宝条潤と九条蓮 推理の交錯 ―音楽家たちの連続殺人―:第四話【調律と威厳の崩壊】
翌日。
外は相変わらず雨が世界を濡らしている。
しかし外界から隔たれた九条の聖域は、変わりなく清潔と潔癖さを保っていた。
それを打ち壊さんと、場違いな電子音が鳴り響いた。九条は手早くインカムを装着し、画面にペンを走らせた。
「――九条だ」
『先生、大変です!』
慌てた様子の五味が、いつも以上に大きな声を上げている。九条は二つほど受信ボリュームを下げ、小さくため息を吐いた。
「大きな声を出すなといつも言っているだろう。毎度不快なノイズを聞かせてくれるな」
『それどころじゃないですよ!調律師の茂呂さんの遺体が発見されたんです!!』
五味の言葉に、微かに九条の瞳孔が大きくなる。だが、驚きではない。
自らが記述した論理が、寸分の狂いもなく実行されたことへの確信だった。
「言っただろう、これはまだ始まりに過ぎないと。最初の音がGなら、次に奏でられるのはDの音。調律師の死体は、バイオリンの第3弦に見立てて『配置』されているはずだ」
九条の声はどこまでも冷淡で、起伏がない。それゆえに五味が、小さく息を呑んだ。
『…なんでお見通しなんですか』
「何度も言わせるな、君たちの目が見通せていないだけだ。…私に連絡を寄越したということは、また外出を強要する気か」
『当然でしょ、天堂さんの事件も見てもらってるんですから。ただ、場所は相模原なんで、警視庁の管轄じゃないですけど』
「相模原…神奈川県警だな。五味くんに要請するということは、私の肩書を掲げてあちらに話を通したといったところだろう」
『…それも図星です。あとわかってると思いますけど、宝条先生も向かうみたいですよ』
五味は突っ込む気もなくなったらしく、声を小さくした。九条はもう一度溜め息を洩らすと、椅子から腰を上げた。
「五味くん、君が迎えに来なければ私は拒否する」
『もちろん許可もらい済みですよ。すぐ行くんで待っててください』
そう言って、五味の通信が切れた。
九条は勢いを増す雨の様子を眺め、茂呂の顔をそこへ映し出すように頭の中で描く。
「…『恐怖』と『焦燥』で狂わされた音律は、さぞかし不愉快だろうな」
殺人事件現場は、相模原の閑静な別荘地であった。
茂呂は自宅ではなく、所有していた別荘にて殺害されていたと、運転をしながら五味が九条に報告する。
「自分の家だと危ないと思ったんですかね」
「実に短絡的な考えだ。自身が標的だと怯えている…そう口にしているようなものだろう」
「殺された人にまで容赦ないっすね…」
会話を交わすうち、五味の車は現場に到着する。
普段は静かであろう別荘地は、パトカーの赤いランプや規制線の黄色で混沌と化していた。九条が嫌う雑多な光景であったが、スマートグラスは装着せずに車を降りる。雨の付着を回避するという選択肢を取ったためであった。
「九条先生」
九条の姿を見止めた潤が、傘を片手に駆け寄ってくる。柴田や遥香の姿はなく、彼一人のようであった。
「驚きました…予告の的中もですけど、まさかこれほど早く第二の事件が発生するなんて」
「予告ではない。照合したデータから得られる事実を述べたまでだ。…ここまで迅速だとは、導き出せなかったが」
そう口にはするものの、九条に悔しさというものは感じられない。九条の目は、既に別荘の窓から漏れるカメラのフラッシュを捉えていた。それに気づいた潤が、二人を促して規制線を越える。
「柴田さんや遥香から、神奈川県警に話は通してもらってるみたいです。鑑識の検証も最低限にしてくれているようで」
「それ自体は有難い話ですけど、そんなの通るモンなんですか?」
五味が不思議そうに言うと、潤は何故か苦笑いを見せた。
「遥香の影響だと思いますよ。県警に遥香の同期がいるので、無理にって訳ではないですけど、通しやすいんです。僕も何度か県警の捜査には協力はさせてもらってるので、それもありますけど」
「あー、もしかして宇垣管理官ですか」
五味は心当たりがあるらしく、顎を撫でて考えるようなしぐさを見せる。潤は「はは…」と笑うだけで、何故か詳細を話そうとしない。
「潤くん、来てくれたのね」
出迎えたのは、遥香と同年代と思われるスーツ姿の女性だった。遥香とタイプは違うものの、こちらも非常に整った容姿をしている。
「遥香から連絡は行っていると思うけど、五味警部補と九条先生です」
「…お話は伺っています。神奈川県警の宇垣綾です、よろしくお願いします」
二人に向かって挨拶をする綾は、美しい所作で二人に頭を下げる。
『新規登録:整理番号125・神奈川県警・宇垣綾。神谷遥香と同質の、上流階級特有の華美なノイズ(潮風を模した高級ブランドの香水)』
九条は脳内の邪魔なインデックスをパージするように、九条は無言のまま軽く顎を引いた。
「言われた通り、現場の検証はほとんどしてないけれど…大丈夫なの?」
「心配ない。九条先生がいるからな」
潤ははっきりとそう述べた。綾はちらりと九条を見るが、どうやら人物像を図りかねているらしい。遥香と友人というだけあり、こちらも聡明な女性であることは間違いないようだが。
現場に踏み込む前に、ようやく九条はスマートグラスを装着した。思わぬ重装備に綾が驚きの表情を見せるが、既に慣れてしまった潤はふっと笑みをこぼした。
「九条先生、開けてください」
潤が声を掛けると、九条はアンティークなデザインのドアノブを握りしめる。いつものように息を一つ吐いて、ゆっくりとドアを開いた。
鎮座する立派なグランドピアノの輝く弦の上に、彼はいた。
本来なら均一な張力で並んでいるはずのスチール線が、肉体の重みできしみ、歪んでいる。天堂と同じく、首には細いワイヤーのようなものがきつく巻き付いている。瞳孔は恐怖で限界まで見開かれ、弛緩した口元からは唾液が垂れ下がっており、ピアノの内部を汚している。
第一の事件と同様、床には引き裂かれた楽譜が列をなしている。今回は円形ではなく、ピアノの鍵盤のように規則的に並べられているように見受けられた。
そして天堂と大きく異なるのは、彼の命とも言える『商売道具』の徹底的な破壊であった。
ピアノ内部にばら撒かれた調律用の道具は鈍器で殴られたように歪んでおり、その役割を強制的に放棄させられている。
更には茂呂の指も血で真っ赤に染まり、あらぬ方向へ曲がっているものもあった。
天堂の事件現場が不協和音のオーケストラだとしたら、茂呂の事件現場は戦慄を覚えるほどの『尊厳の崩壊』を奏でていた。
「…相変わらず不快だ」
眩暈と吐き気を覚えながらも、九条の鑑定眼は既に現場を解析し始めていた。楽譜の位置、滴る血液、首のワイヤー…恐ろしいほどの速度で、すべてがデータとして九条の脳内で整理されていく。
「やあ宝条先生、遠いところまでご苦労様です」
潤に気付いた男性が、穏やかに声を掛けてくる。潤も丁寧に頭を下げた。
「斎藤警部、ご苦労様です。柴田さんや遥香から、話は聞いてもらっていると思いますが」
「ああ、わかっている。…そっちが噂の九条さんと五味くんだな。神奈川県警の斎藤です」
「五味です、よろしくお願いします」
「…九条蓮です」
九条はなんとか姿勢を正し、斎藤に挨拶を返した。遠巻きに見ていた鑑識官たちが、ひそひそと言葉を交わしている。
(もしかして…あの警視庁の天才とか呼ばれてた人か?)
(初めて見たな…神奈川県警が欲しがるくらいの逸材だったらしいけど)
(どんな検証するんだろうな)
そのノイズのわずらわしさに、九条は鑑識たちを一瞥する。眼光の鋭さに、若い鑑識たちが小さな悲鳴を上げた。
「写真だけは撮らせてもらっているが、現場は発見当時のままにしている。検証してもらって構わない」
斎藤の言葉を聞きながら、九条は『灰の斑点』を凝視する。それから目を閉じて、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。その瞳に宿るメスの輝きに、周囲が息を呑んだ。
九条は第一の現場と同じく、まず床に並べられた紙の列を視界に映した。スマートグラスが、その規則性を『楽譜の小節』として瞬時にラベリングしていく。
「……やはりな。五味くん、楽譜の破断線データを記録したまえ。今回はすべてDの音符で断裂している。第二楽章の始まりだ」
「D…やはり天堂さんの事件とは地続きということか」
五味や鑑識たちが楽譜を回収するのを横目に見て、九条と潤はグランドピアノへと歩み寄る。
途端に鼻を突くような燻ぶったアルコールの香りが漂い、思わず眉を顰める。茂呂の足元に隠れていて見えていなかったが、アイラ島のウイスキーの瓶が転がっていた。中身が床にしみ込んでおり、グラスや瓶は粉々に砕けている。
マスクの上から口を押さえつつ、九条は愛用のピンセットを取り出した。茂呂の首に巻きつけられたワイヤーを掴み、目の前に掲げた。断面はやはり、刃物で切断されたように滑らかであった。
「ヴァイオリンの第3弦・D線だ。引張強度はG線より高い。…だが、問題はそこではない」
「そこではない…というと」
「これを見たまえ」
九条は茂呂の肩を持ち、慎重に反転させた。
茂呂の首元から胸にかけて、掠れた血痕が幾つも走っている。D線にも血液が付着しており、特に首の正面にはべったりと指紋が残っていた。
「死因は絞首による窒息死、これに間違いはない。被害者の首には、D線で絞められた痕以外の傷がないことも確認できている」
「え、でもそれなら何故こんなに血が…」
潤は疑問を口にしようとしたところで、はっと何かに気付いた。その視線が、血に染まった茂呂の指先に注がれる。
「まさか、指の血が…」
「そう…茂呂氏は絞首の際、反射的に抵抗をしているはず。その時、この血痕が残された」
「じゃあ、首を絞められた時、茂呂さんは…」
「既に指を折られていた、ということだ」
それを聞いた捜査員から、「ひっ」と声が漏れた。綾や斎藤も、その見識に顔を顰めずにはいられなかった。
「生きたまま、指を折られた…もしかして、それにも理由があるんですか?」
「当然だろう。折られた指の角度は120度。鍵盤を叩く指の形を『固定』するために、犯人は生前に破壊したんだ」
「調律師の指を、あえてピアニストが打鍵する形に変形させたのか…皮肉しては、趣味が悪すぎる」
潤の表情が、珍しく嫌悪感を露わにする。
九条は茂呂の身体から手を離し、床に散らばったウイスキーの瓶に視線を転じる。床の染みとアルコールの香りの濃度を即座に分析した。
「…瓶の容量に対して、零れている量が極めて少量だ。気温を加味した蒸発速度からしても少なすぎる。20%も残っていない」
「茂呂さんのアルコール耐性にもよりますが、ロックで口にしたとなれば結構な酩酊状態だったでしょうね。そんな状態なら、指を折られてもまともに抵抗はできないか」
「不用心にもほどがある…自身の命が危険に晒されているというのに、アルコール摂取とは」
容赦なく切り捨てる九条に、さすがの潤も苦笑いで応えた。恐怖を紛らわせるため、と潤は推測したものの、九条にとっては無意味であろうと口にするのはやめた。
「あとは…天堂さんと続いているなら、血の楽譜ですよね」
「ああ、それも確認している。床の木目に沿って、不自然に配置された血液があった。…『G線上のアリア』の第二節だ」
その言葉に、潤は小さく溜め息を吐いた。
「最初の小節から、次の小節へ。犯人のタクトは完全に正確な拍子で動いている。……楽譜が書き換わる前に、僕たちがその手を止めないと」
目を閉じて、第一の現場の状況を今一度頭に思い描く。
『皇帝』を墓標に刻んだ、凄惨なプライベート・ホール。
「天堂さんは『G』…ヴァイオリンで最も太く低い音が出る弦を表していた。しかもタクトを折られた上で指揮台に座らされていた…これは『皇帝の終わり』を意味しているに違いない」
潤の言葉が、雨音に交じって室内に響く。
「茂呂さんは『D』…ヴァイオリンの第3弦。調律の道具も破壊され、鍵盤を叩く位置で指を固定された…それを含んだ上での『D』…」
「調律師の彼に『D』を施すことに意味がある」
九条の言葉に、潤は大きく頷いた。屈んでいた身体を伸ばし、綾の方を振り向いた。
「綾さん、これ以上の検証は必要なさそうだ」
「もういいの?指紋とか、防犯カメラとかは…」
「防犯カメラは設置されていない、調査は不要だ。指紋の確認も無意味だろう、天堂氏の時も怪しい指紋は検出されていないからな」
「防犯カメラがないって、どうしてわかるんだ?」
斎藤がぽかんとした様子で九条に尋ねる。九条は面倒だという表情を隠そうともしないまま、それでも口を開いた。
「ここに来るまでに、目視で確認済みです。周辺にも、この別荘にも、カメラのレンズは存在していない。それに…前提として、防犯カメラのデータの信憑性自体が疑わしい」
鑑識に所属していた九条だったが、彼にとって防犯カメラというのは信用に値しない代物であった。隙だらけの目、杜撰な管理体制、偽装の温床…必要以上に騒ぎ立てる周囲に辟易していたことを思い出し、心底嫌そうな顔になった。
「その割には、防犯カメラの存在確認してんですね」
「否応なしに問われるだろうと推測したまでだ」
五味の言葉に、九条はきっぱりと言い放つ。
「参ったな」と斎藤は苦笑し、綾も鋭い九条のセリフに面食らった表情を見せた。
「九条先生、検証はもう大丈夫ですか」
「ああ、遺体周辺以外に配置の乱れはない。他所の捜査は不要だ」
「わかりました、ありがとうございます」
「――潤くん」
ふと、綾が潤に声を掛ける。振り向いた先にいた綾の表情は、真剣そのものであった。
「お願い、協力して。これが本当に連続殺人なら、また誰かが殺される」
「――もちろん、協力する。このまま野放しにしておくわけにはいかない」
潤は即答した。その言葉に、綾の表情が今度は途端にぱっと明るくなる。
「ありがとう、潤くん。やっぱりあなたは頼りになる!」
綾は潤に駆け寄ると、躊躇いもなく彼の両手をそっと握った。女性特有の、細く柔らかな指の感触に、潤は思わず目を白黒させた。
「あ、あの…綾さん…」
「なあに?」
「…いくらなんでも近いです…」
「あら、そう?顔真っ赤よ、潤くん」
ふふ、と笑い声を洩らし、引くどころか更に距離を詰める。潤は顔を背けることも出来ず、ただ頬が熱くなるのを享受するしかなかった。
「はいはい」
ぱんぱん、と手を叩く音と同時に、針のように冷たい声が響いた。潤の肩が盛大に跳ね上がり、綾はぴたりと動きを止めた。
「えっ、神谷管理官!?」
驚きの声を上げたのは五味だった。管轄外であるはずの遥香が、またしても般若のような顔で仁王立ちしていたのである。綾と九条以外の捜査員も目を丸くしていた。
綾は面白くなさそうに唇を尖らせる。
「ちっ、また邪魔が入った」
「誰が邪魔よ、ていうか邪魔はどっちよ」
(また始まった……)
遥香と綾、二人の美しい瞳が交わす視線は一般男性なら垂涎ものだろうが、潤からしてみれば頭痛の種以外の何物でもない。
ばちばちと激しく散る火花が、とんでもなく恐ろしく思えた。
「遥香に決まってるでしょ、せっかくいいところだったのに」
「いいところな訳ないじゃない、潤だって固まってたわよ」
「そう?満更でもなさそうだったわよ、顔真っ赤だったし」
「……へえ?」
遥香の視線がレーザーの如く潤を串刺しにする。潤はぶんぶんと首を横に振った。
「いやいや、不可抗力だから!綾さん美人だし…な?」
「話はあとで帰ってから詳しく聞くわ」
「尋問より怖いって!」
潤は必死に弁明しようとするものの、遥香は腕を組んだまま眉を吊り上げているだけである。最早こうなれば抵抗も無駄だろう、潤ががっくりと肩を落とした。
「…ていうか…管理官、いつからいたんですか?」
なんとかその場を落ち着けようと、五味が平静を装って尋ねる。さすがの遥香も表情を緩め、ふっと息を吐いた。
「さっき到着したところです。連続殺人で間違いないって聞いて、直接確認しようと思ったので」
「あら、てっきり潤くんのことが気になって飛んできたのかと思ったのに」
「……それもあるけど」
(見透かされてるのが怖すぎる…)
「さすがはハルちゃんね」
「……綾?」
「ごめんなさい」
潤は額に手を当て、天井を仰ぐ。県境を跨いだ先でも、二人の攻防を眼前で見ることになろうとは。
「あのー、二人とも…僕が言うのおかしいんだけど…」
「なによ、潤」
「なあに、潤くん」
「僕の他に、誰がいるかわかってる?」
潤はちらりと視線を送る。五味の隣に立っている九条のことを指していると気付いた遥香と綾は、我に返って慌ててにらみ合いを止めた。
「すみません、九条先生。またしてもお見苦しいところを」
「あー…大丈夫です。先生、完全無視の状態なんで」
五味が誤魔化すように笑う。九条はタブレット端末に視線を落としたまま、目尻すら動かさない。
「無視ではない。網膜にも鼓膜にも入れていない…完全遮断だ」
(昨日よりもますます辛辣になってる…)
このまま呆れられてしまうのではと潤は辟易したが、そもそも他者に興味を持たない彼はそんな感情すら無縁だろうと思い直した。
何せこんなドラマのような場面が繰り広げられても、一心に現場の『整理』を行っているのだから。
「……とにかく、ここを離れましょう。九条先生は、一旦帰宅してもらって大丈夫です」
「どうして?九条先生も来てもらった方がいいんじゃないの?」
「そうなんだけど…多分、九条先生が耐えられないと思う。昨日の今日で外の空気なんて、あんまり吸いたくないですよね」
「当然だ」
潤の言葉に被せるように、九条が拒絶の姿勢を示した。とても警視庁に所属していた人間とは思えない反応であるが、潤も既に理解していたためそれ以上は言及しなかった。
「なにか新しいことがわかればお知らせします。五味さんも、九条先生を送ったら警視庁に行ってください」
「承知しました」
五味の返事を聞き、九条の口から大きく息が漏れる。それはようやくノイズから離れられるという、心からの安堵の溜め息であった。
九条は車に乗り込む直前、ふと、自身の目録の中でただ一つ『No data』のラベルが貼られた如月レイの顔を思い浮かべた。しかし、それを言葉にすることはせず、ただ深く、雨のシートに身を沈めた。
潤は遥香と綾を連れて、再び【ルクス国際音楽祭】の会場を訪れていた。
天堂が亡くなって一日しか経っていないものの、大きな混乱は今のところ感じられない。箝口令でも敷いているのだろう、久遠寺の様子からして混乱を招くようなことは避けたいはずだった。
「茂呂さんまで殺されたとなれば、いっそ会場の警備体制も見直した方がいいのかしら」
「それも検討した方がいい。二人は自宅と別荘だったけれど、関係者が襲われているとなれば会場も安全とは言えないな」
そんな言葉を交わしながら、控室が並ぶ廊下を歩いていく。すると、その奥から見覚えのある人物が歩いてくる姿が見えた。
「おや、これは宝条先生」
久遠寺であった。潤を見て笑顔を浮かべたものの、どことなく疲れが滲んでいるようにも見える。プロデューサーとして、天堂の件をどうするか手をこまねいているのかもしれない。
「どうも、昨日に引き続きお邪魔しています」
「いえいえ。そちらは、確か警視庁の神谷さんでしたか。…えっと、それから…」
遥香の隣にいた綾に気付き、久遠寺は首を傾げる。
綾は警察手帳を取り出し、久遠寺に掲げて見せた。
「初めまして。神奈川県警捜査一課の宇垣綾と申します」
「神奈川県警?ここは東京ですが…」
まじまじと警察手帳を見た久遠寺は、訝しげに眉を顰める。
やはり情報はまだ届いていないようだ。三人はさっと目配せをする。
「……実は、調律師の茂呂さんの遺体が発見されました。場所は、相模原にある茂呂さんの別荘です」
「……!」
久遠寺の顔色が一気に青ざめていく。唇がわなわなと震え、無意識に一歩後ずさった。
「茂呂が…殺された…本当なんですか…?」
「残念ながら事実です。現場検証も既に行っていて、間違いなく他殺であると断定されています」
「そんな…天堂に続き、茂呂までも…」
久遠寺はよろめいて、倒れこむまいと近くの壁に手をついた。肩が不規則に上下している、呼吸が落ち着いていない証拠だった。
(動揺が激しい…天堂さんの時とは比べ物にならないほどだ。『茂呂さんまで』という言葉に、すべてが集約されている)
事情聴取で見た二人の様子を思い出す。『焦燥』と『恐怖』を共有していた片割れが、殺害されたという事実を突きつけられた今、次に久遠寺は何を見せるのだろうか。
「茂呂が殺されたなら…」
久遠寺が掠れた声を上げる。指先がぶるぶると震え、額には汗が滲んでいる。
「…次に殺されるのは、私かもしれない…」
「……どういう意味ですか」
潤の声が低くなった。久遠寺はがっくりと項垂れたまま、顔を上げようとしない。
「久遠寺さん。あなたと茂呂さんが何かを知っている、もしくは隠していることは既に明白です。事情聴取の時点で、僕も九条先生も、貴方たちに何か心当たりがあるのかと訊いていたでしょう。あの時は、答えてもらえませんでしたが…もう隠すのはやめた方がいい。二人も殺された今、沈黙を貫いている場合じゃない」
潤は平静を装いながら久遠寺に尋ねる。しかし、視界の端で何かが動いたことに気付き、そちらを振り向いた。
「…今の話、」
如月が立っていた。潤や久遠寺の会話を聞いていたのだろう、穏やかな表情に微かな強張りが見える。
「本当なんですか…茂呂さんが殺されたって…」
「…如月さん、残念ながら本当です。今朝、遺体で発見されました」
「そんな…どうして、茂呂さんまで…」
呆然と如月が立ち尽くしている。潤は一瞬だけ眉尻を下げたものの、すぐに表情を戻した。
「久遠寺さん、話してくれますね」
会場のラウンジ内。
潤はソファに腰掛け、幾分落ち着いたらしい久遠寺と対峙していた。遥香と綾、如月はその傍らに立ち、二人の成り行きを緊張気味に見守っている。
「…宝条先生の言う通りだ…もう、隠しても仕方がない」
久遠寺は肩を落としたまま、絞り出すように口を開いた。
しかしながら、未だ迷いがあるのか、なかなか次の言葉を発しようとはしない。潤は指を組みながら、一回り小さく見える久遠寺の姿をじっと見据えていた。
随分間を置いて、ようやく久遠寺は語り出した。
「三年前…篠宮奏介くんが自殺したことはご存知ですよね」
「…先日、リハーサル会場で聞きました。将来を期待されていたピアニストで…如月さんの恋人だったとか」
潤は言いながら、如月の様子をちらりと伺う。如月は表情を変えないまま、二人の会話に聞き入っている。
「そうです。その彼が自殺した原因は、公にはなっていません。…ただ、私や茂呂、天堂は薄々気付いていました。…我々が、彼を追い詰めたのではないかと」
「……!」
如月の目が大きく見開かれる。
遥香と綾も、久遠寺の言葉に険しい表情を見せた。
「自分でそう思うほど、心当たりがあると?」
「はい…彼は才能もあり、将来を有望視されたピアニストでした。ただ、私も茂呂も天堂も、彼を認めようとはしなかった」
「何故です」
「…理由はない、ただ気に入らなかっただけだ」
その言葉を聞いた如月の指先に、明らかに力が入った。服の裾をきつく握りしめ、久遠寺の後ろ姿を見下ろした。
潤の胸の奥で、冷たい怒りが渦を巻く。才能を慈しむべき立場にいる人間たちが、ただの身勝手な不快感で若き才能を押し潰した。人間の汚濁をいくつも描いてきた潤にとっても、あまりに醜悪で浅はかな理由だった。
「理由もないのに、自殺するまで追い詰めたと?そんなことが通じるとでも思ってるんですか」
「音楽業界では、厳しい指導なんてよくあることです。それで自身の夢を諦めるヤツだって大勢いる。我々だって、彼が自殺するなんて…」
「人ひとりの命を奪ったかもしれないのに、よくそんなことが言えますね。そもそも心当たりがあるって言ったのは自分でしょう」
我慢できなくなったのだろう、遥香がいつになく冷たい声で言った。正論をぶつけられ、久遠寺はぐっと口を噤んだ。
「…篠宮さんの命日を開催日に選んだのは、罪滅ぼしのつもりですか」
「ああ、そうすれば少しでも罪の意識を軽く出来るのではという思いからだった。しかし、天堂だけはそれでも耐えられなかったらしくて、名乗り出ようと私や茂呂に提案してきた。だが、私も茂呂も認めなかった」
「それはどうしてですか?」
「…ルクス国際音楽祭に、傷をつける訳にはいかなかった」
「どこまでも身勝手ですね。故人への想いより自分の栄誉ですか」
潤の語気が僅かに強くなった。久遠寺は返す言葉もないらしく、再び唇をきつく結んだ。
(三年前の篠宮さんの自殺…これが犯人の動機であることに間違いはない。天堂さんと茂呂さん、これがヴァイオリンの四弦に見立てられて殺されているのなら…次に狙われるのは、十中八九久遠寺さんだ)
潤は脳内で新しくプロットを高速で積み上げていく。数秒瞼を閉じた後、ゆっくりと開けた。
「……犯人に、心当たりはありませんか?」
潤が尋ねると、久遠寺は考え込むような仕草を見せた。たっぷりと黙った後、やがて口を再び開いた。
「……朝比奈くんかもしれません」
「朝比奈くんが?」
驚いた声を上げたのは如月だった。久遠寺は頷き、苦し気に目を伏せる。
「朝比奈くんは、篠宮くんの親友でしたから。彼が亡くなった時、誰よりも悲しんでいたのは彼だったんです」
「動機はある、と言いたいわけですね」
「でも、それだけですよね。朝比奈さんが犯人だという証拠はない」
遥香と綾が矢継ぎ早に言葉を被せる。最早言い返す気力も残っていないのか、久遠寺はただ俯くだけであった。
しかし、潤は違っていた。朝比奈の名前を聞いた時、九条の言葉を思い出していた。
(九条先生は、朝比奈さんには『恐怖』しか見えないと言っていた。茂呂さんや久遠寺さんみたいに『焦燥』がない…動機は十分だけれど――)
朝比奈が犯人である確率の数字は低い、そう口にしようとしていた潤だったが――
「……待て」
「え?」
「待ってくれ…」
突如、弾かれたように久遠寺が顔を上げた。潤は勿論、遥香や綾、如月も驚いて久遠寺を一斉に見た。
ガタガタと震え、久遠寺はのけぞった。ガタンと大きな音を立て、バネ仕掛けの人形のように勢い良く立ち上がる。
「悪かった…そんなつもりじゃ…」
「久遠寺さん!?」
潤の声は、久遠寺には届いていなかった。明らかに何かに怯えており、瞳孔を完全に見開きながら、ラウンジの入り口を凝視している。まるでそこに死神の姿がはっきりと見えているかのような、狂気じみた眼差しだった。
「…っ、うあああっ!!」
「!ちょっと、待ちなさい!」
久遠寺は悲鳴を上げ、その場から一目散に駆け出した。遥香が思わず呼び止めるものの、彼は構わずラウンジから姿を消してしまった。
恐怖に駆られながら、雑多な廊下を疾走していく久遠寺。
その姿を、何の感情も籠らない瞳が、じっと追いかけていた。
第五話へ続く
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