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宝条潤と九条蓮 推理の交錯 ―音楽家たちの連続殺人―:第五話【白磁の聖域にて】



久遠寺の自宅は、朝から騒然としていた。

久遠寺は息絶えた状態となって発見された。仕事場にもしている書斎の豪奢なデスクに、突っ伏す姿勢を取らされていた。デスクには大量の紙が積まれており、小高い丘のようになっている。それらは契約書や領収書等、様々な紙ででき上がっており、流れる血によって赤く染められていた。その血の出どころは、万年筆を突き立てられた彼の掌であった。

そしてやはり、デスクを取り囲むようにして破られた楽譜が並べられている。その上には、ペーパーウェイトのように【ルクス国際音楽祭】のパンフレットが引き裂かれた状態で置かれていた。

「おはようございます」

やって来たのは、警視庁捜査一課の松岡遼だった。同じく捜査一課の奈良修平と三浦忍が「おはようございます」と軽く頭を下げる。

「プロデューサーの久遠寺さんまで…更に大変なことになりました」
「やっぱり、連続殺人ですかね」
「そうと見て間違いはないでしょうが…一応早計だということにしておきましょう」

松岡は久遠寺の遺体に目をやる。彼の首には、当然のように細いワイヤー状のものが巻き付いていた。

「あっ、五味さんおはようございます」
「おう、おはよう」

書斎の入り口近くにいた三浦が五味に気付き、声を掛ける。五味はスマホを片手に、慎重に現場へと足を踏み入れたところだった。

「おはようございます。…今日は、あの変人先生はいないんですか?」
「ちょっと松岡さん!いくらなんでもストレートすぎでしょ!」
「そうですよ!いくらホントだからってはっきり言わなくても!」

三浦と奈良が同時に突っ込むものの、松岡は特に悪びれる様子はない。首を傾げながら、にやりと笑ってみせる。

「キミたちだって思ってるんじゃないですか。ここ数日間で、九条先生が相当変わった人だというのは周知の事実ですよ」
「いやそうですけど!変わった上に怖い人だっていうのも知ってます!」
「余計な一言付け加えてるし!」

まるで寸劇のようなやり取りが繰り広げられているものの、何故か五味はそれを傍観するだけで輪に入ろうとしない。手にしていたスマホを掲げると、画面をタップした。


『――無駄話は終了したか?』


冷たい声が書斎に響いた。松岡たちが一斉にぴたりと動きを止める。
まったく感情が乗っていない声に、瞬時に主を察知したようだった。

「……九条、先生、ですか?」
『そうだが』

短く鋭い返事に、その場にいた五味以外の捜査員がぴしっと背筋を伸ばした。五味は呆れたように溜め息を吐く。

「ちなみに、ここに着いた時から繋ぎっぱなしだぞ」
「じゃあ全部聞かれてたってことじゃないですか!言ってくださいよ!」
「現場で余計な話してる方が悪いんだろうが」
『無駄話は終わったかと訊いているのだが』

トントン、とデスクをスタイラスペンで叩く音が聞こえる。
スピーカー越しにもかかわらず、その規則正しく冷たい打鍵音は裁判官の木槌のように書斎の空気を支配し、奈良や三浦は勿論、さすがの松岡でさえも肩を震わせた。

「すいません、先生。一旦こいつら黙らせとくんで」
『是非そうしてくれ、ノイズになるだけだ。…モードを切り替えろ、『整理』を始める』

五味は通話をカメラモードに切り替えると、楽譜をまたいで久遠寺に歩み寄った。九条に言われるがまま、彼の首元にレンズを近付けた。

『――ヴァイオリンのA線だな。絞首の食い込みもほぼ同じ…同一犯で間違いない』
「じゃあ…床の楽譜の方も、」
『今回はAの箇所で破られているはずだ。確認するまでもないだろうが…あとで回収したまえ。それより、その上にある冊子を見せてくれ』

九条が目を付けたのは、引き裂かれたパンフレット。
見開きには如月レイが掲載されており、美しい顔が無残にも真っ二つにされている。

『これは…【ルクス国際音楽祭】のパンフレットか』
「如月さんのページで破られてますけど、多分わざとですよね」
『当然だ。五味くん、もう少し詳しく見せろ』

五味は触れないようにしながら、如月のページを隅々まで九条に見せていく。
そのページには如月のプロフィールの他に【特別追悼演奏 故・篠宮奏介】という文字が記載されている。

『…いいだろう、十分だ。五味くん、次は久遠寺氏の下部にある紙だ』

九条が示したのは、久遠寺が敷いている紙の山だった。
五味が一枚一枚映し出していると、九条はとある楽譜に目を留めた。赤く小さな血痕が、規則正しく付着している。

『『G線上のアリア』の第三節…やはり、久遠寺氏も演奏の一部に過ぎない』
「じゃあ…やはり天堂さんや茂呂さんに続く殺人事件ですね」

おそるおそる松岡が五味のスマホに向かって話しかける。画面の向こうで九条が小さく頷いた。

『そう断定していいだろう。演奏は第三章まで終了した…残るは、E線だ』
「犯人の目星はついてるんですか?」

三浦も若干緊張した面持ちで九条に尋ねた。九条はそれに微かに眉を動かす。

『目星などという軽い言葉は不本意だが…まだピースが揃っていない。断定は不可能だ』
「まだ証拠が足りないってことですか」
『それを結論としておこう。五味くん、検証はこれで終了する。柴田さんと神谷管理官に、先ほどの内容を報告してくれ』
「わかりました」
『――ああ、それと追記事項だ』

通話を切る前に、九条は冷徹な声を上げた。五味ではなく、松岡たちに言い聞かせるように。

『現場の無駄話ノイズを減らすことを提言する…柴田さんたちに追加で伝えたまえ』




五味は久遠寺邸からまっすぐに警視庁に向かい、駐車場の定位置に車を停める。車を降りながら『整理』結果をどのように報告しようか考えを巡らせていると、足音が近づいてくることに気付いた。

「五味さん」
「!宝条先生、おはようございます」

潤の姿を見た五味は、ぺこりと頭を下げる。どうやら潤も到着したばかりのようで、宝条家の車が走り去っていくのが視界に映った。

「おはようございます。…久遠寺さんが、殺されたそうですね」
「はい、さっき現場に行ってきました。九条先生の見立てだと、やっぱり連続殺人みたいです」
「やっぱりそうですか…九条先生が検証を?」
「二日連続で家を出てたんで、今日はさすがにリモートですけどね。ただ検証はきっちりやってもらったんで、間違いはないと思います」
「大丈夫です、僕も九条先生の目を信頼してますから。犯人ついては、なにかおっしゃってましたか?」
「まだ断定はできないそうです、ピースというか、証拠が足りないとかで」
「なるほど…」

潤は顎に手を当て、何やら考え込む仕草を見せる。五味が首を傾げていると、徐に顔を上げた。

「五味さん、今から九条先生に連絡を取ることは出来ますか?」
「えっ…まあ、基本ずっと家にいるんで、それは大丈夫ですけど…」
「手間をかけますが、お願いします。すぐ僕に変わってもらっていいんで」

五味は戸惑いながらも、スマホで九条の連絡先を呼び出す。数秒の間を置いて、通信が繋がる音が聞こえた。

『五味くん、今度は何の用だ』
「すいません、何回も。宝条先生が、九条先生と話がしたいって」
『……宝条氏が?』

さすがの九条も予想していなかったのか、返事に少しだけ間が開いた。潤が目配せすると、五味はスマホの画面を手早く拭いて潤に手渡した。

「九条先生、おはようございます。宝条です」
『九条だ。君も久遠寺氏の件は聞いているだろうな』
「はい。遥香からの連絡と、さっき五味さんからも聞きました。残されていたのは、A線ですよね」
『ああ、その通りだ。これで第三弦までの切断が完了してしまっている…次は当然E線だな』
「僕もそう思います。…でも、全部がわかってる訳じゃないです」
『すべての『整理』の目録を埋めるには、まだ圧倒的にデータが足りていない。犯人を特定することも、現段階では困難と言わざるを得ない』
「――そのことなんですが」

九条が言いかけたところで、潤が何故かその言葉を遮った。予想外のことに、九条の眉がぴくりと動いた(ように五味は感じた)

「事件のことについて、お話させていただきたい内容データがあります。この後、どうしても直接、お会いさせてもらえませんか」
『…この電話越しでは難しいということか?申し訳ないが、私は外出をする気はない』
「承知しています。九条先生はご自宅で待機してください…僕が、そちらに行きますので」
『……何?』

九条の声が、僅かに上ずった。五味がぎょっとした様子で潤を見る。
完璧にコントロールされていた九条の思考の周波数が、初めて激しく乱れる。

(私の聖域に、五味くん以外の不純物を自ら招き入れるというのか? 論理的ではない。だが……彼のデータは、私の目録インベントリに今すぐ記述しなければならない――)

「ちょ…!宝条先生、何を無茶な…!」
「だってそうでしょう。捜査会議室や捜査一課みたいなところに、九条先生が行ける訳がない。かと言って、僕の家のように他人の領域テリトリーでも難しいはず。それなら、選択肢は一つだけ…九条先生の領域である、ご自宅だけです」
『…本気で言っているんだろうな』
「ええ、僕は大真面目ですよ。先生からしても、悪いお話ではないでしょう。五味さんがいるので、ルール等は事前に聞いておきますから」

潤はちらりと五味を見て、軽く頷いた。その表情は真剣そのもので、五味も思わず息を呑む。
九条は端末の向こうで随分と押し黙った後、やがていつもの口調で答えた。

『…そこから私の自宅までは、最短距離でも21分。タイムラグは前後1分だ、それが守られなければ不純物の侵入とみなし、即座にセキュリティを施錠ロックする 』
「それで構いません、ありがとうございます!五味さんとすぐに向かいます」

潤はほっと頬を緩ませ、意気揚々と通話を切った。呆気に取られている五味をよそに、まるで子どものように顔を輝かせた。

「五味さん、急ぎましょう。運転とルートは任せます!」
「え?ああはい、車用意します」

我に返った五味が、急いで車へと戻っていく。潤はその後を追い、アンロックを確認すると助手席へと身体を滑り込ませた。
車が駐車場を慌てたように出ていく。潤はシートベルトを装着しながらも、今更のように困ったような顔を見せた。

「…あんなこと言っちゃいましたけど…九条先生の言う通り…指定時間を1分でも過ぎたら、閉め出されますよね?」
「1分どころか、10秒でも無理です」

五味の返答は食い気味であった。ハンドルを握る手の力は相当強く、横顔も焦りが滲み出ていた。

(経験あるんだろうな…)と五味に同情しつつも、自分の提案が相当な無茶であったことを今更ながらに感じる。九条のことなので、21分という数字も平均的な混雑具合を加味したものだろうが、それでも猶予はほとんど残されていないはずだ。

「まあ、なんとか間に合わせます。任せてください」
「すみません、ありがとうございます」

頭を下げながら、今度は九条の自宅へと思考を巡らせた。
外界を『汚濁』と呼ぶ、極度の潔癖症の鑑識官。その自宅には、どのような空間が広がっているのだろうか。

(潔癖なキャラの参考になるかも?)

一瞬そんな暢気なことを考えていた潤だったが、九条の潔癖症が想像以上のレベルであったことを思い知るのは、この瞬間から18分26秒後のことであった。




潤が九条に自宅訪問を宣言してから、20分54秒後。

地下駐車場に車を滑り込ませ、1階のエントランスにあるインターホンを五味が必死の形相で押下した。応答自体はなかったものの、オートロックの解除音が無事に鳴り響く。

「あ、あっぶねえ…ギリギリ間に合った…」

心からの安堵の呟きを洩らし、五味はエレベーターホールへと続くドアを押し開ける。潤も慣れないダッシュをしたせいで少し息を切らしながら、その後に続いた。

「ありがとうございます…助かりました」
「いや、こちらこそ走らせてすいません。まあ、ある意味ここからが本番ですけど」

エレベーターに乗り込み、五味が大きな溜め息を吐いた。『本番』の意味がわからず、潤は首をひねる。

「本番って?」
「部屋に行けば嫌でもわかりますよ。…到着します」

指定の階でエレベーターが停止し、並んで降りる。九条の自宅は、廊下を進んで最も奥まった場所に位置していた。
五味は再びインターホンを鳴らし、返答を待たずにドアを開けた。先に潤を通し、ドアを閉めるとしっかりと施錠する。

「宝条先生、上着脱いでもらっていいですか?こっちに掛けるんで」

申し訳なさそうにする五味に、潤は大人しく従う。五味もスーツの上着を脱ぐと、手慣れた様子でそばにあったハンガーラックに掛けた。それから、シューズボックスの上に置かれているスプレー缶を手に取った。ラベルも何もない、ただの銀色のスプレー缶である。

「それは?」
「除染スプレーです。これを全身に浴びないと入れてもらえないんですよ」
「…ちなみに、どれくらい浴びれば…」
「一応全身に行き渡れば大丈夫です。足りないと先生が追加で浴びせてきますけど」

プシュー、と勢いよく噴射されたのは、アルコール臭すら完全にカットされた業務用の無臭除菌剤だった。外界のあらゆる有機的な『生活臭ノイズ』を強制的にリセットする、聖域へのパスポートである。

五味は自分が浴びた後、潤にも断って満遍なく浴びせた。更には、脱いだ上着の裏表にも浴びせるという徹底ぶりである。

そこまで終えたところで、ようやく玄関から抜け出すこととなる。使い捨てだと言うスリッパを履き、何もない廊下を進む。
本当に人が住んでいるのかと思ってしまうほど、殺風景な廊下であった。潤は興味津々な様子で眺めつつ、五味の後ろを歩いた。

「先生、五味です。宝条先生もいらっしゃいます」
「――入りたまえ」

一つのドアをノックして声を掛けると、中から返答があった。間違いなく九条の声である。五味がゆっくりとドアを開けると同時に、潤は少しだけ緊張感を抱いた。


広がっていた空間は、黒と白に覆われた聖域であった。

床には純白のラグが敷かれ、その上に堂々と鎮座するのは重厚な造りの漆黒のデスクと椅子。壁一面は本棚が設置され、寸分の狂いもなく黒色のファイルが整然と並べられている。
書斎か、あるいは仕事部屋だろうか。それにしても、生活臭や生活感と言ったものは完全に排除されている。気温も湿度も、外界とはまるで異なっていた。
そこは、自然の匂いも都市の排気ガスも存在しない、徹底して無菌化された『モノクロのオアシス』だった。

九条は、その部屋の中央で二人を待っていた。
皺一つない白いワイシャツに、隅々までプレスがかかっているであろう黒のスラックス。マスクやコートがない姿を見るのは初めてであったが、真っ白な手袋だけは現場と変わらない。

思っていた以上に肌は白く、コートの上からはわからなかったが一般的な男性よりも線は細いだろう。だが瞳に湛える光の鋭さと冷たさは、今まで逢ったどの人間よりも勝っていた。

「…すみません、九条先生。押しかけてしまって」

我に返った潤は、慌てて頭を下げた。九条は表情一つ変えず、しかし不本意であることを滲ませながら口を開いた。

「事件の整理のためだ。君の中にあるデータを私の目録に入れなければならないための特例措置であることはわかっていただきたい」
「はい、重々承知してます」

潤は背筋を伸ばし、頷きながらそう答える。
九条は事前に用意していた椅子に視線をやり、二人を無言で促す。五味が座るのを見届けた後、潤もそっと腰を下ろした。どうやら、スプレーの追加噴射はなさそうだ。

(……ん?)

ふとそこで、何か違和感を覚えた。モノトーンで支配されているはずの空間に、イレギュラーな存在があることに気付いたからである。

純白のラグに溶け込むように、真っ白な猫が伏せていた。
毛並みに乱れは一つもなく、宝石のように美しいコバルトブルーの瞳で潤を見ている。どこかこちらを値踏みするような視線であったが、その顔には静謐さが現れていた。

「灰、気にすることはない。私の目録のデータの一人だ」

潤の視線に気づいたらしく、九条が猫に言う。猫は応答するかのように、ゆっくりと身体を起こした。

「ハイ、ですか」
「『ash』の灰だ。個体データはラグドールの雌となっている」
「真っ白なラグドールに灰…叙情的ですね」
「小説家らしい表現だ」

九条が感心したようなしていないような声で言うと、灰は優雅に歩き出した。
潤の方へ歩み寄り、そっと鼻先を足へと近付ける。五味がはらはらした様子で見守り、潤もどうしていいかわからずにその場で固まるしかなかった。

「ナオ」

灰は一声上げると、ひょいと潤の膝に飛び乗った。

「えっ!?」と五味が大きな声を上げ、九条が今までにないほどに大きく目を見開く。潤はそのリアクションに戸惑いつつも、とりあえず灰の頭を撫でてみた。特に拒むこともなく、灰は甘んじて受け入れている。

「……灰。君の目録インベントリに、そのノイズを許可した覚えはないぞ。なぜだ、理解不能だ」

九条は手に持っていたスタイラスペンを止め、硬直していた。
彼の脳内分類学タクソノミーにおいて、最も『完璧な白』であるはずの愛猫が、『不純な色彩』を持つ男に重力を預けている。その論理的破綻バグに、天才の頭脳が数秒間、完全にフリーズした。

「あはは…ま、まあ、ラグドールは人懐っこくて甘えん坊だって言いますから…」
「…俺には一回も乗ってくれたことないのに…」

九条どころか、五味も何故かショックを受けている。潤は苦笑いを浮かべながらも、その触り心地のよさに撫でる手が止まらない。灰は異様な空気感も無視し、完全に身体を潤に委ねながら、膝の上で丸くなった。




「――話を、進めよう」

沈黙を打開したのは九条だった。タブレット端末を操作し、データをスクリーンに映し出す。膨大な量の数値と文字列が、画像と共に溢れんばかりに記述されていた。

「私に話したい内容データがあると言っていたな。そちらから聞かせてもらおうか」
「わかりました。昨日、茂呂さんの現場検証が終わった後、遥香と綾さんと一緒に久遠寺さんに話を聞きに行ってきました。事件のことを知らせることは勿論ですが、天堂さんの時の事情聴取で言っていた『心当たり』を話してもらおうと思って」
「先ほどの口ぶりからすると、聞き出せたということだな」
「はい。久遠寺さんの話によると、一連の事件は、三年前のとあるピアニストの自殺が関係しているのではないかということでした」

『ピアニストの自殺』という言葉に、九条の眉が微かに動いた。スタイラスペンを滑らせ、スクリーンに画像を投影させる。
それは、検証を終えたばかりの久遠寺の殺害現場の画像であった。真っ二つに引き裂かれたパンフレットを拡大する。

「そのピアニストは…篠宮奏介という名前か」
「篠宮奏介、ってパンフレットに載ってた名前ですよね」

五味も思い出したらしく、驚いたような声を上げる。潤は小さく頷いた。

「篠宮さんは三年前、自宅で自ら命を絶っていたそうです。事件性もなく、警察の捜査でも自殺で間違いないとされています」
「その篠宮さんって人が、もしかして三人と関係あるんですか?」
「その通りです。久遠寺さん曰く、自分や天堂さん、茂呂さんが彼を追い詰めたのが自殺の原因ではないかと言っていました。本人たちも自覚するほど、相当ひどいことを言っていたそうです」
「なるほど…じゃあ、三人への復讐が動機ってことですか」
「そうだと思います。【ルクス国際音楽祭】は篠宮さんの命日が開催日…天堂さんは自分の過ちを名乗り出ようとしていたそうですが、久遠寺さんも茂呂さんも拒否したそうです」
「己の体裁が崩壊する恐怖からの拒否か、実に矮小だ。それが原因で見立てを施されるとは…皮肉なものだな」

九条の手が滑らかにタブレットを操作する。
天堂と茂呂、そして久遠寺の三名の画像がスクリーンに並べられた。

「天堂氏は、不協和音を奏でるオーケストラに見立てられていた。自身の命である指揮棒タクトを折られ、独壇場だった指揮台ピットで絶命。『皇帝』の最期を飾るには、相応しいと考えたんだろう」
「茂呂さんは、商売道具を壊され、指を生きたまま折られています。まるで調律師の資格がないと、真正面から叩きつけられたも同然です」
「久遠寺氏は、自らの威厳を披露するための音楽祭のパンフレットを断裂させられている。こちらもやはり、そのようなくだらない虚勢は脆弱なものだとでも訴えているのだろうな」

潤の表情が徐々に険しくなる。昨日の久遠寺の話を思い出し、膝の上の拳にぐっと力が入った。
それに気づいた灰が、そっと前足を置いてやる。少しひんやりしたその感触に、力が僅かに緩んだ。

「自身が狙われているかもしれないと言う久遠寺さんに、犯人は誰だと思うかストレートに訊いてみました。そうしたら久遠寺さんは、朝比奈さんが犯人かもしれないとおっしゃっていました」
「朝比奈さん…確か指揮者でしたっけ」
「そうです。朝比奈さんは篠宮さんの親友だったそうで、彼が亡くなった時にも相当悲しんでいたようです。動機としては、十分ですが…」
「犯人と断定可能か…確率を表記するなら、その値は低いな」

朝比奈のデータを引き出しながら、九条が言葉を引き継ぐようにして口を開く。五味が不思議そうに首を傾げた。

「なんか根拠あるんですか?」
「事情聴取の際、朝比奈氏に見えたのは『恐怖』だけだ。もしも彼が犯人ならば、『焦燥』あるいは『警戒』が少なからず見て取れる。だが彼のデータには存在しない…自身を脅かす狂気そのものに対する、純度の高い『恐怖』のみが彼の指揮棒タクトを乱していた」
「僕も、久遠寺さんの話を聞いて、九条先生の話を思い出しました。朝比奈さんが犯人である確率はゼロではないですが、可能性は薄いと思います」

九条の目が微かに細められる。
スタイラスペンが動き、朝比奈の画像に『動機:強、確率:低』という青白い文言が添えられた。

「じゃあ、他に動機持ってそうな人はいるんですか?」
「動機だけで見るなら…五味さんも九条先生も確認してる【ルクス国際音楽祭】のパンフレットです。如月さんのページに、篠宮さんの名前があったでしょう。如月さんは、彼の恋人で…しかも、篠宮さんの遺体の第一発見者だったんです」
「えっ!?」

五味が素っ頓狂な声を上げる。九条はあからさまに嫌そうな顔をしつつ、面倒なのか苦言を呈することもしない。

「その点からすれば、如月さんは最も疑わしいとも言えなくはありません。恋人を死に追いやった人物たちが、反省することなく自身のプライドと栄誉だけを守ろうとしていると知ったら…普通なら、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えるでしょうね」
「――しかし、私の目録に致命的なエラーが残っている」

九条は理解不能なデータに不機嫌そうにしながら、如月の顔写真を拡大した。『No data』の無機質な文字が、スクリーンで淡く光っている。

「『悲哀』も『動揺』も『悔恨』も、彼女の肉体からは何の動揺も検出されなかった。恋人を殺された人間の数値ではない…バグが起こっているとしか考えられない」
「…いや、九条先生。彼女は何も感じていない訳じゃない」

潤はゆっくりと首を横に振った。短いが言葉を交わした彼女の、美しく穏やかな表情を思い出す。

「三年前、篠宮さんが死んだ瞬間に、彼女の心の時間は止まってしまっている。だから、今の現実ノイズに対して一切の反応を示さない…示せないんです」
「物理的な肉体は生存していても、精神は三年前に置き去りにされている、か。皮肉なものだな。彼女は過去の檻から一歩も動いていない…過去を清算するために復讐を記述している犯人ではない、とするならば、だが」

九条のペンが、如月のデータに『感情の欠落、あるいは死亡』と記載した。
なんとか話についていこうと、五味は必死で頭を回転させている。

「でも…それなら、天音さんや黒崎さんはどうなります?」
「黒崎氏に見えたのは『困惑』のみ、自身が置かれている状況への戸惑いだ。ヴァイオリンの見立てを行っているという点では関係も少なからずあるが、特段感情のエラーはない」

九条は言いながら、ちらりと潤に視線をやる。天音の画像データを映し出すと、いくつかの矢印が表示された。

「天音氏に関しては、人物によって向けられている値が異なる。『焦燥』は宝条先生だが、『憤怒』と『煩苛』は如月氏だ」
「宝条先生を見て焦ってるってことですか」
「しかも彼が推理小説家だと口にした時、発声や瞳孔に明らかなエラーが検出されている。人間の動機や物語プロットを暴く宝条潤という存在が、彼女の犯行シナリオを揺るがすバグとして機能している証拠だ」

潤が『天才』であるため。九条は頭の中でそう口にしてみるものの、自身がそれを言葉として発する違和感が拭えず、そのまま飲み込んだ。

「如月さんに対する『憤怒』や『煩苛』は、僕も心当たりがあります。天音さんと如月さんは、共演するたびに険悪な空気になるそうです。しかも、天音さんからの一方的な当たりが強くて、理由が誰にもわからないとか」
「……なるほど」

九条は天音から如月に伸びている矢印に『不明データ有 要検証』と追加記載した。

「この根底を覗けば、目録のピースが埋まる可能性は高い」
「僕もそう思います。本当は天音さんから聞き出せればいいんでしょうけど…あの態度からして、おそらく無理ですね。なので、如月さんにもっと詳しく訊いてみようと思ってます」
「もっとも現実的で論理的な方法だな、今回も私は拒否するが」
「任せてください」

潤がふっと微笑んだ。ねだるように見上げてくる灰の頭を優しく撫でてやる。

感情マクロを読み取るのが、この事件の僕の役目ですから」




「九条先生、お邪魔しました」

お互いの推理データを共有したところで、潤と五味はようやくお暇することとなった。
潤が椅子から立ち上がると、灰はひらりとラグの上へ降りる。しかし名残惜しいらしく、潤を見上げて「クゥ」と甘えたような声を言って聞かせた。

「……灰、何故そのような惜別の声を上げている…やはり理解できない…」
「はは…チャンスがあるかどうかはわからないけれど、またね」

ひらひらと手を振り、潤は五味を伴ってモノクロの空間を後にする。九条は大きく息を吐き、ドアをじっと見つめている灰を抱き上げた。スクリーンとタブレットの電源を落とし、椅子の背もたれに身を預けた。

「灰が気を許すとは…私の脳内分類学タクソノミーに加えなければならない…不本意だ」


第六話へ続く


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