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【続き】自分に降りかかった出来事と回復に至るまで②【中卒で働く、定時制高校入学から卒業まで】

こちらの続きになります。


中卒で働くということ、パニック発作の発症、北海道への転勤


高校に行くことができず、家にもいる事が出来ないため私はアルバイトを探して毎日秋田市内に電車で通いました。

私が当事住んでいた場所は本当に過疎地で仕事がほとんどなく、また田舎なのでどこの家庭の話も筒抜けでプライバシーの無さに辟易していた為、電車で片道1時間以上かけて秋田駅周辺で中卒でも出来るバイトを探していました。

面接時、どこでも『なぜ高校に行かないのですか?』と聞かれる事が本当に辛かったです。
中卒という事で落とされる事も多かった。
高校に行けるなら行っている。行きたいに決まっている。受験にも合格している。

初めて受かったバイト先はケーキ屋さんで、見た目は可愛いお店ですが、中では職人さんがその場で商品を作るので厳しい言葉が飛び交う職場でした。

けれど、厳しい言葉の中には家庭でのような暴言ではなく、仕事をきちんと教える、という気持ちが届いていたので苦ではありませんでした。中卒の私を雇ってくれたこのお店にも今でも感謝しています。
段々と、早く仕事を覚えてお金を貯めて家を出ようと考えるようになりました。

帰り道、まっすぐ家に帰りたくないし(信者と暴力が待っているしご飯もない)本来なら通えるはずだった美術高校が気になって何度か見に行った事がありました。

美術高校の柵の前でずっと校舎を眺めていました。
何を習っているんだろう。
ガラス工芸も気になる。
大学のアトリエも使えるから…

色々考えて、ただ虚しくなって信者だらけの自分の居場所のない家に戻りました。

相変わらず離人症は酷く、音も遠くにしか聞こえず、生きている実感もなく、ただ家から出たい一心で遠くまでアルバイトに通いました。

同級生は高校生活が楽しそうに見えました。
羨ましかった。
けれど羨んだ所で私は高校生にはなれない。
だから早く貯金して家を出る事だけを考えて生きていました。

ある日、いつも通り電車に乗っていると、突然呼吸が出来なくなりました。
手が震えて呼吸がうまく出来なくて、冷や汗がだらだら流れて、過呼吸のせいで手が痺れて変な方向へ曲がってしまい、気分が悪くて、怖くて、本当に死んでしまうかと思いました。いわゆるパニック発作でした。

その日以降、電車にうまく乗れなくなりました。
電車に乗ろうとすると同じような過呼吸発作が起きるようになりました。
でもバイトに行きたい。家にいたら危ない。
焦れば焦るほど恐怖心と不安感が酷くなり、私は全く電車に乗る事が出来なくなりました。

田舎は交通手段のほとんどを車に依存する状態です。電車に乗れなければ車でしか移動する手段がありません。

15歳、免許はありません。

こうして私はケーキ屋さんでのバイトを辞める事になりました。

学校に行けず、バイトもできずに家に1人でいると気が狂いそうでした。
いつ親が攻撃してくるかわからないし、働かないと食べ物がない。動かない頭で、近くでいいから仕事を探そうと思い、なんとかファミレスのバイトに受かって仕事を始めました。

そこではとことん私が『中卒である』ということを馬鹿にされ続けました。
従業員の女性たちの顔は今でも忘れられません。
歳の離れた15歳の私に『お箸の数え方ってわかる〜??』『中卒だもんね〜?』と毎日、毎日馬鹿にされました。

私はなんとかお金を稼ぎたかったのである時期まで我慢していたのですが、これまでの人生でも生まれてからずっと、ずっと、凡ゆる我慢をしていたのである日全ての怒りの感情が爆発しました。

ある日の仕事中、いつも通り暇人の従業員の女が私を馬鹿にしてきた時、理性では怒りを止められなくて『うるせぇ!!黙れ!』と怒鳴りました。
手元に持っていたグラスも投げつけて割って帰りました。

その後店の支配人に『お前の中学校からは2度とアルバイトをとらない』と言われましたが勝手にしろと思いました。言葉に出していたかもしれません。
一生懸命働く人を見下して馬鹿にする方がどうかしている。

我慢できなかった自分が悪いのか?とも考えましたが、もうこれ以上我慢したら相手を殴ってしまいそうな怒りを感じていたので辞めました。この頃から私の中にある怒りの感情が自分でコントロール出来なくなるような恐怖心を感じていました。

こうしてまた仕事をなくした私はただ部屋に引きこもって過ごしました。
リウマチも、パニック発作も、離人症も酷くなっても親が病院に行かせてくれない以上、自分がお金を稼いで病院に行くしかない。
でもうまくやれない自分に私はどんどん自信を失ってゆきました。

そんな折、また父の転勤の話がきました。次は北海道です。
何もかもどうでも良くなっていた私は抵抗する理由もなく、ただ北海道についていくことにしました。

定時制高校に入学。学費・医療費・上京資金の確保とカウンセリングの開始


北海道に引っ越す時ですら、私と両親はバラバラで現地に向かいました。両親はフェリーで、私はなけなしの貯金をはたいて飛行機で引越し先の最寄駅に向かい合流しました。

そんなに共にいるのが嫌ならば、なぜ私を高校の寮に入れて放置してくれないのか。暴言を投げるくせに私を手放してもくれない。私はあなたたちのおもちゃでも道具でもない。1人の人間だ。
両親の異常な執着を感じました。

北海道の千歳市に引っ越し、私は早速近所のスーパーの面接を受け、バイトを始めました。

ここでも例外なく、『なぜ高校に行かないのですか?』と聞かれました。
何回も聞かれる同じ質問にどこにも吐き出せない怒りが込み上げてきました。
行きたいに決まっているだろ!!!

面接官が悪いわけではないので、怒りを感じてもどこに出せばいいのか、出せる場所もなく、私の中にどんどんと積もっていきました。

私の親族はほとんど同じカルトに依存していましたが、唯一、親族の中で祖母だけは立派な人格で私は幼い時から優しい祖母が大好きでした。
私の事を唯一可愛がってくれて、唯一、私を人間扱いしてくれた人でした。

転勤族だったので、祖父母の家に行くことは限られており、小学生、中学生の夏休みや冬休みに時々会えるような距離感でした。

祖父母の家にいる時だけは安心を感じられました。母も暴力を振るえない。祖母が私を守ってくれるから。
夏休みも冬休みも毎年行けるわけではないので、おばあちゃんに会える日は本当に心から嬉しくて、おばあちゃんとおじいちゃんの間で寝る時だけが本当に幸せな時間でした。
休みが終わるのはあっという間で、帰りの車の中で大泣きした記憶があります。

泣くと母親がキレるのでなるべく感情を出さないように生きてきましたが、その時は今離れたら2度とおばあちゃんに会えなくなるような気がして、すごく悲しくて泣きながら帰路に着きました。
家に帰ったら地獄が待っている。
ずっとおばあちゃんの家にいたい。

でもおばあちゃんが大好きだから心配をかけたくない。家庭のことは何も話せませんでした。

中卒で働くようになり、秋田から北海道に住む私宛てに祖母から手紙が届くようになりました。
祖母はリウマチで手が強張っているので、ペンを握るのも大変だったと思います。とても頑張って書いてくれた手紙だとすぐわかりました。

手紙には『〇〇ちゃん、元気で過ごしていますか?大変だと思うけれど、きっと高校は出た方がいいと思います。無理はしないでね。応援しています』との旨が書かれていました。

涙が沢山出てきました。
祖母だけは、私の心配をしてくれている。
それに私も高校は卒業したい。
馬鹿にされる毎日にもうウンザリしていました。

祖母の暖かい、何通にも渡る手紙のやりとりからまた『私を信じてくれる人がいる!ここで諦めてたまるか!』と決心し北海道へ引っ越した翌年の春、定時制高校に入学しました。

私が働いて学費を払えるのは定時制しか当時選択肢はなく、日中働いて夕方から夜学校で4年間学び高校を卒業する。その間に上京資金を貯めて卒業したら即逃げる、と入学時に決めました。

私は自分でいうのもなんですが忍耐力と目標に対する努力は継続できる方でした。ただ、ストレスからリウマチが悪化しており、そのほかにもストレスから様々な心身症を患っていました。

その中で毎日8時間働くのは本当にしんどく、そこから学校に通うというのを4年間続けると思うと気が遠くなりました。

けれど当時の自分はこうでもしないと高卒資格が取れないし、家からも出られないと思い必死でしがみつく毎日でした。

仕事自体は好きで苦ではないのですが、とにかく全身が痛い。稼いだお金も学費とリウマチの治療費に消えていく。

同時に私はメンタルの異常も自覚があったので早めに治療した方が良いと思い、働き出してからすぐ近くのメンタルクリニックにも通い出しました。
16歳。初めてメンタルクリニックという場所に行きました。

自立支援医療』という制度を知りました。
初めてのクリニックでは良い院長先生に当たり、私は現状の辛さを話しました。
呼吸がうまくできないこと(パニック発作)
現実感がないままな事(離人症)
親のことは全く話しませんでした。
話せないとか、話したくないとかではなく、
なぜか当時はそれが原因でこれらの症状が起きているという実感が全くなかったからです。

初めて抗不安薬を処方されて飲み出しました。
初めて飲む時、やはり抵抗がありました。けれど飲まないと仕事に行けない。
パニック発作がひどい時には頓服薬を飲み仕事をして学校に通いました。

こうして祖母の気持ちを心の支えに、絶対に高校を卒業して家を出てやると決めて定時制高校生活はスタートしました。


定時制2年目。全日制への羨ましさと良い先生・クラスメイトとの出会い。再度母に殺されかける。


定時制高校は初めの一年目が一番辛く(辞める人も一年目が多数)2年目になるともうすぐ半分だ(4年間で卒業)という気持ちが湧いてきました。

とはいえ、入学当初は全日制の生徒をとても羨ましく思っていました。

普通に親に学費を出してもらえる子供たち。
学校で勉強して、放課後バイトをしたらそれは自分のお小遣いになる人間たち。恵まれている人たち。そしてそれらの自覚がない人たち。

定時制の私たちは全日制の一年生のクラスを利用します。
全日制の生徒が帰ってからクラスに入れるのです。だから定時制の時間になってもまだクラスに残っている生徒がワイワイしていると私はとめど無い苛々が溢れてきて、椅子を蹴飛ばす事もありました。仕事が終わって疲れてるんだ。座りたい。

お前らって恵まれてる。
その自覚がないって最悪。
早く帰れ。

と当時の自分は思っていました。
けれど相手も16歳です。自覚がなくて当然なのです。
そして彼ら彼女たちが悪いわけではない事も重々承知でした。

ただあまりに差があって、それをダイレクトにすれ違いざまに感じてしまって、苛々が止まらない時期がありました。

お前らは生まれてから雪を喰らってでも生きてきたことがあるのか?無いだろ。
リウマチが痛くて足を引き摺りながら、なぜ私は必死で働いているんだろう。
悔しくて学校に行く前に泣くだけ泣いてから向かう日もありました。

けれど、この定時制高校の先生たちが本当に人間性が素晴らしい先生たちばかりだったのと、クラスメイトも同じような家庭環境や複雑な事情を抱えていた生徒が多かったので、私は初めて苦労を共感してくれる人たちと対等な関係で話す事ができました。

仕事を終えて授業前に学食を食べる私

何度振り返っても、良い先生たちとの出会いとクラスメイトとの交友関係なしに私はこの4年間をやり遂げられなかったと思います。
また、秋田県に引っ越した際に出来た友人の存在も大きく、距離は離れていても心の大きな支えとなっていました。

今でも仲の良い先生や先輩、旧友と連絡が取れることは本当に恵まれていると思います。
改めてありがとうございます。
(そして当時驚かせてしまった全日制の生徒さん、本当にごめんなさい)


こうして辛い日々ではあるものの、なんとか先生やクラスメイトのおかげで働き、治療し、学校に行くという生活を続けてきました。

そんなある日、あまりにリウマチが痛く歩けなくなり、私は母親の運転する車の後部座席に座っていました。

その日の母は朝からぶつぶつ独り言を言っていてかなり不安定な様子で嫌な予感しかしませんでした。
刺激しないように何も喋らずに静かに座席に座っていたところ、突然『お前と一緒に死んでやる!!』と叫びながら遮断機の降りた踏切に車ごと突っ込んだのです。

私は母親の異変を感じて様子を見ていたので、びっくりしましたが咄嗟に運転席にいる母を窓側に打ちつけてハンドルを握り、線路と水平になるように曲がり、ハンドブレーキを強く引きました。

16歳でした。厳密に言えばもうすぐ17歳。まだ免許は持っていませんでした。
この時ばかりはああもう死ぬわと思いました。
同時に私は『死ぬならお前が勝手に死ね!』と叫んでいました。(言葉が悪くてすみません。そうでもしないと生きて来れなかったのです)

こんなのありえない。なんなんだこの人は。この人が病気なんだ。なのにこの人が頑なに『私は病気じゃ無い!』と自分の状態を認めず、治療をしないせいで私が精神疾患に罹患している。ふざけるな。
この日から動悸が頻繁に起こるようになりました。全く気が休まらない。怖い。早く逃げたい。本気で殺される。

その後身体は限界を超えていましたが、すぐに自分で免許を取得しました。しかもわざわざマニュアルで取りました。何かあった時のためにと、この頃から先の先の先を考えて生きるようになりました。


今振り返ると信じられないのですが、8時間働いて、夕方から夜に学校で授業を受け、その隙間でリウマチの治療とメンタルクリニック、カウンセリングを受け、同時に苦手だけど今後私がやりたい仕事で必ず必要になるであろう英語の塾に通っていました。

私はとにかく学びに飢えていて、定時制では本当に最低限の事しか学べなかった為、せめて語学くらいはきちんと取得したいと思い英語塾にまで通っていました。(ちょっと本当にどうかしてる。今の自分なら無理し過ぎなので止めてる)

同時に睡眠時間を削ってでも(というか安心して眠れない為)常に読書をして過ごしていました。凡ゆるジャンルを読み続けました。
私は知識が欲しかった。
親は何も教えないどころか私から全てを奪っていく。
身体はリウマチでうまく動かせない。
ならば今後は頭脳で戦ってやるという気持ちでした。


宗教の試験と県の幹部との話し合い


はちゃめちゃな家庭環境と仕事と病気の治療と学業を続けるだけでも精一杯な中、両親のカルトへのはまり具合はさらに増し、毎日『なぜお前は信仰をしないのか。バチが当たる。題目(読経)をあげろ!』と本当に気が狂うほど言われ続けて考えたのは『お前も受けろ』と言われていた宗教の試験でした。

試験内容は御書の知識など筆記試験で、もともとそんな物を受けるつもりは皆無だったのですが、幼い頃から毎日両親に『この宗教が正しくて、他は全て間違いだ』と言われ続けて育った私は心のどこかで(私は間違っていないよね?)と不安を抱えたまま生きていました。けれど何度考えても私には宗教の必要性を感じなかったため、また、不安を払拭するには一度きちんと学ぶことできちんと否定も出来るだろうと考え、この無茶苦茶忙しい中で宗教の試験勉強までしてやりました(怒)ええ、そして合格してやりました(怒りの上から目線←)

そして改めて『なんだこれは。やっぱり私には全く必要がないじゃないか』と自信を持って言えるようになりました。(宗教の否定はしておりません。あくまでしたい方がすれば良く、したくない人に無理矢理押し付けるのをやめてくれという主旨です)

そうして試験に合格した上で『自分には必要を感じないのでしません。』と父に話すと怒りを買ったのでしょう、当時の宗教の県のトップ幹部にまで会う羽目になりました。

県の幹部男性と私の年齢差ってどのくらいだったんだろう。
よくこんな高校生相手に無理矢理丸め込もうとするな、とよりこの宗教(カルト)の異常性を痛感した出来事でした。

最愛の祖母の死と上京


こうしてなんとか私は高校4年生になりました。
この頃には先生や仲の良いクラスメイトの他、好きなバンドがきっかけで色々なことが話せる友人も出来、精神も肉体もギリギリではあるものの、周りの人たちに感謝の気持ちもありました。

また、もうすぐ高校を卒業できる時期になり、私はいの一番に卒業証書を祖母に見せに行こうと誇らしい気持ちでいました。

一番に、『おばあちゃんのおかげで高校卒業できたよ!』と伝えたかったのです。
そしておばあちゃんの笑顔が見たかったのです。
私頑張ったよ、と伝えたかったのです。
何よりただおばあちゃんに会いたい。

4年間頑張ってなんとか上京資金も貯まっており、上京するのは卒業式が終わったその日にすると決めました。
学校から空港が近いので時間的に可能でした。
前もって東京に行き、格安アパートの内見をして契約もしてきました。
卒業式には普通親や父兄が参加しますが、私は長いこと私の話を聞いて支えてもらっていた友人に卒業式を見てもらいたく、担任の先生にその許可も得ていました。

全てがああ、ここまで本当によくやった!という晴れ晴れとした気持ちで溢れていました。

そんな卒業間近の1月。
祖母の状態が良く無いことがわかりました。
すぐに飛行機で秋田まで飛び、祖母の入院する病院に行きました。

病室に入ると小さなおばあちゃんがベッドに寝ていました。
おばあちゃんは看護師さんにも、体調が悪くても、誰に対しても笑顔で丁寧でした。
私の大好きなおばあちゃんがそこにいました。
おばあちゃんの癌は全身に広がっているようでした。

私は何も出来なくて、何も言えなくて、気持ちはいっぱいここにあるのに何も言葉に出来なくて、やっとのことで『私もうすぐ20歳になるよ。おばあちゃんのおかげで高校卒業できるよ』と伝えました。


数日秋田の病院にいましたが、ずっといるわけにも行かず北海道に帰った翌日、祖母が亡くなったと連絡が来ました。

なんで。
なんで今?

どうして成人式まで待っててくれなかったの。
せめて卒業証書を見て欲しかった。
親族で唯一の大切な人が死んでしまった。
どうして?どうして?

今振り返ると、おばあちゃんはなんとかここまで必死で生きてくれていたのだなと思います。
ただ当時の私は大好きな人を亡くして、本当に生きる意味がわからなくなりました。ずっとずっと涙が止まりませんでした。


そうして友人が父兄の席から見守る中、私は卒業式を迎え、その日飛行機に乗り上京しました。

わざわざ北海道まで来て卒業式を見てくれた友人
なんとか4年間やり遂げた


【続きます】

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さちんぬ 大人になった虐待サバイバーの大変さや虐待後遺症について、また認知度向上の活動に使用させていただきます。宜しければ応援お願い致します!