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障害受容について、今思うこと──「もう大丈夫」と「やっぱり苦しい」のあいだで

「分かってほしい」と思う一方で、「分かったような顔をしないでほしい」とも思ってしまう。

受け入れられたと思う日もあれば、どうしようもなく引き戻される日もある。

障害受容について学ぶと、ショックや悲しみ、混乱を経て、少しずつ受け入れていくプロセスが語られることがあります。

そうした考え方は、多くの人の経験を理解するための大切な手がかりです。

私自身も、「そうやって人々は乗り越えてきたんだ」という励みを受け取り、自分自身を奮い立たせてきたように感じます。

障害受容という考え方は、人生を少し離れたところから眺める「鳥の目」のような視点を与えてくれると感じます。

今感じている苦しさも、
揺れも、長い人生の流れの中のひとつ。
そう思うことで、救われる瞬間もあります。

けれど私たちは、実際には「虫の目」で
日々を生きているなと感じます。

今日の不安。
今日の悲しさ。
今日の怒り。
今日の揺れ。

その只中にいるときは、
人生全体を見渡す余裕など正直、ありません。

今日は、
そんな「虫の目」から見えている景色に
ついて、書いてみたいと思います。

実際の日々の気持ちは、そんなにきれいに整理できない


「もう大丈夫かもしれない」と思った翌日に、
「やっぱり苦しい」と感じる。

「分かってほしい」と思う一方で、
「分かったような顔をしないでほしい」とも思ってしまう。

受け入れられたと思う日もあれば、
どうしようもなく引き戻される日もある。

日々、何かが起きるたびに、
心は大きく揺れていました。

学校のこと。将来のこと。
周囲の何気ない言葉。

子どもの成長をふと感じる瞬間も揺れの一つ。

そのたびに安心したり、不安になったり、
前を向けたと思った翌日にまた立ち止まったり。

その揺れを「なくさなければいけないもの」だと思っていたころがありました。

ちゃんと受容できた親になろう。
もっと前向きになろう。

そうやって自分を律しようとするほど、
心の揺れはかえって大きくなっていきました。

揺れがなくなるわけではない

いま振り返ると、その揺れや矛盾は、
受容できていないことが理由ではないと、
今ではわかります。
でも、当時は、必死。

次男との日々も、そうでした。

毎朝、布団のなかにいる次男に、
「いってきます」と声をかけるのは、私の方でした。

無理にでも起こして学校へ行かせるべきだ、
という母親の役割と、

今は起こさなくても、
給食の時間には間に合うように、
毎日きっと自分で起きて登校する——
その次男を信じる気持ち。

その二つが、毎朝、私のなかでせめぎ合っていました。

何とか理解しよう、乗り越えようと考えていた理屈が、少しずつ吹き飛んでいったのです。

人は、全てを理解できたから安心するわけではない。正しい答えが見つかったから前に進めるわけでもない。

整理できない気持ち。
矛盾する感情。
言葉にならない思い。

そうした割り切れないものを抱えながら、
それでも日々を生きていく。
そのこと自体が、人が生きるということなのかもしれないなと思います。

気持ちを急いで整理したり、
意味づけたり、
正しい物語にまとめたり。
そうすることをやめたころ、
私はとても楽になりました。

あの毎朝のせめぎあいは、いつのまにか終わっていました。

高校の入学式を境に、次男は自分で起きて、始業に間に合うように登校しています。

あのころ、答えは出ていませんでした。

それでも、日々は続いていて、気づけば、次男は次男のペースで歩きはじめていた。

ただまずは、気持ちをそのまま置いておける「場」を大切にしたい。
アートの時間は、何かを「分かる」ための時間というより、まだ言葉になっていないものと、しばらく一緒に居るための時間。


✳︎

気持ちを急いで整理することをやめた話は、
以前こちらに書きました。


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