宝条潤と九条蓮 推理の交錯 ―音楽家たちの連続殺人―:第一話【三年越しの不協和音】
雨が降っている。
部屋を満たす雨音は、普段なら安らぎをくれる心地よいものであったが、彼には自身を嘲笑するような雑音に聞こえていた。
ピアノの前に佇む彼は、顔に虚無を貼り付け、指先を鍵盤に置いている。しかし音楽を奏でることはなく、凍ったように動かない。
(……弾けない……)
心の中で呻くように呟き、きつく目を閉じる。滲んだ目尻から、一筋の涙がこぼれ落ち、白い鍵盤の上で歪な円を描いた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。自分はただ音楽を、ピアノを、純粋に愛していただけだった。それなのに。
(…俺の音楽は…死んでしまったも同然だ…)
本来楽譜が置かれるべきスペースには、一通の封筒が置かれている。
白く簡素なそれの表には、微かに震える字で『遺書』と書かれていた。
自分の様子を気にかけてくれた彼女の顔がまぶたの裏に浮かぶ。
自分と共に音楽とピアノを愛し、美しい音色と旋律を奏でる彼女。
(レイ…ごめん。俺は、もう耐えられない)
恋人の名前を静かに呼び、彼は鍵盤から手を離すと、ピアノの脇に置かれた冷たい刃物へとゆっくり手を伸ばした。
視界が真っ赤に染まる。
急激に体温が失われていく。
呼吸が徐々に奪われる。
白かった鍵盤が、彼の最後の絶唱のように赤く塗りつぶされていく。
彼の絶望を覆い隠すように、雨はますます激しくなっていた。
穏やかな日差しが差し込む午後。
煌びやかで豪華な屋敷のリビングに、宝条潤の姿はあった。
優雅にソファに腰掛け、コーヒーを飲みながら出来上がった原稿に目を通している。
だが、その空気をぶち壊すように、浮足立った騒々しい足音が一気に近づいてきた。
「兄貴!!」
バン、と蹴破らん勢いでドアが開き、原稿に集中していた潤は思わず声を上げる。
「うおっ!?びっくりした!」
転がるように飛び込んできたのは、潤の弟の一人であり、『三谷コーポレーション』の社長を務める三谷新太であった。嬉しくて仕方ないといった表情を浮かべている彼だったが、さすがに潤も苦言を呈する。
「お前…いくら兄貴の実家だからってせめてノックか挨拶くらいしろ!」
「いいじゃん別に、実家だし!そんなことより、これ見てくれよ!」
「そんなことよりって…」
潤はまだ何か言いたげだったが、新太が眼前に突き付けてきたそれに強制的に飲み込むことになる。彼が潤に見せつけてきたのは、エンボス加工で美しい装飾が施された高級感ある封筒だった。
「…手紙か何かか?」
「そう思うだろ?実はさ…見て驚けよ」
勿体ぶった言い方をしつつ、新太は慎重に中身を取り出した。彼の指先が持ち上げたのは、どうやらなにかのチケットのような薄い紙であった。まじまじと見つめた潤は、そこに書かれていた文字に目を丸くする。
「これって……音楽祭のチケットか?」
「そう、世界最高峰のクラシック音楽祭として名高い【ルクス国際音楽祭】の日本公演のチケットだ」
新太は興奮しきりな様子で、小脇に抱えていた冊子を意気揚々とテーブルに置いた。【ルクス国際音楽祭】と書かれたパンフレットで、これまたしっかりとした造りであることが表紙を見ても一目瞭然だった。
(……世界中のVIPが利権を争う、あの音楽祭か。久遠寺プロデューサーが日本誘致を推進したという噂は聞いていたが……まさか新太が手に入れるとはね)
「どうしたんだ、これ?確か抽選の倍率めちゃくちゃ高いんだろ」
「ああ。だけど俺、『三谷コーポレーション』の社長として招待されててさ。音楽に身を置いている自分としては、一回行ってみたかったんだよな。…で、もちろん自慢だけしに来た訳じゃない」
新太は得意げに胸を張り、満面の笑みを見せた。
「兄貴、よかったら一緒に行かね?ちゃんと枚数あるし」
「お、行く、絶対行く!」
当然のごとく潤は食いついた。
【ルクス国際音楽祭】と言えば、各界の著名人でもなかなかチケットが取れない音楽の祭典である。日本を代表する大企業【宝条グループ】の総帥である潤でさえ、今まで縁がなかったほどである。こんなチャンスを逃すわけにはいかない。
「よし、決まりだな!さっきパンフレット見てたんだけど、ホントすげー人たちばっかでさ」
新太はチケットをしまい、今度はテーブルの上のパンフレットをめくる。音楽祭に出演する音楽家たちの写真や経歴が、そこには記載されている。さすが世界最高峰と言われるだけあり、新太の言葉通り豪華な出演者ばかりである。
「どの人たちもすごいけど…俺はピアニストの如月レイに注目してる」
「如月レイか…俺とほぼ同年代だけど、世界的に有名なんだよな」
新太が指をさしたのは、見開きいっぱいに掲載されている黒髪の女性。シンプルながら美しいドレスに身を包み、ピアノの前に腰掛けている。静謐でどこか儚げな顔つきは、写真でも美しさが一目で伝わる。
「……やっぱり、美人だな」
潤がしみじみとつぶやいた、その瞬間――
「いででででででででっ!!!」
潤の耳が思い切り引っ張られる。新太が思わずぎょっとした顔を見せるが、その人物に「あ、」と声を漏らした。
潤の幼馴染の神谷遥香が、エプロン姿でいつのまにか潤の背後を取っていたのである。
耳を容赦なく引っ張ったまま、遥香は潤と新太の手元を覗き込んだ。
「ふうん、如月レイさん…確かにすごい美人ね」
「は、遥香!?ちょ、痛い痛い!!」
「潤ってほんと美人に弱いわよねぇ?」
「だ、だって実際美人じゃん!」
馬鹿正直に答える潤だったが、遥香の手が潤の耳を更に強く引っ張り上げた。潤の悲鳴がますます大きくなるものの、遥香は目だけが怒りを湛えている笑顔のままである。
「へぇ、美人なら誰にでもデレデレしていいとでも?」
(地雷を踏んだっていうか、自分から踏み抜いたっていうか…)
最早見慣れた光景ではあるのだが、遥香の形相と潤の悲鳴に、新太は肩を竦めた。
「――新太くん」
「は、はい!」
急に遥香の視線が自分を射抜いたため、新太は思わず背筋を伸ばした。遥香がにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「私も行っていいよね?」
「え!?い…いやそれは……」
「いいわよね?」
「……チケットあるんで大丈夫です」
有無を言わせぬ遥香の圧力に、新太もそう答えることしかできない。
遥香は満足そうに頷いて、ようやく潤の耳をぱっと離した。潤が呻きながら耳を押さえる。
「ありがとう、さすがは潤の弟くんね」
「理不尽だ……」
真っ赤になった耳をさすり、涙目で潤は呟く。遥香が無言で目配せすると「…なんでもないです」と首を振った。
一部始終を見終えた新太が、笑い声を上げて目を細める。
「相変わらず仲良いなあ、二人とも」
「仲良くなんてないわよ、だらしない潤を説教してるだけ」
「そうだよ、耳引っ張る幼馴染なんて普通いないだろ」
「それは潤が悪いんでしょう」
「ええ……」
潤は不服そうにするものの、遥香はどこか嬉しそうにしている。
宝条邸のリビングでは、こうしていつもと変わらぬ光景が繰り広げられていた。
テーブルの上に置かれた、【ルクス国際音楽祭】のパンフレット。
如月レイの写真には、そっと労わるように、控えめな文字が記載されている。
【特別追悼演奏 故・篠宮奏介】
その文字を目にした瞬間、潤の胸の奥で、まだ理由のつかない小さな旋律の狂いが、静かに鳴り響いたのだった。
数日後。
潤は新太と遥香を伴い、【ルクス国際音楽祭】のリハーサルが行われる会場を訪れていた。関係者席に案内され、今まさにリハーサルが行われているステージを眺めている。
さすがに世界の名立たる音楽家たちが揃っているだけあり、独特の緊張感が会場内に漂っていた。
ステージ中央には、ピアニストの如月レイがピアノの前に座っている。緩やかに垂れ下がる黒髪が、いっそう彼女を美しく見せていた。
細く繊細そうな指先が、滑らかに鍵盤を叩く。静かなピアノの旋律が、会場を一気に包み込んでいく。まるで空気が浄化されていくようで、潤は聴き惚れるようにシートに深く沈みこんだ。
(すごいな……音が『見える』みたいだ)
潤の隣に座っている新太も、うっとりとした表情で如月を見つめている。
「こんなきれいなピアノ演奏、初めて聴いたな」
「ああ…しかも、あの年齢で世界トップクラスだからな……」
感嘆の声を上げ、潤も如月の横顔に視線を移す。演奏前とは異なるその真剣な表情に、心を奪われずにはいられない。
「それにやっぱり――」
潤が思わずつぶやこうとして、ぞわりと何かが背筋を這い上がるような感覚を覚えた。潤の肩が跳ねる。
(…見るのが怖い…)
恐れ戦きながらも、潤はおそるおそる横目で隣のシートを見る。
そこには、約束通り潤と新太に連れられて来ていた遥香が座っている。顔も姿勢もステージ側を向いているが、明らかに瞳が潤の横顔を見つめている。
しかもそこに笑顔はなく、およそクラシック音楽を聴いているとは思えないほどの恐ろしい顔つきを浮かべていた。
「兄貴」
新太が潤の袖を引き、小声で囁いた。
「今くらい、音楽に集中した方がいい。振りだけでもいいから」
「ああ…そうする」
自分の精神状態のためにも、それが最善の策であることは身に染みている。
潤は自身の頬を軽くたたき、腕を組んで聞き漏らすまいと耳を傾ける姿勢を取った。遥香はふん、と鼻を鳴らし、再び視線をステージへと向けた。
すると――
(……あれ、止まった?)
ふっと演奏が消え、ステージはもちろん観客席にも静寂が下りた。指揮台に立っていた朝比奈響が、指揮棒を振る手を止めたのである。
「ヴァイオリン」
朝比奈の声が、静まり返った会場内に反響する。ヴァイオリンを演奏していた黒崎真音が、表情をこわばらせながら顔を上げた。
「第二小節、0.2秒遅れていた」
その言葉に、潤たちはもちろんステージ上の演奏者たちもざわついた声を上げた。黒崎は俯き、微かな声で言う。
「……すみません」
「もう一度、最初からいきます」
朝比奈は冷たく言い放ち、すっと指揮棒を掲げる。演奏者たちは一息吐いて、もう一度各々の楽器を構え直した。空気がぴんと張り詰める。
「全然気付かなかった…さすがは『神の耳』って呼ばれてるだけある」
「朝比奈さんも兄貴と同年代だろ?若いのにすごいよな」
「さっきの黒崎さんもだろ、俺より若いけど今注目らしいし」
「それでもちょっとミスるのか…こんだけ有名人がいたら、そりゃ緊張もするか」
ひそひそ声を交わしていると、ふと如月が顔を上げた。こちらの声はステージまで届いていないはずだが、その視線は確実に潤たちがいる関係者席に向けられていた。
一瞬だけ、如月と潤の視線が重なり合う。如月は何も言わない、唇を動かすこともない。
だが、ほんのわずかに、どこか興味を持ったような視線を潤へと向けていた。
(やばい…今、如月レイに見られた…!)
「潤」
舞い上がりそうになった潤だったが、氷のような声に一気に現実へと引き戻された。びく、とわかりやすいほどに潤が身を震わせる。
「は、遥香…?」
「よかったじゃない、如月レイさんに気付いてもらえて」
「そ、そんな喜んでないって…!」
(結局修羅場になるのか…)
再び演奏が開始される。楽器から奏でられる音が一つとなって、もう一度会場を包み始める。
しかしその裏で――
誰にも見えない『殺意』が、静かに動き始めていた。
リハーサル終了後。
演奏者たちが舞台袖へ下がり、ホールには余韻のように静かな空気が残っていた。
「リハーサルだったけど、鳥肌ものだった…本番はもっとすごいんだろうな」
「ええ、来た甲斐があったわ」
潤や新太はもちろん、お目付け役として来ていたはずの遥香も、興奮気味に会話を交わしている。
そこへ、一人の男が歩み寄ってきた。
華やかなスーツに身を包んだ、威厳ある雰囲気を纏った男性。
ルクス国際音楽祭総合プロデューサー・久遠寺雅臣その人である。
「これはこれは、宝条先生に三谷社長。本日はお越しいただきまして、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。改めまして、宝条潤です」
「三谷新太です、初めまして!」
潤は丁寧に頭を下げ、新太ははきはきと挨拶をする。久遠寺が満足そうに笑みを浮かべた。
「リハーサルはいかがでしたか?」
「とても素晴らしい演奏でした。弟に誘われた形でしたが、本番が楽しみです」
誰もいないステージを眺めながら、先ほどのリハーサルの光景を脳裏に思い浮かべる。その中央にいるのは、やはり美しきピアニストの姿だった。
「特に…如月レイさんの演奏に心惹かれました」
「そうでしょう、彼女のピアノは世界にも通用するものですから」
久遠寺は、まるで自分が褒められたかのように誇らしげな顔になる。潤の隣で聞いている遥香は、無言でそのやり取りを眺めていた。
久遠寺は、何かを思い出したかのように舞台袖に視線をやる。目的の人物を見つけると、軽く手招きをした。
「如月さん、こちらに」
気付いた如月が、ゆっくりと潤たちの方へやってきた。先ほどと同じ黒いドレス姿の如月が、そっと眼前で立ち止まった。その洗練された佇まいに、潤は思わず背筋を伸ばした。
「――宝条先生、初めまして。如月レイです」
「は、初めまして!」
顔や演奏だけでなく、その声までもが美しい。潤は思わず声を上ずらせる。
「宝条先生のお話は伺っています、お越しいただき光栄です」
「そんな…ありがとございます、嬉しいです」
潤の頬が一気に弛緩する。如月が微かに笑みを浮かべた。
「先ほどのリハーサル、素晴らしかったです。素敵な時間をありがとうございました。…な、新太?」
「ああ!生のピアノ演奏は迫力がありました!」
「ありがとうございます」
如月の声はどこまでも柔らかく、静かである。まるで彼女のピアノ演奏を体現しているかのようであり、いつまでも聞いていたいと思えるほどであった。
如月の目がすっと細くなる。
「……宝条先生は、音をよく聞いてくださるんですね」
「え?」
「演奏中、『音を見るような』目をしていましたから」
「そ、そうですか?自分では気づきませんでした」
潤は少し照れたようにはにかみ、頭をかく。
す、と潤の背後で動く気配があった。敏感に察した潤は、慌てて頬をいつもの位置に戻した。
遥香が、ごく自然な動作で潤の隣へ移動した。如月に向かって頭を下げる。
「如月さん、初めまして。警視庁の神谷遥香と申します」
「…え、警視庁…?」
如月が驚きの声を上げる。遥香はいたって真面目な表情で如月に話しかけた。
「如月さんのご活躍は伺っています」
「えっと、警察官なんですか?」
「あーっと…こいつは警視庁の警視でして……」
潤が慌ててフォローに入る。如月は困惑した様子もなく、ただ不思議そうに遥香を見ていた。
「僕の幼馴染なんです。今日はたまたま休みが一緒で、リハーサルを聴かせてもらってました」
「あら、そうだったんですね。神谷さんはじめまして、如月レイです」
少し驚きつつも、如月が改めて遥香にも挨拶をする。遥香は上品に微笑んだ。
「潤とは、お互い父同士が親友でして…その縁で、幼いころから一緒に遊んだ仲なんです」
言葉を聞くだけでは、ただ潤との関係を説明しているようにも見るだろう。
だが、いつもの様子を嫌でも知っている潤と新太は、遥香の魂胆に気付いていた。
(『幼馴染アピール』だな、これ……)
(完全に牽制してる……)
初対面の相手にも容赦がない。二人は震え上がる思いだったが、如月は当然そんな遥香の意思など知る由もなく、穏やかに笑っている。
「素敵なご関係ですね」
「ええ、ありがとうございます」
遥香も少し気持ちが落ち着いたらしく、表情を僅かに緩めた。
「潤も言っていましたが、とても素晴らしいピアノ演奏でした。本番も楽しみにしています」
「ありがとうございます」
どこもおかしくはない、普通の会話が続いている。しかしながら、潤はまるで生きた心地がしなかった。
「如月さん、次の打ち合わせお願いします!」
そんな潤に助け船を出すかの如く、スタッフが如月を呼んだ。如月はそちらに一瞬だけ視線を向けた後、再び頭を下げた。
「皆さん、私はこれで失礼します。…本番、楽しみにしていてください」
「は、はい!」
潤は食い気味に返事をする。如月は顔を上げると、ドレスの裾を翻して舞台袖へと歩いて行った。その背中を、潤はうっとりと見送る。
しかしながら、横で大きな咳払いが聞こえ、またしても表情を引き締めることになった。
「随分嬉しそうね」
「い、いや!?純粋に演奏家として尊敬してるだけで――」
「本当に?」
「…すいませんでした」
(兄貴、生存本能だけは高いな……)
騒がしい会話が交わされるのも聞かず、久遠寺は立ち去ろうとする如月の背中を見つめていた。
その視線には、どこか不穏な色が宿っていた。
その時、如月と入れ替わるようにして、一人の女性が潤たちに歩み寄ってくるのが見えた。
如月とは異なる、華やかなドレスに、圧倒的な存在感を放つ女性。ぴんと伸びた背筋は、彼女のプライドの高さを象徴しているようにも見えた。
「あら、いいわねレイ」
そこまで大きくはない声であったが、その言葉は潤たちにも届くほど通るものであった。しかもどこか棘があるようで、潤たちも思わず口を噤む。
「美玲さん、いいとはどういう意味ですか?」
「宝条グループの総帥で、有名な作家の宝条先生に声をかけてもらえるなんて…ずいぶん楽しそうだったじゃない」
女性は如月の前に立ち、覗き込むようにしてその瞳を見る。
声と同じく、その視線はどこか冷たく、攻撃性を含んでいるようにも思えた。
「あの人は確か……ソプラノ歌手の天音美玲か」
「世界的に有名な人だよな、俺も知ってる」
「でもあの二人……何か様子が変ね。仲がよさそうには見えないわ」
それには潤も同意だった。二人の女性の間には、圧倒的な隔たりがあるように思えてならない。如月はまだしも、天音は明らかに敵意があるような雰囲気を醸し出していた。
「相変わらずね。男に媚を売るのは得意みたい」
その刺々しい言葉には、単なるライバル関係を超えた、粘着質でドロドロした情念のノイズがこびりついていた。
「……先ほどから何が言いたいんですか」
「別に、何もないわよ」
天音はわざとらしく肩をすくめた。
「ただ、また同じことにならないといいわねって」
天音がその言葉を発したその瞬間。
周囲の空気が一気に凍り付いた。
(今の言葉…『また』ってどういう意味だ……?)
潤が天音の言葉を反芻していると、
「天音さん、やめてください!」
指揮者の朝比奈が、大きな声を上げて空気を打ち破った。
天音が眉を寄せてそちらを振り向く。
「あら、なあに朝比奈くん」
「なにじゃないでしょう、こんな場所でやめてください」
「あなたもこいつに味方するの?」
「味方も敵もありません!」
朝比奈ははっきりと強い口調で言う。先ほどの冷静な指揮者とは思えない、感情を高ぶらせた様子で天音に詰め寄った。
「あなたもわかってるはずでしょう。如月さんは…愛する彼を亡くして、三年経ってやっと……」
如月の髪が微かに揺れた。背を向けられている潤たちに、その表情は見えない。
(愛する彼……?)
朝比奈の言葉に、天音もさすがに唇をきつく結んで黙り込んだ。
重く曇天のような空気が、辺りに漂っている。
「……もういいの、朝比奈くん」
口を開いたのは如月だった。首を横に振り、ほんの少しだけドレスを軽く握りしめている。
「ですが――」
「彼のことは関係ないわ」
穏やかに言う如月に、朝比奈もかける言葉がないらしく、その場で呆然と立ち尽くす。如月はそれ以上語ることはなく、「失礼します」と言って、舞台袖の奥へ去っていった。
残された美玲は、悔しそうに拳を握り締めていた。
「…天音さん」
「…うるさい、ほっといてちょうだい」
天音はいつものソプラノではない低い声で吐き捨て、如月とは反対方向へ歩き去った。
潤は如月の背中をじっと見つめていた。
(三年前…愛する彼…如月さんに、何があったんだろう)
張り詰めた緊張感の中、思い出したように朝比奈が潤たちへ向き直る。
「皆さん、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。」
「いえ、僕たちは大丈夫です。…それより」
潤は天音の苛立たしげな足音を聞きながら、神妙な面持ちで朝比奈に尋ねる。
「天音さんは、如月さんに対していつも当たりが強いんですか?」
朝比奈はさっと表情を曇らせながら、小さく頷いた。
「天音さん、どういう訳か以前から如月さんを敵視してて……でも、その理由が誰にもわからないんです」
「理由がわからない?」
朝比奈がため息混じりに肩を落とす。どうやら、その関係にかなり辟易しているようだった。
「共演のたびに空気が悪くなるんです。ただ、如月さんは基本的に誰とも揉めない人なので……余計に不自然で」
「なんだそれ…ちょっと怖いな」
新太はげっそりした様子で言うが、潤は黙って考え込む。天音が如月を見る、あの怒りを含んだ棘のある視線。
(やはりただのライバル意識、って感じじゃなかったな。そもそも、ピアニストと歌手だし。それに朝比奈さんが言う通り、如月さんは揉め事を起こすようなタイプじゃないように見える)
しばらく考えた後、潤は思い出したように顔を上げた。手にしていた【ルクス国際音楽祭】のパンフレットを開く。
めくったのは、如月の見開きページだった。傍らには、控えめに綴られた【特別追悼演奏 故・篠宮奏介】の文字。
「矢継ぎ早に聞いて申し訳ありませんが…先ほどのお話で出てきた如月さんの彼って、この篠宮奏介さんという方ですか?」
その文字を見た朝比奈は、一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに視線を逸らすように目を伏せた。
「…宝条先生の言う通りです。この公演の開催日――奏介の、命日なんですよ」
命日。
その言葉に、潤たちは顔を引き攣らせた。
朝比奈は天井を仰ぎ、懐かしむように語り出す。
「あいつとは、親友でした。学生時代から、ずっと音楽について語り合った仲です。奏介は、本当に素晴らしいピアニストでした。才能だけじゃない…あいつは、誰より音楽を愛していた」
潤たちは口を開かず、朝比奈の話に聞き入る。彼の表情に影が宿り、握りしめた拳が僅かに震えた。
「でも三年前……あいつは、自殺しました。自宅で…遺書を残して…」
潤の眉が微かに動いた。新太と遥香も息をのむ。
朝比奈の瞳が、涙で滲んだようにも見えた。
「その…奏介の遺体を、最初に見つけたのが……」
朝比奈の視線が、ゆっくりと舞台袖へと向けられる。
その先には、スタッフに呼ばれたはずの如月が一人立っていた。こちらに背を向けたまま、髪の毛一つも動かない。
「……ほかでもない、如月さんだったんです」
「……!」
潤たちは硬直する。聞いてはいけないようなことを耳にしたような、重苦しさに包まれる。
如月はやはり何も言わず、再び舞台袖の奥へと歩みを進めた。
その背中は、世界的ピアニストとは思えないほど、孤独に見えた。
豪華なソファが並ぶVIP用控室では、三人の男性が顔を突き合わせていた。
ルクス国際音楽祭総合プロデューサー・久遠寺雅臣。
著名な調律師・茂呂敬四郎。
そして世界的指揮者である『皇帝』・天堂響一。
久遠寺は無表情を装い、茂呂は憮然とした態度を隠そうともしない。
唯一天堂だけは、どこか沈痛な面持ちを浮かべていた。
「……なあ」
沈黙を破ったのは天堂だった。久遠寺と茂呂が同時に天堂を見る。
「何だ」
「やっぱり…名乗り出ないか。篠宮くんのことを」
『篠宮』という名前に、久遠寺の表情が明らかに険しくなる。
「今更何を言っているんだ?彼は自殺だったじゃないか」
「そうだ、それにもう三年も前のことだろう?」
茂呂が同調するように言う。まるで思い出したくもないと言いたげに、こんこんとソファの肘置きを叩いた。
しかしながら、天堂はそれでも苦しそうな表情を見せる。
「だがな…正直、彼には言い過ぎたと後悔しているんだ。コンクール前も厳しく叱責してしまった。才能が足りないだの、精神が弱いだの……今思えば、追い詰めていたのかもしれん」
「おい、天堂」
「もし我々が――」
ドン、と久遠寺が思い切りテーブルを叩いた。天堂が呼応するように唇を結ぶ。
「今更、名乗り出たところで何になる?我々だって、まさか彼が自殺するなどと思っていなかった…そうだろう」
「久遠寺の言う通りだ。厳しい指導など音楽界では珍しくもない、彼が勝手に思い詰めただけだ」
茂呂も久遠寺に負けじと声を張り上げる。こちらは先ほどよりも一層怒りを露わにしていた。天堂は何も言えず、二人を見つめる。
「今更、過去の事件を掘り返すな。篠宮奏介は自殺だった…警察もそう結論付けている」
「…しかし、我々がその一端を担ったことに間違いはないだろう」
天堂の顔には後悔が滲んでいた。
しかし久遠寺と茂呂は、冷たい言葉を上塗りしていく。
「忘れろ、ルクス国際音楽祭に傷をつけるわけにはいかない。たかが一人のピアニストの自殺だ、追悼公演が終われば誰もが忘れているはずだ」
「そうだ、もう終わった話だ。蒸し返す必要はない」
久遠寺と茂呂に切り捨てられ、天堂は完全に言葉を失った。膝の上で拳を握りしめたまま、俯く顔を上げることが出来なかった。
VIP控室の外。
(終わった話……?)
ドアを挟んだ廊下に、その人物は立ち尽くしていた。
洩れ聞こえる三人の会話を耳にし、爪が手のひらに食い込むほどに力を込めていた。
その瞳には、激しい怒りの炎と、絶え間ない哀しみの渦が混在していた。
(……許さない。彼の命を『たかが一人のピアニスト』と切り捨てたあんたたちを、絶対に許さない。始まりの音は……Gだ)
踵を返し、その場を立ち去る。
控室の中の三人は、己の罪を振り払うことに精いっぱいで、その存在に誰も気づいていなかった。
三年の時を経て、憎しみの旋律と共に、事件が再び動き出そうとしていた。
第二話へ続く
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