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宝条潤と九条蓮 推理の交錯 ―音楽家たちの連続殺人―:第三話【マクロとミクロの鑑定眼(スキャナー)】



潤と九条たちはホールを後にして、一度玄関へと戻った。
先頭を歩いていた瀬尾が振り向く。

「関係者は全員【ルクス国際音楽祭】に携わっています。殺された天堂さんもその一人です。今は会場の方で準備とリハーサルを行っています。事件のことと、事情聴取をすることは伝えてますが…」

瀬尾の困ったような視線は、最後尾にいた九条に注がれる。九条はアタッシュケースをぶら下げ、スマートグラス越しに見つめ返す。

「九条さん…行きます?」
「断る」

遥香の協力要請を断った時のような、はっきりとした口調だった。
「だろうな」「ですよね」と柴田と五味が肩を竦める。

「汚濁まみれの空間を移動するのも耐え難いというのに、複数の人間から声を聞かされるなど苦痛なだけだ。私はあくまで『整理』に来ている、警察や探偵の真似事をしたい訳ではない」
「まあまあ、九条先生」

苦笑いをしながら、潤が宥めるように言う。

「話を聞くのは、僕や警察に任せてください。九条先生は、そこにいてくれるだけでいい。『事情聴取』ではなく『鑑定』をお願いしたいんです」
「潤、それってどういうこと?」

遥香が不思議そうに首を傾げている。潤は表情を引き締め、グラスの奥にある冷たい瞳を見る。

「九条先生が見るのは、容疑者たちの様子だ。視線がぶれているとか、指の動きがおかしいとか…九条先生なら、簡単に見抜けると思う。なにかおかしなところがなかったか、逐一チェックしてほしいんだ」
「なるほど…もし違和感があれば、犯人だという証拠になるかもしれないってことね」
「そういうこと。なんなら、声が邪魔になるなら耳栓やヘッドホンをしてもらっても構わない。九条先生には『鑑定』に集中してもらいたいんです」

潤の言葉に、九条はしばし目を閉じる。それから、ゆっくりと瞼を上げた。

「…耳栓は必要ない、声の揺らぎが聞き取れなくなる。但し会話の内容は追わない、私は君の言う通り『鑑定』のみ行わせてもらう。あくまで『整理』のためだ」
「それで構いません、よろしくお願いします」

潤がほっとしたように頬を緩め、周囲も胸をなでおろす。
潤は遥香たちと共に会場へ向かい、九条はいつもと同じく五味の車へと乗り込むことに。ようやく汚染空間から逃れられた安堵なのか、九条が小さく溜め息を吐いた。

「先生、ここに来てから一時間くらいしか経ってないですよ。どんだけ疲れてんですか」
「当然だろう、本当なら一分でも滞在したくない空間なんだ。このまま自宅へ引き返したいくらいだが」
「いい加減慣れてください。…それで、宝条先生はどうですか?結構息合ってましたよ」
「……君たち警察よりも遥かに優秀であることは確かだと言っておこう」
「へえ、先生でも褒めることあるんですね」
「俯瞰的事実を述べているだけだ」

シートに深くもたれかかりながら、九条は『灰の斑点』で一時的なデトックスを試みる。
これから向かう第二の汚染空間への拒絶反応を無理やりに押し込み、常温の水でゆっくりと喉を潤した。
上空では、まるでこれから巻き起こる事件を連想させるような、鈍色の雲が姿を現しつつあった。




【ルクス国際音楽祭】の会場は、まだリハーサル段階ではあったが緊張感と張り詰めた空気に包まれていた。
天堂邸よりも雑多で混沌とした空間に、九条のオーラはますます分厚く強固なものとなっている。車から降りると、嫌悪感を全面に出したままポケットのピンセットを確認していた。

「九条先生、五味さん、行きましょう」

その様子に臆することもなく、出迎えた潤は九条と五味を促した。
遥香や柴田は先に関係者へ話をつけに行っているらしく、三人で煌びやかなエントランスをくぐる。一目で上等だとわかる絨毯が敷かれたホールを足早に抜け、舞台裏へと向かっていく。

「宝条先生、慣れてますね」
「実はリハーサルの見学で一度来てるんです。本番にも来る予定ではあったんですけど…まさかこんな形になるとは」
「さすがは天下の宝条グループですねえ」
「そんな大層なことでもないですけどね」

徐々に慣れてきたのか、五味と潤は軽妙にやり取りを交わすものの、九条は相変わらず口を開かない。無駄に反響する声も、他愛のない会話も、九条にとってはどちらもノイズに変わりないのである。

雑然とした舞台裏を通り、控室へと向かう。ほとんどのドアが閉まっていたものの、最も大きな控室のドアが半分ほど開いている。ここが目的地だったらしく、潤がコンコン、とドアをノックした。

「失礼します」

淀みない声で言い、潤がドアを押し開ける。先に到着していた遥香たちと、集められていた関係者が一斉に視線を寄越してきた。

控室には、男性と女性がそれぞれ三名ずつ待機していた。年齢もバラバラで、表情にも緊張が見え隠れしている。九条は入り口近くを陣取り、全員の姿を俯瞰で解析した。
無言でスマートグラスの出力を調整し、視界をモノクロへと変換させる。
不快な色彩がすべて剥ぎ取られ、世界が濃淡の影グラデーションへと収束していく。
六人の容疑者たちの体温、呼吸による胸の上下、皮膚の微動だけが、九条の網膜に冷酷な数値として浮き彫りになった。

「…五味くん、彼らの名前はわかるか」
「ああ、はい。ここにメモしてます」

五味は警察手帳をめくり、当該のページを九条に掲げた。相変わらず整っていない彼の字体に内心溜め息を吐きながら、脳内にそれを記録していく。

「知ってる人いるんですか、天堂さんみたいに」
「界隈では名が知られている人物ばかりだ。ただ、私の中ではあくまでデータの一つに過ぎない。目録インベントリの隙間に挟み込まれているだけだ」

九条は目を閉じて、記録されている彼らの氏名と肩書に新しく顔をファイリングする。
六名は重装備の九条に、訝しげな視線を送っている。遥香は咳ばらいをして、真剣な表情で口を開く。

「皆様、お待たせしました。先ほどもお伝えしていますが、指揮者の天堂さんが自宅で殺害されました。そのことについて、お話を聞かせていただきたく思います」

改めて遥香が事件のことを伝えると、各々が不安そうに顔を見合わせる。最初に口を開いたのは、指揮者の朝比奈だった。

「信じられません…天堂先生が殺されたなんて」
「朝比奈さん、そう思われるお気持ちはわかります。しかしながら、事件は実際に起こっているんです。解決のためにも、ご協力をお願いします」
「ふん…協力と言いながら、実は我々を疑っているんじゃないだろうな。関係者だからと言って犯人扱いされたら、たまったものではない」

不本意だという態度を隠そうともせずに言うのは茂呂である。遥香が若い女性と言うこともあり、態度を大きく見せているのだろう。柴田が遮るように口をはさむ。

「申し訳ありませんが、事件が事件なんでね。音楽祭のこともあって心配でしょうが、ここは穏便にお願いします」
「そうですよ、茂呂さん。今は素直に協力しましょう、音楽祭に泥を塗らないためにも」

彼を制したのは久遠寺である。茂呂は鼻を鳴らし、どっかりと椅子に腰かけた。漂う不穏な空気に、温度が少しだけ下がったような感覚を九条は覚えた。

「…でも、何を話せばいいんでしょうか。最近は音楽祭のことにかかりきりで、特に変わったことは…」

不安そうに目線を泳がせているのは黒崎だった。それに同調するように、隣に立つ目つき鋭い天音も大きく頷いた。

「黒崎さんの言う通りよ。協力するのはいいけれど…どう見たって警察じゃない人もいるのはどうしてなの?あなたは小説家の宝条先生でしょう…あそこにいる人は、防護服みたいなの着てるし」

部屋中に通るような声。さすがソプラノ歌手というだけあり、離れている九条の鼓膜を強く震わせてくる。九条は何も言わず、グラスの向こう側で彼らを見つめているだけだった。

(……声帯の振動数、340ヘルツ。完璧な発声だが、語尾の減衰が不自然に急すぎる。動揺を押し殺すために、喉の筋肉を限界まで硬直させているな)

「潤…宝条先生は、私たちが要請して捜査に協力していただいています。あちらにいらっしゃるのは特別な鑑識の方です、警察の関係者ですのでお気になさらず」
「宝条先生がいらっしゃるなら、安心ですね」

凛とした声で、如月が少しだけ微笑んだ。潤は頬を緩ませ、恭しく頭を下げる。

「先日のリハーサルではありがとうございました。不本意な形で再び顔を合わせることにはなってしまいましたが、今日もよろしくお願いします」
「勿論です、微力ながら協力させていただきます」

途端に饒舌になった潤に、明らかに遥香が険しい表情を浮かべている。九条はそこまでとはいかないものの、ほんの僅かに顔を歪めていた。

「…声と表情筋が弛緩しきっている、五味くんよりも不愉快だ」
「さらっと俺までディスるのやめてもらっていいですか。…まあ仕方ないんじゃないですかね、如月レイって演奏もですけど、美人で有名みたいだし」
「外見に惑わされて、肝心なことを見落とさなければいいが……宝条先生。あなたの言う『物語』とやらは、女性の容姿ノイズによってこれほど簡単に推理プロットが歪むものなのか。実に非合理的だ」

九条は冷たく言い放ちながらも、その瞳は解析することをやめていなかった。
指先、視線、唇、喉の震え…すべてが九条の手中で、目まぐるしく数字と記号に変換され、羅列され始めていた。

「…では、今からお話を伺わせていただきます。まずは、昨日から本日にかけての皆さんの行動をお聞かせ願います」

遥香が中心となり、聴取が開始された。所謂不在証明アリバイの確認であり、形式的な質問がそれぞれに投げかけられる。
九条は会話の内容を注視することはなく、彼らの声を鼓膜へと通し数字データへと濾過していく。

「それでは、昨夜はおひとりで過ごしていたということですね」
「さっきからそう言っているだろう。俺には関係ないことだ、さっさと帰らせろ。暇じゃないんだ」

先ほどから苛立ちを露わにしている茂呂の語気が、段々と強まっている。しかしその明らかな不自然さには早々に興味を失った九条の視線は、彼の両手に鋭く突き刺さっていた。

(右前腕の筋肉に、不自然な硬直と微小な震えエラー。調律師特有の職業病ではない。『焦燥』と『恐怖』による緊張……彼が犯人か? いや、それにしては歩幅の荷重分布が絨毯に残されていた足跡と一致しない)

九条はタブレット端末とスタイラスペンを取り出し、素早く結果を記録していく。
カチ、カチというペンが画面を叩く音が、容疑者たちの嘘もしくは真実をめくっていくメスの解体音となり始めていた。

「茂呂さん、落ち着いてくださいよ。変に怒っているとますます疑われます、正直に話せばいいんだから」
「正直に話したところで、結局証拠やアリバイがないとかで犯人扱いされるのがオチだ。そんなことは我慢ならん」

どこまでも傲慢な姿勢を崩さない茂呂に、特に若い捜査員たちは委縮してしまっているような空気を醸している。久遠寺や柴田がなんとか宥めようとしているものの、茂呂の苛立ちは減少どころか増幅の気配を見せるばかりだった。
潤は遥香の隣に立ち、茂呂の瞳を静かに見つめていた。

(…僕と視線が合わない。一度くらい合ってもいいはずなのに、この距離でも重なることがない。意図的に逸らしているとすれば、もっと不自然になる。ということは、)

潤の視線が、茂呂のそばに立っている久遠寺に注がれる。それと同時に、茂呂の視線が一瞬だけ久遠寺に向いたのを、潤は見逃さなかった。

(やっぱり、茂呂さんは久遠寺さんにさっきから何度も視線を送っている。茂呂さんは怒っているんじゃない、怯えているんだ。彼と久遠寺さんの視線の交わし方には、『隠された罪』を共有する共犯者特有の恐怖と、それが暴かれることへの焦りの物語が流れている)

潤の脳内で、推理プロットが積木のように組みあがっていく。
その背後で、九条は絶え間なくペンを滑らせていく。茂呂の氏名の隣には、潤も読み取った『恐怖』、そして『焦燥』の文字が冷たく残された。

「本当に解決する気はあるんでしょうね。警察が頼りにならないから、推理作家や変な鑑識を呼んでいるんでしょ」

茂呂と同じく声を荒げているのは、こちらも険しい表情を浮かべている天音である。潤や捜査員は苦笑いを浮かべるだけだったが、九条の視線は彼女から剥がれることはない。

(彼女が『推理作家』というワードを口にした瞬間、瞳孔が0.8ミリ散大した。……なぜ彼女は、宝条潤という存在をこれほど警戒している?プロットの破綻エラーを恐れているのか)

天音のデータに『警戒』という文字を刻む。九条の手元の動きに気付いたのか、天音は唇をきゅっと結んだ。

「美玲さん、不安に思う必要はないでしょう。宝条先生は素晴らしい推理作家さんです、きっと早々に犯人を捕まえてくれるはずですよ」
「あなたに偉そうに言われる筋合いはないわよ。また男に媚を売ろうとでもしてるんでしょう、涼しい顔をして中は何を考えているんだか」
「天音さん、如月さんにそんなこと言ってどうするんですか。天堂先生が殺されたんですよ、揉めている場合じゃないです」

慌てた朝比奈が止めに入るものの、天音はきつく如月を睨みつけている。如月は動揺することもなく、穏やかな表情を浮かべていた。

(……彼女の刺々しい言葉は、警察への不満じゃない。僕と如月さんが親しげに話したことへの『明確な嫌悪』だ。まるで、大好きな誰かを奪った泥棒を見るような目……彼女と如月さんの間には、どんな過去が隠されている?)

潤は目を閉じて、容疑者たちを線と線で繋いでいく。

『過去に確執があった?』
『秘密を共有している可能性』
『何かに怯えている』

九条とは異なり、読み取った感情から仮定を次々に書き込んでいく。さながら、物語の推敲を行っているかのようであった。

「…でも、早めに開放してほしいのは僕も同じです。音楽祭のリハーサルだって控えているんですよ、話が終わったら帰してくれるんですよね」

朝比奈も困ったような顔をしながら、遥香たちにそう訴える。「一通り終わったら」と遥香が言いかけたところで、九条がタブレット端末から顔を上げた。

「…先ほどから、貴方たちの身体と動作は明らかに『恐怖』を表現している。特に茂呂氏と久遠寺氏、それに朝比奈氏…何故だ?」

周囲が水を打ったように静かになる。それを引き裂いたのは茂呂だった。

「恐怖だと?ばかばかしい、聞かれるまでもないだろう。殺人事件が起こったんだぞ」
「それが恐怖の根本的原因とはならない。まだ容疑者の段階だ、無実なら怯える必要はないはずだ」
「ふざけるな!天堂が殺されたんだ、俺たちだって被害に遭うかもしれない、」
「…被害に遭う心当たりがあるんですか?」

茂呂の声を遮り、潤が問う。その言葉に、茂呂はしまったと顔を強張らせた。

「僕も、茂呂さんたちが何かに怯えているように感じていました。九条先生の解析と、あなたの発言で確信を持てました。…自身が被害者になり得る理由とは、一体なんですか?」

潤と九条の視線が、容疑者たちに注がれた。捜査員たちは困惑した様子で二人を見ていたが、天才たちの目は逃すまいと網を張り巡らせている。

「…ふざけるな!もう付き合えん、俺は帰る!」

しかしそれを振り払うようにして、茂呂は足早に歩き出してしまった。捜査員たちの制止を振り切り、扉を開けようとした。

「――『焦燥』という狂った音叉で、自身を破滅へと調律しないことだな」

九条の冷徹な声に、茂呂が瞳孔を大きく見開く。しかし何も言い返すことはなく、わざとらしく大きな音を立てて扉を閉めた。

茂呂の足音が苛立たしげな調律で去っていく。客間は気まずい空気が漂うものの、九条は気にも留めない様子で再びタブレットに視線を落とした。

「…茂呂さんが出て行ったなら、私たちも構わないか?話せることは全部話したんですけど」

おそるおそる久遠寺が口を開く。他の四名は口を開かないものの、同調するように遠慮がちに頷くしぐさを見せている。遥香がちらりと潤を見ると、潤は軽く顎を引いた。

「では、本日はこれで終わりとさせていただきます。何かあればすぐに連絡させていただきますので、くれぐれもご自身の行動には注意して下さい。お忙しい中、ありがとうございました」

遥香が言い終えると同時に、久遠寺が待っていたとばかりに腰を上げ、控室から出て行こうと歩き出す。朝比奈が慌てて後を追い、未だ憮然とした様子の天音がヒールを鳴らしながら続く。委縮している黒崎は顔を伏せたままで、殿しんがりの如月がそれを支えるように肩に手を置いていた。

「――九条先生、さっき茂呂さんに『焦燥』と言ってましたよね。何かに焦っているということですか」

最後の一人が出ていくと、潤が早速九条に声を掛けた。
九条は鎮静のルーティーンを行った後、ようやくスマートグラスを外す。何の感情も持たない冷たい瞳が、潤を見上げた。

「茂呂氏の指先の震えは『恐怖』からくる反射によるものだが、喉の開きや視線の振れ幅は『焦燥』によるものだ。久遠寺氏も同程度の数値を記録している」
「朝比奈さんは?彼にも恐怖が見えると言っていましたが」
「それに間違いはない。ただ、彼には『焦燥』が見られなかった。茂呂氏と久遠寺氏とは、また異なる恐怖を抱いているということだろう」
「違う恐怖…」

潤は噛みしめるように反芻し、顎に手を当てる。

「他に気になることは?」
「…ひとまずは、解析は終了している。導き出せる論理的な答えはこれ以上ない…ただ、わかってるのは、」

九条の目は、窓の外に映る曇天を見つめる。今にも泣き出しそうな空が、重く垂れこめていた。

「ヴァイオリンの四弦の構造、そして楽譜の配列。犯人の配置した拍子テンポから算定すれば……次に奏でられる音は、第3弦である『D』だということだ」




潤は控室を出ると、先ほど見送った如月と黒崎を追いかける。数分も経過していない、そこまで遠くには行っていないはずだ。
予想通り、二人は控室の一番近くにある自動販売機のそばに立っていた。戸惑う黒崎を落ち着けているのだろう、如月が購入したミネラルウォーターのペットボトルを手渡していた。

「如月さん、黒崎さん」

潤が声を掛けると、二人は少し驚いたように振り向いた。しかし潤の顔を見て、如月が笑みを浮かべる。やはり美しい、潤は内心呟いた。

「宝条先生、先ほどはありがとうございました。すみません、急かすような真似をしてしまって」
「いえ、お気になさらず。本番も近い上に凄惨な事件が起こったんです、無理もありません」

潤も微笑み、それから一つ咳ばらいをする。背後から、カツカツと少し苛立ったような足音を感じ取ったからである。

「お疲れのところ、申し訳ないんですが…お伺いしたいことがあります」
「事件のことでしょうか?」
「はい。…あまり大声では言えないのですが、僕たちはこの事件はまだ続くと考えています」
「それは…また被害者が出るということですよね」

黒崎が不安そうに尋ねると、潤は素直に頷いた。

「僕と九条先生―先ほどの鑑識の方ですが、天堂さんの現場を見て、気付いたことがいくつかあります。お二人に、是非確認していただきたくて」

潤が振り向こうとしたところで、背後から何かが無言で腕を伸ばしてきた。潤を追ってきた九条が、自身のタブレット端末を差し出したのだ。
そこには、天堂が殺害された現場の画像が鮮明に映し出されている。さすがに遺体の様子や流血箇所はぼかされており、九条の意外な気遣いを垣間見た気がした。

「まず、天堂さんは首を絞められて殺害されています。首に巻き付けられていたのは、切断されたヴァイオリンの弦でした」
「……これ、もしかしてG線ですか」

口を開いたのは黒崎だった。やはりヴァイオリニストだけあり、一瞬見ただけで判断できるらしい。

「ヴァイオリンは四弦構造で、低い方から順にG線、D線、A線、E線となっています。G線は最も低い音を奏でる太い弦…音も重くて深いものです」
「『皇帝』って呼ばれていた天堂さんを象徴するには、確かに相応しいわね」

如月も頷いて、黒崎に同調する。
九条がスタイラスペンを操作し、画像を切り替える。次に表示されたのが、現場に置かれていた破られた楽譜であった。

「楽譜はすべてGの上で破られています。ヴァイオリンのG線に、破られた楽譜のG…偶然ではなく、意図的なものでしょう。更には、指揮者の命とも言える指揮棒タクトが折られていました。まるで、彼はこれで終わりだと告げているようです」
「それだけではない」

九条が潤の言葉を受け継ぐように声を発した。如月と黒崎が驚いたように九条を見る。

「現場にはもう一つ、天堂氏の血で楽譜が綴られていた。『G線上のアリア』の第一節ファーストバーだ」
「第一節…やはり、まだ続くということですか」

如月もさすがに不安そうにしつつ、声のトーンを落とした。
黒崎も細い指先に力が入り、ペットボトルを無意識に握りしめていた。

「私もそう思います。もし犯人が本当にヴァイオリンの弦を見立てにしているなら…この事件は、まだ終わっていないと思います」
「もし…もしも、また誰かが……」

如月は言葉を続けようとして、きゅっと唇を結んだ。
「また誰かが殺される」、おそらくそう口にしようとしたのだろう。誰も軽々しく言葉を返せず、重い沈黙が落ちた。

「大丈夫です」

潤がゆっくりと口を開いた。

「……犯人は、僕が必ず見つけます。きれいな女性を不安にはさせられません」

潤の言葉に、如月と黒崎がきょとんと目を丸くした。
二人は顔を見合わせると、同時に「ふふっ」と笑い声を上げた。

「…えっと、どうかしましたか?」
「宝条先生って、予想以上にクールだと思ってましたけど…噂通りですね」
「噂?」
「女性に弱いって…有名ですよ」
「ええ…誰がそんな」

潤は困ったような声は上げつつも、満更でもなさそうに頭を掻く。おかげで場の空気は少しだけ和んだのだが――

「……」

潤の背筋を、一筋の冷たいものが走った。
振り返ると、遥香が鬼の形相で潤を睨みつけていた。如月たちには見えていないようだが、潤にとっては心臓が跳ね上がるほどの恐怖である。

「は……遥香……?」
「随分と仲良さそうにしてるじゃない。噂が証明出来てよかったわね」
「い、いや、だって如月さんも黒崎さんも美人だし…仕方ないだろ。ねえ、九条先生」

咄嗟に九条に助けを求めた潤だったが、相手を間違えたことを一瞬で理解する。
九条はマスクをしたまま、ひどく冷めた目で潤を見ていた。

「外見の美しさが整理に関係するとでも?」
「……いえ、すみません」
「神谷管理官も頭を冷却したまえ、現場を仕切る君が感情を露わにしたところで余計なノイズが増えるだけだ」
「はい…申し訳ありません」

さすがの遥香もバツが悪そうに俯いた。
隣の五味は胃痛を覚えそうになったが、とりあえずその場は治まったようだった。

「……すみません、お疲れのところまた捕まえてしまって」

潤は気を取り直し、二人に深く頭を下げた。
「いえ」と二人はさほど気にしていない様子を見せつつも、今度は九条の冷たさに困惑を隠せないでいるようだった。
当の九条はタブレット端末を操作しつつ、我関せずといったスタンスを再び貫いていた。

「僕たちはこれで失礼します。何かあったらこちらからも連絡しますし、そちらから連絡していただいても構いません」
「ありがとうございます、宝条先生。真音ちゃん、行きましょう」
「はい、レイさん。…失礼します」

丁寧に頭を下げて、二人はその場から立ち去っていく。潤は軽く手を振りながらも、遥香の突き刺さるような視線を感じずにはいられなかった。

「……失礼しました、九条先生、五味さん」

潤は九条たちに向き直ると、ばっと頭を下げた。遥香はふんと鼻を鳴らし、五味は大丈夫だからと苦笑い。九条は相変わらずの無表情で、ただ潤の後頭部を眺めるだけであった。

「まったく、いい加減にしなさいよ。見苦しい姿見せないでちょうだい、二人に失礼でしょう」
「いや、ごめん、ついいつもの癖で…」
「まあ、二人が美人なのは事実なんで…ね、九条先生」
「興味がない」

五味は話を振るものの、九条は間も置かずに即答した。

「でも先生、さっき外見の美しさがどうとか言ってたじゃないですか」
「データ上の数値から見る顔面の整い具合からそう答えただけだ。そもそも美しいか否かは主観の問題であって、私の整理には影響しない」
(外見まで全部データかあ…)
(潤も少しは見習ってくれないかしら…)

芯のぶれなさに、潤も遥香も妙に感心してしまう。
三人のノイズを鼓膜に入れつつも、九条の頭脳は急速回転を続けていた。

(見立て殺人を告げた時のリアクション…二人に違和感は見られない。特に如月レイ…彼女は、)

如月レイの脳内イメージに、九条の無機質な文字が記入される。

(……『No data』、ゼロだ)




九条が自身の聖域へと帰還したのは、雨が降り出す直前のことであった。

書斎に足を踏み入れると同時に、ぽつぽつと雨粒がガラスを叩き始める。
九条はマスクと手袋を外し、ごみ箱へと投げ捨てた。絨毯の上で丸まっていた灰が、ゆっくりと身体を起こす。

「…灰、待たせたな。想定以上に時間を要してしまった」

椅子に腰を下ろすと、灰が優雅にデスクへと飛び乗った。いつも以上に疲労している主人の様子に気付いているのか、無理に膝に乗ろうとはせずに一定の距離を守っている。九条が完璧な指圧で耳の裏を撫でると、心地よさそうに目を細めた。

灰による毒抜きが完了し、九条は改めてタブレットを取り出した。スクリーンへと接続し、データを投影する。そこには、天堂の事件現場と六名の聴取の様子が、克明に記録されていた。

(茂呂氏と久遠寺氏、そして朝比奈氏は『恐怖』。加えて前者二名には『焦燥』)

九条はスクリーンを睨むように見つめ、得られたデータを目録の中へとファイリングしていく。時折ペンを動かし、文字列を微調整させた。

(黒崎氏には『困惑』のみ。状況への未理解が、指先の動きにエラーを生じさせている)

(天音氏は『憤怒』そして『煩苛』。ただこれは如月氏に向けられているものだ。宝条氏に対しては…茂呂氏たちと同じく『焦燥』)

(その如月氏は、)

九条はゆっくりと目を閉じる。如月の顔の画像の横には、文字や数字の記載が一切なかった。

(…やはり、『No data』)

どれほど倍率を上げても、彼女の肉体は一切のノイズを放っていなかった。
嘘をつく者の微動も、怯える者の硬直もない。まるで、最初から命の波形が途切れているかのような、完全な静寂。

九条の背筋に、未知のバグに直面した時のような、かすかな悪寒が走った。


第四話へ続く


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