宝条潤と九条蓮 推理の交錯 ―音楽家たちの連続殺人―:第二話【皇帝の墓標】
「……こりゃあ、また厄介な事件だな」
柴田元治は、現場を見回して頭をがしがしとかいた。
「絶対に普通じゃないですよね、これ」
傍らに立っていた遥香も、嫌悪感を露わにして眉を顰めている。
彼らの目の前で、苦悶の表情を浮かべて絶命しているのは、世界的指揮者の天堂響一であった。
『皇帝』の異名を持ち、世界に名を轟かせている彼が、自宅で何者かによって殺害されているのが発見されたのである。
しかも、悍ましく異様な現場で。
「…柴田さん、」
「おう、わかってる。ハルちゃんの頭脳担当の出番だ、呼んでくれ」
「はい、ありがとうございます」
遥香は表情を和らげ、スマホを片手に一旦その場を離れた。
その後ろ姿を見送った柴田は、再び現場を見回す。
(先生を信用してない訳じゃねえが…この厄介さはいつもと違いすぎるな)
考えた後、柴田もポケットからスマホを取り出す。軽くタップし、耳に当てながら呼び出し音を聞いた。
「――柴田だ。そこに五味はいるか?」
遥香はすぐに戻ってきた。その表情からして、良い返事があったことは容易に想像できる。
「すぐに来てくれるそうです」
「さっすが先生だな。…実は、俺もちょっと呼びたいヤツがいるんだ」
「潤以外に、ってことですか?」
「ああ。こういう厄介な事件を解決してくれそうなヤツがもう一人いてよ」
そんな人物は初耳であるため、遥香は不思議そうに首を傾げる。
しばらくして、規制線をくぐる男性の姿が見えた。グレースーツを着ており、髪は短くネクタイが緩く曲がっている。
柴田が「おう」と手を上げると、小走りで駆け寄ってきた。
「柴田警部、お呼びですか」
おっかなびっくりと言った様子で、その男性――五味剛は柴田に話しかける。隣に立っている遥香に気付くと、軽く頭を下げた。
「悪いな、わざわざ来てもらって。ハルちゃん、五味のことは知ってるよな」
「ええ、勿論存じてます。五味さんが、柴田さんの呼びたい方ですか?」
「正確には違うな。五味の知り合いだ…な、五味」
「知り合いってか、昔の上司ですよ。…九条先生を呼べってことですよね」
「九条…先生?」
名前を聞いてもピンと来ていない遥香は、ますます疑問に思うばかり。柴田と五味は一瞬目を合わせると、納得したように頷いた。
「ハルちゃんもさすがに知らないか…元々警視庁の鑑識やってたヤツなんだけどよ。五味がたまに力貸してもらってるって聞いてたから、呼んでもらおうと思って」
「元鑑識?」
「ちょっと変わりモンだけど、鑑識としてはすげえ優秀なヤツでな。こういうおかしな現場の検挙率が群を抜いてんだ…『天才』って呼ばれるくらいにな」
「ちょっとどころか、相当な変わり者だと思いますけどね」
五味は肩を竦め、自分のスマホを取り出す。
『変わり者の元鑑識』という聞いたこともないフレーズに、遥香の興味も徐々に湧いてきたようだった。
何より『天才』という言葉を聞き、自身が最も信頼を置いている彼の顔が脳裏に浮かんだ。
もう一人の『天才』とは、一体どんな人物なのか。
「……あの、よかったら、私がお話してもいいですか?」
スマホで呼び出そうとしている五味に、遥香は思わず声を掛けていた。
五味と柴田が驚いた様子で目を丸くする。
「えっ、管理官が…ですか?わざわざ出る番でもないと思いますけど」
「管理官だから、です。権威を振りかざす訳じゃないですけど、現場を取り仕切っているのは一応私なので。…それに、お話聞いてたら、どんな人かちょっと気になっちゃって」
「はあ…まあ、俺は構いませんけど…」
スマホの画面をごしごしとスーツの袖口で拭い(彼と関わるようになってから、画面の皮脂汚れに妙に敏感になってしまったのだ)、改めて該当人物の番号を呼び出す。おそるおそるスマホを差し出すと、遥香は何の躊躇いもなく受け取り、耳に当てた。
「…なあ、どう思う?吉と出るか、凶と出るか」
柴田がそっと五味に耳打ちする。五味は頭をかきながら、溜め息交じりに言った。
「俺なら…『最初は凶、その後のやり取り次第で吉』で賭けますね」
「違和感ねえな。あいつの開口一番の第一声は、だいたい相手の神経を逆撫でして終わるからな」
九条蓮の書斎は、常に22度に保たれ、湿度は45%を維持している。
九条は白い手袋を嵌め、ピンセットを無心に磨いている。まるでメスのように鋭い輝きを放っているそれに、満足そうに目を細めた。
ラグドールの灰はデスクの上に居座り、優雅に毛づくろいを行っている。
それはとてもありふれた午後の時間であったが、その穏やかな空気は、一つの電子音に切り裂かれた。
デスクの上に置かれたタブレットが、遠慮なく着信を告げる。九条は僅かに眉を顰めながら、スタイラスペンを滑らせた。
相手など確認する必要はない、自分に連絡をしてくるという酔狂な真似をするのは、彼以外にほぼ存在しないのである。
「五味くん、何の用だ」
『――九条先生でいらっしゃいますか?』
しかしイヤホンを通して聞こえてきたのは、五味の聞き慣れた弛緩した声ではなかった。鼓膜を叩いたのは、張り詰めた高周波のような、妙に凛とした若い女性の声。
九条は顔を上げ、不純物を撥ね退けるようにイヤホンの位置を少しだけ調整する。
「…誰だ。この連絡先は五味くんで間違いないはずだが」
『五味さんのスマートフォンを借りてお話させていただいています。初めまして、私は警視庁の神谷遥香と言います』
『神谷遥香』という名前を聞き、九条は脳内で高速検索を素早く行った。
彼女の「初めまして」という言葉の通り、九条の目録の中に彼女のデータは存在していない。
「警視庁の人間が、何故私に連絡をしてくる」
『…実は、今殺人事件の現場に来ています。殺されたのは、世界的にも有名な指揮者なんですが、その現場が少し変わっていまして。一緒に来ている五味さんに、九条先生はこのような少し変わった事件を何度も解決していると伺いました』
遥香の話を聞いた九条は、内心で深いため息を吐く。余計なことを話してくれるな、という、向こう側にいるであろう彼への無言の忠告である。
『突然のご連絡で失礼なのは承知しています。ですが、私たちは九条先生の力をお借りして事件を早急に解決したいんです、よろしければこちらまでお越しいただいて、』
「断る」
言い切る前に、九条は明確に拒絶の言葉を口にした。
遥香がスマホの向こうで『えっ』と驚いた声を上げる。
「事件を解決するのは、警察の仕事だろう。私は警察でも物語の中の探偵でもない、他を当たってくれ」
『…ですが、五味さんがいくつも難解な事件を解決したと言っていましたが…』
「五味くんが強引に持ってきた仕事を、仕方なく『整理』しているだけだ。しかも現場に赴くなど、最も耐え難い行動の一つだ…想像しただけで頭痛がする」
切り捨てる九条の言葉に、遥香が戸惑っているのが伝わってくる。彼女の聡明さは声からもわかるものの、さすがにこの展開は予想していなかったのだろう。
いつもなら既に通話を終了しているが、さすがに初対面の相手ということもあり、九条はタブレットを見つめたまま反応を待っている。
『――九条だな?覚えてるか、警視庁の柴田だ』
次に聞こえたのは、遥香とはまた異なる声。
今度は男性の声で、しかも九条にも聞き覚えがあった。
『整理番号084:警視庁捜査一課・柴田元治』
九条の脳内システムが、過去の鑑識ログから正確に男の記号を高速検索し、すぐに引き当てた。
「…柴田さんですか、ご無沙汰しています」
『その反応だと、覚えてもらってたみたいだな』
「ええ、何度かご一緒させていただきましたので」
九条は微かに目を細める。
まだ鑑識官として駆け出しの頃、事件現場で幾度か顔を合わせていた。交わした会話はそこまで多くはなかったものの、目録の中には保存されていた。
『さっきハルちゃん…神谷管理官からも言わせてもらったと思うけど、頼むからこっちまで来てくれ。お前の力が必要なんだよ、五味の顔を立ててやれ』
「こちらも先ほど言わせていただきましたが、お断りします。私に五味くんの顔を立てる論理的理由はありませんので」
『そう言わずに、今回だけ頼む。…元・伝説の天才鑑識官の出番なんだからな』
柴田がにやりと笑ったのが、タブレット越しにも見えるようだった。九条は数十秒ほど考え込むと、ゆっくりと口を開いた。
「……その安っぽいラベル肩書きは、私の目録には登録されていません。私はただ、無能な捜査員たちが撒き散らした現場のノイズを、正しく間引きしていただけだ」
九条の冷徹な声に、『相変わらず手厳しいな』と柴田が苦笑いの声を上げる。
「しかも未だ私の力を必要とするとは、警察も鑑識も相変わらずのようですね。ノイズと不純物だらけの現場に行くのはまったく気が進みませんが…柴田さんが言うのなら、今回だけですが引き受けましょう」
『そうこなくちゃな!今すぐ車を回すから、家で待っててくれ』
「そこに五味くんがいるんでしょう、彼の車を寄越してください。他の人物と車で来た時には、即刻帰っていただきますので」
九条はそう告げて、ようやく通話を切った。時間にして数分ほどの通話だったが、既に妙な疲れを感じてしまっている。
イヤホンをしっかりと消毒すると、重い腰を上げた。灰が不思議そうに顔を上げる。
「灰…どうやら、不本意にもノイズと不純物を嫌でも浴びる羽目になったようだ。しばらくの間待っていてくれたまえ、すぐに戻る」
撥水加工のロングコートに袖を通し、手袋を新しいものに交換する。
灰は「ナア」と声を上げ、主人へ労いの見送りを告げたのだった。
立川の屋敷の前に、一台の高級車が滑り込んできた。運転席から執事らしき男性が出てきて、後部座席のドアを恭しく開ける。
降りてきたのは宝条潤だった。陰鬱さを吸い込むような最高級の仕立てのスーツが、彼の存在そのものを一幅の絵画のように完成させていた。
彼に気付いた制服の警官が、敬礼のポーズを取る。
「宝条先生、ご苦労様です。神谷管理官がお待ちです」
「ありがとう、ご苦労様です」
潤は頭を下げ、慣れたように規制線の内側へと足を踏み入れる。
エントランスに姿を現した潤を見止め、遥香があっと声を上げた。
「潤、来てくれたのね。ありがとう」
「おー先生!いつも悪いな」
潤を見た捜査員たちが、一斉に色めき立つ。潤は軽く頭を下げ、屋敷の中を見回した。
「遥香から聞きました。…殺されたのは、あの天堂さんだそうで」
「そうなんだよ。しかも相当に厄介な事件みたいでな…情けないながら、先生の力に頼ったってわけだ」
「僕は構いません。それで、現場はどちらですか」
「……あー、それなんだけどよ」
珍しく柴田が言い澱む。ちらりと腕時計に視線をやった。
「もう少し待ってもらっていいか?実は、もう一人来る予定のヤツがいるんだ」
「もう一人…?」
「柴田さんが、潤とはまた違う人を呼んでるの。さっきも言ったけど、現場の様子が異様で…とてもじゃないけどウチの鑑識じゃ手に負えないからって、連絡を取ってくれたのよ」
「異様な現場を背負えるような人がいるんですか」
想像できないらしく、潤は不思議そうに首を傾げる。鑑識ですら手が出ない現場に太刀打ち出来るとは、一体どんな人物なのか。
すると、俄かにエントランスが騒がしくなった。潤がやってきた時とは異なり、明らかな困惑と好奇心が渦巻いていく。その元凶に気付いた柴田は苦笑いを浮かべ、遥香はぎょっとしたように目を丸くしていた。
潤はと言えば、己の視界が捉えたその『潔癖』の存在を網膜にしっかりと焼き付けていた。豪奢な屋敷の装飾と多数の捜査員が混沌の色を描く中、ほとんど色を持たない彼が、異彩を放っていたのである。
屋敷の周辺には、警察関係と思われる車両が何台も停められ、人々がせわしなく行き来している。九条は一瞬だけ眉を顰め、改めて手袋をきっちりと嵌め直した。
「…随分と人が多いな」
「まあ、被害者が有名人なんで仕方ないですよ。詳しいことは中で説明してもらいます…ドア開けますよ」
五味がドアを開け、九条はゆっくりと車を降りた。
途端に人々が放つ騒音や、薄汚れた外気が纏わりつき、激しい嫌悪感を覚える。マスクの下で深呼吸をし、なんとか動悸を鎮めた。
五味の案内で、規制線の向こう側へと足を踏み入れる。制服の警察官は五味を見て敬礼したものの、重々しい防護体勢の九条に目を白黒させている。周囲も異様な光景に気付いたらしく、徐々にざわつき始める。
しかし九条は気にすることもなく、五味の後ろをただ歩いていた。
屋敷内は、事件現場の独特な緊張感が全体を包んでいた。
屋敷の内装は、外観を裏切らず煌びやかで、数多の色と物が溢れていた。整理の概念を無視して配置された絵画、趣味の悪い調度品。
視覚的暴力とも言える色彩の氾濫に対し、九条のスマートグラスの自動減光フィルタが、即座に視界の彩度を落とした。
「神谷管理官、柴田警部。九条先生をお連れしました」
五味が声を掛けたのは、スーツを着た男女の二人組であった。
先ほど九条が電話で会話を交わした、神谷遥香と柴田元治である。
「よお九条、久しぶりだな。五味から話は聞いてるが…相変わらずみたいだな。こっちが先ほど電話をかけた、ハルちゃん…神谷管理官だ」
「神谷遥香です、よろしくお願いします」
遥香は警察手帳を見せ、顔を引き締めて九条に挨拶をする。電話で聞いていた声の通り、美しい顔立ちには聡明さが滲み出ている。しかし九条はいつもと変わらぬ無表情で、一歩だけ下がって遥香を一瞥した。
わずかに鼻腔をくすぐる、上質な練香の微かな残り香。格式高い名家特有の『匂いのノイズ』をスキャンし、九条の眉間がミリ単位で狭まる。
「…九条蓮だ」
「五味さんや柴田さんからお話は伺っています。警視庁の鑑識課におられたそうですね」
「昔の話は関係ない、私にとってはただの過去の記録に過ぎない」
九条はそう口にするものの、それを聞いていた周囲の人間のノイズが更に大きくなった。特に鑑識たちは、遠巻きに九条の姿を観察していた。
『九条って…やっぱり前にウチにいた九条蓮か』
『えっ、誰ですか?』
『お前知らないのか!?あの伝説と言われてる天才だぞ!』
あちこちから聞こえてくるひそひそ声に、九条は嫌悪感を隠そうともせずに柴田を見る。
「…くだらない噂話をするとは、現場の集中力の欠如が著しい」
「そりゃあ、九条が来たとなればそうならずにはいられないだろ。…と、忘れないうちに」
柴田が首をひねり、軽く手招きをした。遥香のそばに立っていた男性が、こちらに歩み寄ってくる。
仕立ての良い高級スーツに、磨き上げられた革靴。さらりと揺れる黒髪に、中性的な整った顔立ち。目に凛とした光を湛えた、若い男性であった。
九条はその人物をまっすぐに見つめる。鋭い視線が、スマートグラスを通して彼を分析していた。
(……汚れがない。存在が『潔癖』そのものだ)
彼を見た潤は、息を呑みながら内心呟く。
足元まで届きそうなロングコートに、真っ白な手袋。顔には重装備のグラスとマスクをしており、肌の露出はほとんどないものの、恐ろしく肌が白く線が細い。
そして何より、潤が感じたのは、彼の全身から放たれる『メスのようなオーラ』であった。不用意に近付けば、その切っ先が肌に食い込むような、冷たく鋭利な空気が彼の周囲に漂っている。
「九条先生、ご紹介します。同じく捜査に協力していただくことになる、宝条潤先生です」
遥香の紹介に、潤は一歩九条へ歩み寄る。九条の足が僅かに後ろへと下がったのを、潤は見逃さなかった。
「潤、こちらは九条蓮先生。元々警視庁の鑑識をされていて、今回協力してもらうことになったの」
「初めまして、宝条潤です。よろしくお願いします」
潤はすっと手を差し出し、握手を促そうとした。
しかし、九条はその掌を見つめるだけで、自身の手を伸ばそうとはしなかった。
「…握手などという行為は、私の中に存在しない。例え手袋越しでも、他人に触れるなどという接触行為は耐え難いものでしかないんだ」
九条の言葉に、遥香や柴田だけでなく周囲がざわついた。五味が慌てて九条に耳打ちする。
「先生、さすがに手袋したままでも握手くらいした方がいいですよ。相手が誰だかわかってるんですか」
「宝条潤――推理小説家であり、宝条グループの総帥だろう。先ほど既に高速検索済みだ」
「潤のことをご存知なんですか?」
遥香が少し声を弾ませる。幼馴染として、自分を知っていると聞いて誇らしく思ったのだろう。
だが、九条の声は相変わらず冷徹だった。
「データとして私の目録に残っているだけだ。彼がそのような人物だからといって、接触をしなければいけない論理的理由はない。それとも、その行為が『整理』に影響するとでも宣うんじゃないだろうな」
九条の言葉に五味はあたふたしているものの、当の潤は怒りどころか少し興味すら覚えた。
若くして総帥という立場になり、加えて天才推理小説家と呼ばれる彼にとって、それらを完全に無視して接してくる人物は九条が初めてであった。
潤は首を横に振り、頭を下げた。
「五味さん、でしたか。僕は構いません。こちらこそ、事情も知らないのに失礼しました。改めて…よろしくお願いします、九条先生」
「…少しは話が理解できるようだ」
九条のオーラに、ほんの僅かに緩みが見えた。
潤の眼前の男は、ただの潔癖の変人ではない。世界のすべてを数字と記号で切り裂こうとする、剥き出しの頭脳そのものだった。
二人の『天才』が、初めて共鳴した瞬間だった。
柴田の先導の元、潤と九条一行は邸宅の地下へ向かった。徐々に空気が重く冷たくなり、照明が暗くなっている。
「この先は、被害者がわざわざ作ったプライベート・ホールになってる。ここが事件現場で、遺体の発見現場で間違いない」
「プライベート・ホール…さすが『皇帝』天堂響一と言ったところか」
階段を下りきったところで、重厚な扉が現れた。当然のごとく完全防音仕様になっており、ホール内の音は一切聞こえてこない。
柴田に促され、九条がゆっくりと扉を押し開けた。
「……っ!」
途端に、九条は激しい眩暈と耳鳴りに襲われる。マスクの上から口元を押さえ、せり上がる吐き気をなんとか抑える。扉の取っ手を強く握りしめ、よろめきそうになった身体を支えた。
その光景は、嫌悪感と憎悪に満たされた、不協和音のオーケストラであった。
中央には、真っ赤なベルベッドに覆われた指揮台。その椅子に深く腰掛けているタキシード姿の男性は、まさしく『皇帝』・天堂響一であった。
だが唇から滴り落ちている血と、暗赤色に染め上げられた皮膚が、彼が既に絶命していることを物語っている。両手は宙で固定され、曲のクライマックスに指揮棒を振り終えたシーンのように見えた。但し肝心の指揮棒は握られておらず、指先はだらりと垂れ下がっていた。
更に彼の周囲の床には、何十枚、何百枚といった楽譜が、円を描くように散乱している。ミリ単位に並べられたそれらは、まるでオーケストラの配置を模しているようである。楽譜はどれもが真っ二つに引き裂かれ、無惨な紙へとなり果てていた。
黒光りの大理石が敷き詰められた足元に、滴った血液が点在している。更には、彼が愛用していた指揮棒が真ん中からへし折られ、『×』の字に交差して置かれていた。
九条の脳内で、激しい警告音が鳴り響いている。視覚や嗅覚から流れ込んでくるノイズの濁流に、全身が拒否反応を示していた。しかしそれは同時に、九条の感覚を激しく揺さぶる共鳴の証でもあった。
「ひどい現場ですよね…相手が指揮者だからってオーケストラに見立てなくてもいいのに」
「私もそう思います。どれほどの恨みがあってこんなことを」
「…君たちは本当にそう考えているのか。ひどいだの恨みだの、そんな非合理的な理由だけでこの光景が作り出されているとでも?」
「…そうではないんですか?」
「当然だ、一目見れば理解できる。これらには、すべてに意味が齎されている」
九条は改めてスマートグラスの出力を調整する。オーケストラを模したその墓標に、今一度軽い吐き気と眩暈を覚える。『灰の斑点』を数秒見つめ、静かに深呼吸をした。
九条の視線が、床に敷き詰められた楽譜へと移る。微動だにしない九条を不思議に思う周囲だったが、やがて口を開いた。
「…五味くん、これをすべて他の鑑識に回せ。散乱した楽譜の破断線をスキャンさせろ」
「紙の破れたところを確認しろってことですか?なんでまた」
「見てわからないのか?この楽譜は、ただ破断されているのではない」
九条のスマートグラスの網膜ディスプレイに、無数の楽譜の三次元エッジデータが並ぶ。破られた白地が、五線譜の特定の記号を一直線に貫いている。
「破断線すべてがGの音符の上を正確に通っている。これはミリ単位で計算された『譜面』の記述だ」
周囲がざわつく。あれほどの人数が現場を見ているのに、誰もそのことに気付いていなかった。九条はたった数秒眺めただけで、現場の違和感を狂いなく解析して見せたのだ。五味は慌てて鑑識を呼び寄せ、九条の指示通りに楽譜を回収させた。
潤は紙のそばに屈み込み、九条が指摘する破断線を見つめた。
「Gを通っているというのは、当然意味があるんでしょうね」
「そうでなければ、非効率的な作業を行う理由がない」
九条は天堂の遺体に歩み寄ると、ポケットから愛用しているピンセットを取り出した。彼の死臭とオールド・パルファムが混ざり合い、嗅覚をオーバーロードさせようと襲い掛かる。
頭痛に耐えながら、天堂の首元を覗き込んだ。ワイヤー状のものが深く皮膚に食い込み、威厳ある『皇帝』の顔に苦痛を貼り付けている。皮膚から剥がしとるように、ピンセットで慎重にそれを掴んだ。
「食い込むスチール弦の太さ、引張強度…これはオーケストラで使われるバイオリンの第4弦、G線だ」
「見ただけでわかるもんか?」
柴田が九条の手元を覗き込み、首をひねる。九条は顔を顰めたまま、柴田を呆れたように見る。
「その言葉の方が、私には理解しかねます。私が来るまでに、一通り鑑識が見ているんでしょう。報告を受けているはずですが」
「このワイヤーで殺されたことで間違いないだろう、とは聞いてるぞ」
「それではまともな検死とは言い難い。相変わらず杜撰なことだ」
九条が盛大な溜め息を吐く。楽譜を回収しようとしていた鑑識たちがびくりと肩を震わせた。
(…多分、この人が尋常じゃないだけだ。破り方を見抜いたり、凶器の正確な種類まで言い当てるなんて、この短時間では普通は不可能に近い。潔癖とか、そんな言葉じゃ言い表せないな)
辛辣な言葉を浴びせられる鑑識たちに同情しながらも、潤は九条の人となりを理解しつつあった。それと同時に、彼に更なる強い興味をそそられずにはいられなかった。
「九条先生、他にこれでわかることは?」
潤も柴田と同じように、九条のピンセットの先を注意深く見てみる。九条は潤に一瞬だけ視線を向け、ピンセットを掲げてみせた。
「弦の両端が、鋭利な刃物で切断されているな。そして、この肌への食い込みの深さが、相当に強い力で絞殺されていることを物語っている」
「…つまり、G線で天堂さんを殺すことに意味があったってことか」
潤の言葉に、九条がすっと目を細めた。それが九条なりの『賛辞』を意味することを、潤は知る由もない。
次に九条は、黒い大理石の床に視線を落とした。天堂から滴ったと思われる血が歪な模様を描き、『×』の指揮棒が無念そうに置かれている。
スマートグラスのピントを、床の血に合わせる。しかしまたしても、九条は目がくらむ感覚を覚えた。
「…不快だ」
「不快…?血が、ですか?」
「そうではない…これを見たまえ」
九条がピンセットで指し示した血の模様を、潤は注視する。指先でそれを辿ると、はっと目を見開いた。
「これは…」
「そう、第一節だ。これは偶然ではない、犯人は意図的にこれを演奏している」
潤は床に描かれた暗赤色の斑点を俯瞰し、脳内でひとつの不吉な旋律を再生させていた。
「……『G線上のアリア』。犯人はこの大理石を譜面に見立て、皇帝の血で、復讐の組曲の『最初の小節』を書き殴ったんだ」
「ちょ、ちょっと潤、九条先生」
焦った様子で遥香が二人に声をかける。二人は同時に振り向いた。
「こっちが全然ついていけないでしょ!わかるように説明してちょうだい」
「九条先生、俺らにもわかるようにしてくださいよ。宝条先生だから置いてけぼりにならないだけで、こっちはちんぷんかんぷんです」
遥香と五味が慌てて訴えかける。
九条は無表情のまま深いため息を吐き、潤は苦笑いを浮かべながらかがめていた腰を伸ばした。
「ごめんごめん、つい集中し過ぎた。九条先生の検分が興味深くて」
「…そんなことを言えるのは先生くらいだな」
柴田がやれやれといった様子で軽く肩を竦める。
九条も立ち上がり、清潔な新品のクロスでピンセットを拭き始めた。一定の方向に、一定の力で丁寧に磨いている。
(よほど大事なものかな)
潤がそんなことを考えていると、ホールに複数の足音が近づいてきた。警察関係者であろう数名のスーツ姿の男性が、こちらにやってくる。
「柴田警部、関係者に連絡が取れました。聴取の段取りを…あれ?」
最初に口を開いた男性が、九条の姿を見て驚きの表情を浮かべている。九条はその声に顔を上げ、男性の全身を一瞬で解析した。
『高速検索結果:整理番号113』
「…瀬尾くんか」
「もしかして…九条さん?」
瀬尾と呼ばれた男性は、呆気に取られたようにまばたきを繰り返している。
かつて鑑識課の『最高傑作』と呼ばれながらも、突然すべての記録を消去して去った男。その鋭利すぎる眼差しは、組織を離れてなお、全く錆びついていなかった。
柴田は何かを思い出したらしく「ああ」と声を上げる。
「確か、二人は同期だったな」
「はい、あんまり接点はないですけど…会うのも、九条さんが辞めて以来です」
「瀬尾さん、知り合い?ていうか、誰ですか?」
若い刑事たちが、瀬尾と九条を交互に見て首を傾げる。遠慮のない物言いに五味は冷や汗をかくが、九条は興味なさげにピンセットをしまいこんだ。
「無駄話に時間を割く趣味はない。検視結果は既に私の目録に保存されている、進めたいのだが」
「申し訳ありません、九条先生。潤も、こっちは気にせずに進めて」
遥香は男性たちを制し、九条と潤を促す。相変わらずだと潤は思いつつ、一つ咳ばらいをした。
「じゃあ、お言葉に甘えて。…九条先生の的確な検視で、はっきりとわかったことがあります」
潤の表情が引き締まる。九条は頭の中で目録を整理し、ゆっくりと目を閉じた。
「これは、始まりにすぎない…犯人は、まだ演奏を続けるつもりです」
第三話へ続く
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