助手席へと腰を下ろす。

「すみません、わざわざ送ってもらって」
「気にしないでください。…本当は、一人で行くのが少しだけ辛かったんです」

如月は軽く首を振り、エンジンをスタートさせる。その横顔を少しだけ見つめた潤は、なにも言わずにシートにもたれかかった。
夕刻の街に、一台の車がゆっくりと滑り出していく。

その様子を、闇に溶け込むような漆黒の影が、音もなく凝視していた。




篠宮が眠る墓は、都内の光明寺の墓苑に存在していた。
車から降りた二人は、言葉少なに目的地へと向かっていく。風で揺れる木々と、二人が踏みしめる砂利の足音だけが、静かな墓苑に響いている。

奥まった場所にやってきた如月が、一つの墓石の前で足を止めた。そこには『篠宮家之墓』と刻まれている。
如月が、抱えていた花束を大事そうに墓石に供えた。真っ白な百合と、青いデルフィニウム。デルフィニウムは篠宮が好きな花だったと、如月が教えてくれた。

「ただいま、奏介」

如月の穏やかな声が、潤の鼓膜を震わせる。如月は線香に火をつけ、そっと手を合わせた。

「――失礼します」

潤も如月に倣って線香を立て、目を閉じて手を合わせる。細い煙が二本、夕刻の空へのぼって消えていく。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。

「――彼とは、よくここにきていました」

如月が再び口を開く。彼女の瞳は、ここではないどこか遠くを見つめている。

「彼、来るたびに言っていたんです。『音楽って、人の心に残るものなんだね』って。自分がいなくなっても、演奏だけは誰かの中に残る…そう口にしていました」

潤は再び想像する。写真の中で穏やかに笑っていた二人が、夕日を眺めながらそんな会話を交わしているシーンが、ありありと浮かぶようだった。

「当時の私は、大袈裟だって笑っていました。奏介はまだ若い、先の話だ…なんて言いながら。…でも、まさかこんなにすぐに、いなくなってしまうなんて…」

如月は何か言いかけて、唇を結ぶ。
潤は何も言わず、篠宮家の墓石を見た。
先祖とともに刻まれている、未来も希望もあったはずの、篠宮奏介の名前。

(彼の復讐のために、久遠寺さんたちを殺害した人物がいるとすれば…如月さんのように、篠宮さんをとても大切に思っていた人物なんだろう。彼を自殺へ追い込んだ三人に、殺意を抱くほどに。彼が愛した音楽に見立てて――)

潤はそこまで考えたところで、動きを止める。亡くなった若きピアニストと、彼を悼み手を合わせる美しきピアニストの姿が重なる。ここには存在しないはずのピアノの音が、聞こえてくるような気がした。

(篠宮さんは、ピアニストだ……何故、ヴァイオリンなんだ?)




夜の帳が降りようとしていた時刻。
九条はスタイラスペンを握りしめたまま、スクリーンを見つめていた。
天堂、茂呂、そして久遠寺の事件現場の画像を映し出しながら、腕を組み冷たい視線を注いでいる。

(最後の演奏はE線、この結論にエラーはない。起点は三年前のピアニストの自害…こちらも断定に問題はない。だが、最初の時点でピースが欠落している)

九条の手が素早く動き、三人の首に巻かれたヴァイオリンの弦を拡大した。
故意に切断された弦が、相当な殺意を持ってきつく巻き付いている。

(何故、ヴァイオリンを選んだ?篠宮奏介はピアニスト…そうであれば、ピアノに見立てた現場を構成すると考えるのが論理的にも正しい。しかし、犯人はヴァイオリンの弦の見立てに執拗な念を抱いている。ヴァイオリンの四弦でなくてはならない論理的理由とはなんだ)

九条が無言で思考を巡らせ、目を閉じる。灰が、その様子をじっと見つめていた。
ふと、何かに気付いたように九条の瞳孔が微かに動いた。三件の殺人のデータを、九条の目が射抜くようになぞっていく。

(……待て。四弦もそうだが、優先すべき検討事項がある)

目に留まったのは、三人が亡くなったとされる死亡推定時刻。
五味が提供したデータを、九条の脳内回路が今一度精査を開始した。

(一件目は天堂氏、翌日の二件目が茂呂氏、そして更に翌日の三件目が久遠寺氏…これが昨日だ)

トン、トン、トン、と九条の手が一定のテンポでデスクを叩いた。灰の耳がぴくぴくと動く。

(犯人はテンポを狂わせてはいない…乱れのない旋律を奏でている。そうであるのなら…既にE線の切断を完了しているのなら…)

九条の手が、消毒済みのインカムに伸びる。ある人物の連絡先を呼び出しながら、イヤホンとインカムをしっかりと装着した。

『……もしもし、九条先生?』

五味の声が聞こえる。滅多に来ることのない九条からの連絡に、明らかに驚いている。九条はそれを無視してインカムに語り掛けた。

「五味くん、緊急だ。今から言うことを一言一句たがわずに神谷管理官に伝えろ」

いつも以上の鋭利な物言いに、五味は「え、え、」と間抜けな声を上げている。しかし九条はやはり気にも留めず、続けて五味に告げた。

「如月レイの自宅に迎え、今すぐだ」




如月の自宅がある、高層マンションのエントランス前。
墓参りを終えた潤は、如月に見送られながら後にしようとしていた。如月の表情は、穏やかだったが、やはりまだ晴れやかとは言えないであろう色を残している。

「宝条先生、今日は本当にありがとうございました」
「いえ…僕の方こそ、篠宮さんのお話が聞けてよかったです」

潤は頭を下げ、すっかり夜の空気になった街を見る。昼間の曇り空を引きずっているのか、星も月も見えず、微かに肌寒い空気が漂っていた。
踵を返し、潤はその場を立ち去ろうとした。

(……なんだ?)

視界の端に違和感を覚え、歩みを止める。不躾に強い一筋の光が、自分たちの方へ向いていることに気付いたのだった。

そこにいたのは、一台の黒いバイクだった。エンジンを低く唸らせ、まるで獰猛な肉食獣のごとく構えているように見える。
シートに腰掛けているのは、漆黒のライダースーツにフルフェイスのヘルメットを被った人物。シールドを目深に施し、誰かはまったくわからない。
ライダーがアクセルを回した。不快な咆哮が辺りに響き渡る。バイクのライトが、一直線に獲物を捕らえていた。

(まさか――!)

潤の身体は、結論を出すよりも先に動いていた。『ここで曲を終わらせる』という犯人の歪んだ執念リズムが、夜の静寂を切り裂いて肌に直接伝わってきたのだ。
エンジン音に気付いた如月が、何事かと立ち尽くしていた。バイクは躊躇う様子もなく、如月へ走っていく。

「如月さん!!」

潤は地面を蹴り、如月の元へ駆け寄った。びくりと如月の肩が震えたが、構わず抱き寄せる。轟音と共に、排気ガスと風が一気に吹き抜けた。

「きゃ…っ!」

如月が悲鳴を上げる。潤は庇うようにしながら身をかがめ、咄嗟に如月を見た。

「如月さん、大丈夫ですか!?怪我は!?」
「は、はい…なんとか、大丈夫です」

微かに声を震わせ、如月は小さく頷いた。潤は安堵する暇もなく、立ち上がると自身の後ろに如月を下がらせた。
甲高いブレーキ音を立てながら、バイクがUターンする。アクセルを吹かせながら、もう片手には鈍く輝く何かを構えている。
潤はシールドの向こうをまっすぐに見つめるが、やはり顔を確認することは出来ない。ただ如月に突き刺さる視線が、鋭く冷たいことだけは嫌でも感じられた。

「……お前が、」

潤は自分に落ち着けと言い聞かせながら、ゆっくりと口を開く。

「お前が、久遠寺さんたちを殺したのか?」

ライダーは答えない。代わりに、己の念が籠っているであろう凶器をゆっくりと握り直している。

「篠宮さんが自殺したから、如月さんを狙うのか?」

潤の言葉に、ライダーが一瞬だけ動きを止めた。しかしライダーはやはり無言で、再び凶器を構えた。

「くそ…っ!」

潤が舌打ちを洩らした、その時――

けたたましいサイレンの音が、複数近づいてきた。潤も如月も、そしてライダーも、はっとなって顔を上げた。
一台のパトカーが滑り込むようにして停車する。その窓から、遥香が拳銃を片手に身を乗り出した。

「警察よ!動かないで!」

遥香が声を張り上げる。連なるようにして、次々と車がライダーのバイクを囲み始めた。

「包囲しろ!絶対に逃がすな!」
「武器を捨てろ!」

柴田や瀬尾も降車し、ライダーとの距離を詰める。赤いパトランプの色が濃くなり、辺りを騒然とさせていく。
ライダーは一瞬で周囲を見回し、さすがに分が悪いと悟ったのか凶器をしまった。再びエンジン音を響かせながら、夜の街を疾走し始めた。

「追って!」

遥香の声と共に、一台の捜査車両がタイヤを空転させながら急発進する。去っていくバイクを猛スピードで追いながら、車両もまた闇に消えた。

「潤!」

遥香が潤と如月に駆け寄る。潤はようやく全身の力を抜き、深く息を吐いた。

「遥香…ありがとう、助かった」
「怪我はない?」
「うん、大丈夫だ」

潤の言葉を聞いた遥香は、安心したような表情を見せる。だがすぐに引き締め、潤の後ろにいた如月に視線を移した。

「如月さんも、お怪我はありませんか?」
「はい…なんとか、大丈夫です。ありがとうございました」

小さく肩を震わせながら、如月が深く頭を下げる。遥香は緩く首を横に振った。

「お礼を言われるようなことではありません、警察として当然の職務を全うしただけです」

遥香の表情は真剣そのもので、如月は少し驚きながらも再び頭を下げる。
潤は額に滲む汗を拭い、不思議そうに遥香を見た。

「でも遥香、なんでこんなすぐに?いや、助かったらいいんだけど」
「……それは……」

「テンポを読んだだけだ」

遥香の代わりに答えたのは、抑揚がない静かな声だった。潤がはっと振り向く。

「!九条先生!」

真っ白な防護コートをランプで赤く染めながら、九条がそこに立っていた。
その隣には五味もやってきて、潤たちを見てほっと胸を撫でおろしていた。

「宝条先生!よかった、間に合った…」
「五味さんも…!もしかして、九条先生の進言ですか」
「ええ、そうよ」

遥香が頷く。こちらも表情を少しだけ緩め、拳銃をホルスターにしまいこんだ。

「九条先生が連絡をくれたの。『すぐに如月さんの自宅に行け』って」
「犯人は、立て続けに規則正しいテンポで殺人演奏を行っている。そのリズムを崩すことはない…であるならば、本日中にE線を切断すると結論を下した。そして、犯人がもしE線を見立てるなら…如月氏であると、高数値の確率を導き出した」
「そうだったんですか…ありがとうございます、本当に助かりました」
「礼は必要ない」

九条の言葉は相変わらず素っ気ない。五味に釣られて潤も思わず苦笑いを浮かべた。

「…しかし、犯人も大胆ですね。宝条先生がいるのに狙うなんて」
「犯人の目的はE線如月氏だ。宝条先生がいたとしても関係はなかっただろう、あくまでも演奏を完成させることが目的だからな」

九条の視線が、未だ呆然としている如月へと向けられる。
潤は守ることが出来た心からの安堵と、如月への心配を同時に抱えていた。

(演奏を完成させることが目的なら…また彼女が狙われる)

「念のため、捜査員を張り付かせます。犯人が再び接触する可能性もありますので、極力外出は控えてください」

遥香が如月に告げると、如月はこくりと頷いた。潤は少し不安げに眉尻を下げる。

「一人で大丈夫ですか?」
「はい、もう大丈夫です。皆さんに助けてもらいましたから…」
「無理はせずに、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう、ございます」

如月が小さく微笑む。
その二人の距離感を測るように、遥香が少し離れた場所から様子を探っていた。

(ただ心配してるだけだってば)

潤は心の中でそう呟きながら、女性捜査員と共にマンションへ入っていく如月を見送ろうとした。
その後ろ姿が、今日の夕刻に見た、墓石の前に佇む彼女の姿に重なった。

「――如月さん」

思い出したように、潤が如月を呼び止めた。如月が歩みを止めて振り向く。

「なんでしょうか」
「つかぬことを伺いますが…篠宮奏介さんに、ご両親以外のご家族がいたか、ご存知ないですか?」

潤の言葉に、如月は勿論遥香や五味が目を丸くして彼を見る。
ただ一人、九条だけは如月の口元を観察するように凝視していた。

「どうして、そんなことを?」
「すみません、急に。でも…おそらくなんですが大事なことなんです、何か知りませんか」

怪訝そうな顔をしながらも、如月は記憶をたどるように考え込む。
それから、何か思い出したらしく目を見開いた。

「そういえば…生前、聞いたことがあります。彼、両親が幼い頃に離婚していて、彼は母親に引き取られたらしいんです。その時、父親に引き取られたお姉さんもいたって」

姉。
その言葉を聞いた潤と、九条は互いに視線を合わせた。二人の天才が、同時に顎を引く。

「それ、如月さん以外で知っている方はいますか?」
「詳しくはさすがにわからないですけど…おそらく、朝比奈くんも知らないと思います。朝比奈くんからそういった話を聞いたことがないので」
「なるほど…すみません、お引止めして」

潤は深く頭を下げる。如月は不安そうにしていたが、女性捜査員に促され、改めてマンションの中へと消えていった。

「……九条先生」
「君も気付いたようだな」
「ええ、ようやくすべてのピースが揃いそうです」

潤は大きく頷く。

ヴァイオリンの見立て殺人。
如月を直接狙うほどの強い殺意。
如月の自宅で見た、既視感のある顔つき。
散らばっていたピースが、二人の元に集まりつつある。

遥香や五味はまだわかっていないらしく、お互いの相棒を促した。

「ちょっと、二人だけで納得しないでくれる?」
「そうですよ!こっちは全然わかんないんですから!」
「君たちの脳細胞はなんのために存在しているんだ、情報を繋げていけば自然に辿り着くはずだが」

九条の辛辣な声が容赦なく二人を刺す。
潤は宥めながら、改めて頬を引き締める。

「とにかく…これで犯人にはかなり近づきました。でも、まだこれでも証拠は足りない」
「同意だ。まだすべてのデータの整理は終了していない。…だが、これでEの完成は阻止できる…不協和音の演奏は、ここで終わりだ」




現場からの帰路。
潤は遥香と、九条は五味と、それぞれの車に乗っていた。助手席に深くもたれかかり、流れゆく街の景色を眺めていた。

「……ねえ、潤」

ハンドルを切りながら、遥香がその横顔に声を掛ける。潤は視線だけを遥香に寄越した。

「さっき、犯人にかなり近付いたって言ってたわよね?」
「ああ、そうだ。おそらく、九条先生も同じ考えだ」

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「やっぱり、連続殺人ですか」
「そうだ。そして如月レイが最後のE線であることも確定している」

五味の車に身を預けている九条は、腕を組みながら答える。その瞳は景色ではなく、目の前に広がるスクリーンを見ているようであった。

互いに姿がない車内で、『天才』二人が静かに語り出す。




「如月さんを襲ったのは…篠宮さんの恋人だから」
「ピアノではなくヴァイオリンを選択した理由は、狙いターゲットが四名だからだ」
「弟を助けられなかった無念を、恋人だった如月さんに向けている」
「最も高音を奏でるE線を如月レイに見立て、屠ろうとした」
「そして…きっとまた如月さんを狙う」
「篠宮奏介への鎮魂歌レクイエムとして」




「それで…犯人は、」
「一体誰なんですか?」

遥香と五味が問う。
潤と九条は、離れた場所でその名を声に乗せる。


「「犯人は――」」




日付が変わる頃。
都内の高級マンションの駐車場に、漆黒のバイクが滑り込んできた。
唸るエンジンを切ると、辺りは完全な静寂に包まれる。
ヘルメットをそのままに、エレベーターへと乗り込んだ。胸元には、如月を葬ろうとした凶器が静かに眠っている。
まるで、その時を待つかのように。

ライダーは一室へ身体をねじ込むと、ようやくヘルメットを脱いだ。部屋の主を感知したセンサーが働き、オレンジの光で出迎える。
ライダースーツのファスナーを下ろし、乱雑に脱ぎ捨てる。さらりと髪が揺れ、その瞳が微かな落ち着きを取り戻した。

その顔は――美しき声で観客を魅了する世界的ソプラノ歌手とは思えない、深い悲哀と憎悪を湛えていた。




「「天音美玲だ」」


二人の『天才』の唇が、寸分の狂いもなく同一の名を刻んだ。
遥香と五味の驚きの声が、二台の車内に木霊していた。




「あと一人…」

天音はぎり、と唇を噛みしめ、吐き捨てるように言う。

「あいつだけ…如月レイだけ殺せば、終わるはずだったのに」

そこにいたのが潤だけならば、目的を果たすまで襲うつもりだった。
だが、警察の乱入により、未遂に終わることとなった。更にはしつこい警察の追跡を撒くのに、時間を要することにもなってしまう。何もかもが想定外だ。

「……でも、ここで諦める訳にはいかないの…ねえ、奏介」

天音のソプラノの呟きが、どこか虚しく、空回るように部屋に落ちる。
その視線の先には、少し色褪せた、幼い男の子と女の子が映っている写真がある。

「奏介…大丈夫よ。お姉ちゃんがいるからね」

天音の目尻に、小さな宝石のような涙が浮かぶ。視界が滲んで、写真の中の少女と少年――天音美玲と篠宮奏介の顔が歪んで見えた。

「あなたを守れなかった…それだけをずっと後悔していた。離ればなれになっても、あなただけはずっと守るって…そう決めていたのに…」




三年前。
篠宮奏介の自殺を聞いた時、天音は深い悲しみに暮れ、涙が枯れるのではないかと思うほどに泣き明かした。
そして絞り出す涙もなくなりそうになった瞬間、彼女の胸に沸き上がったのは、言い表しようのないほどの激しい怒りの炎だった。

大切な弟を死の淵へと追いやった人物を、この手で葬り去る。
燃え上がる復讐の炎は、三年間絶やすことなく広がり続け、既に天音の心を真っ黒に焼き尽くしていた。

「絶対に終わらせる…」

再び、天音の声に憎しみが宿る。
握りしめた拳は、血が滲むのではないかと思うほど、深く爪が食い込んでいた。


第七話へ続く


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