【小説】霖雨の果てへ②
あれから一年が過ぎた。
今年の梅雨は少し肌寒く、晴れる日はほとんど無い。
梅雨だから当たり前だと言えるが、晴れないと洗濯や布団を思うように干せないから困る。そして、束の間の晴れが訪れると、ここぞとばかりに洗濯をしては干すということを繰り返し、それだけで一日の大半がつぶれてしまう日もあった。
毎日、こなす家事。
世の多くの人たちがどれだけ家事に苦心しているかは、実際にやらないと分かりはしないだろう。
私がこなす家事は大まかに分けると、洗濯、掃除、食事の準備云々があるが、一番大変さを感じるのは食事の準備だ。
食事は大前提として、生きるため毎日欠かせない。
これが例えば、一人暮らしとなれば時と場合によって、一食抜くことや適当に済ませることもあるだろうし、そこはかなり自由が利く。
だが、実家暮らしとなるとそうもいかない。
野菜をちゃんと摂った方が良いとか、栄養面のバランスの考慮を迫られる。また、母は喉の筋肉が衰えていて誤嚥を防ぐために、どの食材、どの料理、どの切り方じゃないと駄目か、ということも気を付けなければならない。
毎日のことだから、何を作ろうかと大いに悩むのも問題だ。何が食べたいかと一応聞くが、十中八九当てにはならない。出来合い物を買ってくる時もあるが、地元の惣菜は値段が高い割にあまり美味しくなく、私は結局毎日のように料理を作らざるを得なかった。
そして、食事時。
もはや私自身の食事は作業化してしまっている。
単に空腹を満たすためだけの行為となっており、母に食事をさせる時間が遅くならないよう自分は早食いをする。時間をかけて作ったものが一瞬で無くなる切なさが何ともやりきれないが、そうして私の食後はひたすら料理を母の口に運び、喉を詰まらせないか見守ったりしている。それでも、よく母は苦しそうに咳き込んだ。
最近は固形物を食べるのがもう難しくなってきて、ミキサーで細かくしたり、介護用ムース食などを活用している。
それでも夕食を三時間近くかけて食べ終わるのは大体二十二時頃になってしまっていた。そしてこの長丁場の代償に、スプーンやフォークを持ち続ける私の右手と腕が、腱鞘炎のような痛みに苛まれることもよくあることだった。
どれだけ疲れていても、どれだけ体調が悪くても、家事と介護をやらなければならない辛さ。
誰も代わりがいない辛さ。
そして、母は要介護5の認定を受けている。
それだけ介護の負担も重くなっていた。
だが、母を施設に入れることは勿論だが、在宅介護ヘルパーの時間や行動範囲を広げることもできない。これも金銭的な問題と介護保険制度の問題がある。
私が頑張りさえすれば生活が回っていくこの状況。
逆に言えば頑張らないと回っていかないこの状況。
そして極めつけ、私は大学を卒業してから外で働いていない。
毎日、母とこの家にかかりっきり。
私の自由を犠牲する代わりに、不運にも難病を被った母のこのまま家で暮らしたいというせめてもの望みを守るということである。
以前、母の病を知っている数少ない知人に「巴美ちゃん無理しちゃだめよ」「何かあれば言ってね」と言われたことがあった。私はその都度「ありがとうございます」と笑顔で嘘をついていた。
無理しないで生きていけるものか。
どの人もそれとなく同じ決まり文句を口にするが、そんな言葉を口にしても何も変わらない。何も変わらないのだ。
私以外に代わりはいない。
そんな言葉を軽々しく口にするあなたにできることは何もないのだとなぜ分からないのか!
それに、本当に心の底からの言葉というわけでもないだろう。
どうせ誰もが自分のことで精一杯で、所詮、他人は他人なのだ。誰かがどこかで苦しんでいたとしても、ほどよく無関心。結局は自分が一番大事。それが今の世の中だと私は思っていた。
その中でも、親戚に関してはもっと惨たる他人であった。母方の祖父母はもう亡くなっていたが、母には妹がいる。だが、母の病気を知っていながら、何もあちら側から関わってこない。連絡もない。それ程遠くに住んでいる訳でもないのに、様子も見に来ない。血の繋がる姉妹であっても関係ないのだろう。もともと親戚との関わりは薄い方であったが、こうも頼りにならないのかと憤りを超えて失望したものだ。
家事と介護に追われる日々。一日一日生きることで精一杯だった。
もう誰かに嘘をつき続けるのも、笑顔でいるのも疲れた。
誰とも関わりたくない。面倒臭い。
そうなると家の中だけが私の世界になっていく。
そしていつの間にか、私は何にも興味がなくなった。
かつて、私が大学一年だった夏頃。
まだ母が何とか一人で行動できていた時、私は海外に興味があり短期留学でドイツへ一人で渡航したことがあった。
それがまるで夢であったかのようだ。
初めてのことばかりでものすごく緊張したが、何事もやればできるのだと自信がついたのを覚えている。
もう今となっては、その行動力も意欲も興味すらも全て消えてしまった。
私の中には何もない「無」の状態。
あれから、母の病も着々と進行している。
少し前までできていたことが、できなくなっていく。
もう既に舌の筋肉が衰え、母が話す言葉を私たちは明瞭に聞き取れなくなっていた。立ち上がること、移動すること、手足を自在に動かすこと、ありとあらゆる一挙一動が母にとっては困難になっていた。そうなると、母ができなくなった分、私の助けが必要になってくる。
一つひとつ母が「これして」「あれして」と私を呼びつける度、ほとほと嫌気が差す。そして、私はそのストレスからよく母に当たるようになっていった。
「……オモ、……トォモ」
母が呼んでいる。もう名前すらも呼んで欲しくない。私は聞こえないふりをした。
ピンポーン
母の為に設置した呼び出し音が家中に鳴り響く。この音も大嫌いだ。聞いただけで気が滅入ってしまう。私の脳の中で、この呼び出し音がそのまま「嫌悪」に繋がる回路ができてしまっているようだった。
「なに」
私は少し苛立ち気味に答えながら、母のもとに向かう。母は何か言っているが、それが分からない。
「なに。何言ってるの。待って、全然分からない。もっとゆっくりはっきり喋って」
母は、今度は一音一音ゆっくり喋り、何度目かでやっと私は何とか内容を理解した。
どうやら、窓を開けて欲しいのと、テレビのチャンネルを変えて欲しいということであった。
「あー、はいはい」
このような些細なことで私は苛立ってしまう。そもそも、基本的に面倒臭がりな私の性格が、いちいち細かい要望に応えることに向いていない。それが毎日、数えきれないほどあるのだ。
しかし気持ちを落ち着けて考えてみれば、母の体が不自由なことも、言葉が聞き取れないことも、動きが遅いことも全部母のせいではないと分かっている。
母が患っている難病のせいであるというのに。
それが分かっていても、どうしても苛立つ心を抑えきれない。母に対して冷たくしてしまう。
私のこの冷たい態度を知り合いや友達が見たら心底驚くだろう。普段から猫被っている私は、笑顔で朗らかな雰囲気を全面的に出しているからだ。外面が良いのは自分でも承知の上だ。
そのような感じで、最近、母とよく言い争いになることが多くなった。言い争うと言っても、母は上手く話せないため私が一方的に文句を捲し立てるのである。酷い時はそれで母が声を荒げながら泣くこともあったが、私が冷淡に接してしまう点については特に何も言わなかった。
そしてその一方で、私が何か母の頼みをこなした後に何かもごもごと言葉を発しているのをたまあに聞くことがあった。
けれど私はその言葉をただ聞き流していた。
その言葉に何も感じない自分がいた。
これまでの長い間にどんどん私の中の何かが削られていって、それだけ私には体も心も余裕がなく、ただ本当に、本当に疲れていた。
辛い、きつい、辛い、きつい、辛いきつい辛いきつい辛いきつい……。
黒く、溶けることのないものが一片、また一片と舞い落ちてくるようだ。
そして、それは紛れもなく私に降り積もってきた。
介護が始まった時から、些細なこともそうじゃないことも、大学でのことも家のことも、ある時も、またある時も、それは今まで絶えず降り続いてきた。もう既に体が埋もれて動くことはできない。
私には成す術が無いのだから。
♦
ある日の晩。
父は仕事から帰宅すると、いつものように酒を飲んでいた。
本人曰く、人生において酒しか楽しみが無いらしい。
休日は、私が家事をやっている傍ら、朝から酒を開けては鼾をかいて寝て、起きてはまた酒を開けるという過ごし方をしていて私はほとほと嫌気が差していたし、父はアルコール依存症なのではと疑う時もあった。
家事と介護に休みは無い。
うちの家計は経済的に厳しく、父には生活費を稼いでもらわないといけない。それは分かっているが私は朝起きてから夜寝るまで、家事と介護に明け暮れている。まとまった休む時間もあまりないのだ。
生活費を稼がないといけない父と、家事と介護に明け暮れる私、どちらがきついのだろう?
私は就職ができなかった現実と劣等感を背負いながら、毎日毎日生きている。思いっきり心の底から叫んで何もかも壊してしまいたい衝動に駆られながら。
何回も聞こえてくる酒の缶を開ける音に吐き気がする。その父の行為にも父自身にも私は耐え難いストレスを感じ、この世から酒なんて消えてしまえと酷い不快感を覚えるほどだ。
ただ、そんな酒に頼るしかない父に家事を無理に手伝って欲しいとは言えないまでも、私の家事に対し父が文句を言うのは許せなかった。
その日も疲れ果てていた父が、仕事が原因か、偶々苛ついていたようだった。私は自分の部屋にいたのだが、父がリビングで食べていた夕飯に対し、文句をぶつぶつ言っているのが聞こえてきた。私はそれだけでも、腸が煮え繰り返るようであったが、父はその後、見事にほとんどの夕飯を食べずにテーブルの上に残したまま、部屋へ寝に行ったのだ。
私はリビングへ行きその残されたおかずを見た瞬間、私の中で溜まりに溜まった何かが大きく爆ぜた。
頭が何か得体のしれないエネルギーでカーっと熱くなり、今までの人生の中で一番の「殺意」というものが生まれた。悔しくて悔しくて、その場から動けない。一瞬で怒りに全てが支配された。
しばらくした後、私は母の痰の吸引に欠かせない吸引器の溜まった汚水を廃棄するため、トイレに捨てに行った。そして戻った時に母に何とも言い難い感情の矛先を向けていた。
「ねぇ、もう夕飯作らなくていい?」
そんなことできるはずもないのに私は訊く。
「こんなに毎日頑張ってるのに、なんで文句言われなきゃならないの。毎日毎日家にいて、私が好きでこんなことしてると思ってんの!もう何もかも全部嫌なんだよ!ふざけんなよ!」
私はすごい険相で母に怒りをぶちまける。
「何でこんな生活しなきゃならないの。私のこと誰も分かってくれやしない!」
感情が止まらないのが自分でも分かる。鋭い矛先で人の心を切りつけることを止められない。
「何でなんだよ……。何でこんな病気になったんだよ!何でもっと違う、治る病気じゃないんだよ!」
私は咄嗟に近くにあったティッシュケースを母に投げつけようとして大きく振りかぶった。そして、一瞬止まり、そのまま床に強く叩きつけた。
母は泣いていた。
母も何か言っているが、やはり分からない。そもそも私は、母の言葉を聞こうとすらしていなかった。
私も堰を切ったかのように、怒りや悲しみが溢れ出て涙が止まらなかった。
泣いて。泣いて。胸が痛すぎて。
そしてそのうち苦しくなって、息ができなくなった。
拳で胸を強く叩く。
涙は止まってくれない。私のその様子に母はなにか言葉を発していたが私はしばらく嗚咽しながら胸を叩き続けた後、ゆっくりと立ち上がり、外へと出ていった。
私は家を出た後、暗闇に紛れながらふらふらと十五分程歩いたところにある、近くの川岸に来ていた。
川岸の周囲は土手になっているため街灯があるわけではなく夜になると暗闇そのものだ。人が通っても顔はよく見えない。そのおかげもあって、今までも私はよくこの闇の中を好んで歩いていたことがあった。ひたすら土手に沿って歩き続けた後、川岸のすぐ傍まで近づいて行った。
イネ科の植物が群生していて、そこを踏み分けていく。すると、似通ったごつごつしている大きい岩が敷き詰められた所に出た。
すぐそこは川だ。
足の踏み場にしてはなかなか不安定な岩の上を、岩と岩の隙間に足が落ちないよう気をつけながら川に近づいて行った。二十二時を回っていたため当然暗くて危なっかしいが、私はがむしゃらだった。少ししてからやや平らな岩の上で立ち止まり、明るい月に照らされた黒い川を見ていた。
川の生臭い匂い。遠くで鉄橋を渡る電車の音が聞こえる。ここはとても静かだった。ただ一人の空間と時間。今の私が手にできる小さな小さな自由だ。でもこんな自由は望んでいない。家を出た時に流れていた涙は、既に引いていた。怒りの感情は少し治まってきていたが、代わりにそれ以上とも言える悲しみが押し寄せてきた。
何で私はこうなんだろう。
どうしてこうなったんだろう。どこかで何か間違えてしまったのか?
みんなと同じように生きられない。
当たり前に就職して、お金稼いで、友達や恋人とどこか出掛けたり、旅行とかも行ったりして。一人暮らしだって……。
どこでどうやって生きるにしろ、自由だ。どこまでも、自由。
それが叶えられない自分。
何のために今まで真面目に頑張ってきたのか。いい成績までとって大学に進学し、学んできたのか。将来を見据えていたのに結局全て意味が無いことだった。
例えば、これがもし自分が男だったら。家の状況がどうあっても就職しようとしたかもしれない。現代社会において男も女も平等に働けることが望まれてはいるけど、自分が女だから家事や介護をするルートに流されてしまったのではないか。もっと自分にできることがあったのではないか。そう考えてしまう。
就職していないことが、劣等感をもたらす。
社会に出られていない自分を晒したくない。私も案外、母と同じでプライドが高いのかもしれない。そしてそれを誰かに相談をすることもできない。
人に対しても自分の人生に対しても絶望していた。
人生に価値はなく、あるとしたら孤独と絶望のみ。
誰が想像できるのか。この苦しみを。
もう限界だ……。
誰か。
誰か助けて。
私は心の中で必死に叫んでいた。でも、誰かが助けてくれるはずもない。誰にもどうにもできない問題。それが現実だと重々分かっている。それでも私は、長い長い間、ずっと切実だった。
川はとても静かに揺らめいている。時折、風が波を岩場まで運んでくるが、暗く黒い川はただ私の目の前に横たわり、全てを受け入れてくれるようだった。
自分の中の虚無感が川と同調していく。
何より私は、自分も憎かった。
理性が働けば、あの言葉も病気の母に対して投げつけていいものではないことは分かる。母の方が自分より何倍も辛いはずだと。いきなり難病に罹って、治療薬もなく完治することもない。成す術なく段々と体が動かなくなっていくのだ。
意識がはっきりしているだけに残酷すぎる病。
どんな思いで毎日生きているのか。どんなにそれが恐ろしいことなのか。
病気の宣告を受けてから日々の生活の中で、母の暗く辛い様子を私は間近で見てきた。
まだ初期段階だった頃は見た目が普通なだけに周りから病気だと認識されず、一人でバスに乗り込む時に転んでも誰も助けてくれなかったと話していた。また、ただ道を歩いていただけで派手に転び、白いズボンに血と汚れがついた状態で帰って来た時もあった。
その時、母は泣いていた。
その姿を見た私も一緒に泣いた。
他にも恥ずかしい、悔しい思いもたくさんしてきただろう。
私は母を慰めるのに必死だった。
母に当たるのは明らかに間違っていたことは認める。ただ、私は自分でもどうしようもなく抑えられない憤りの衝動に駆られてしまったのだ。刃を向けられずにはいられなかった。相手が傷つくことをわざと言う時もある。体を強く揺さぶって殴ってしまいたい時もある。
私は母を可哀そうだと、精神的に支えなくてはと思っていても、日々目の前のことに忙殺される中で複雑な感情を抱えきれなくなっていた。
介護する身になって初めて介護殺人が他人事ではなくなった。
介護で行き詰まるということは、自分が自分でいられなくなることであり、それは人間の理性を失い自分が何をしてしまうのか予測不可能になることでもある。それがニュースで流れると人はその表面的な問題だけで判断し、殺された人に対しては可哀そうだ、殺した人に対してはなんてひどいことを、地獄に落ちろ、などとありきたりな言葉を投げかける。殺人は永遠に正当化されることはないが、そんな単純な話ではない。実際にこの状況にならないと、多くの人は想像し難く何言っても分からないだろう。
私は介護の辛さとともに、言葉で母を切りつけ傷つけたこの先も消えないその事実を背負いながら生きなければならない。
もう疲れた。もう何もしたくない。
消えたい。ただただ消えたい。
この水の中に入っていけば死ねるのだろうか。
今ここで死んでもいいんじゃないかと思う。だって別に生きていても意味ないから。
この川は昔の時代からここにあって、きっと色んな人がこの川で死んでいったんだろうと想像する。それが自分の意志でもそうでなくとも。
この時、そうぼんやりと自分の「死」だけを私は考えていた。
そこにある川をただ見つめながら。
どのくらい時間が経ったのだろう。
結局その先に進むことができなかった。
携帯電話のライトが点滅している。中を開いて画面を見ると着信が何件も入っていた。母からだ。母は話すことはまともにできないが辛うじて電話の発信ボタンを押すことができる。手は病気の影響で震えて動きが定まらないため、着信履歴から何とかかけてきたのだろう。
時刻は二十三時を過ぎていた。
私は、他にどこにも行く当てがない自分が一層悔しく惨めだった。家に戻りたくない気持ちが大きいが、ここにずっと居るわけにもいかない。身を切る思いで、しゃがんでいた重い腰を上げて帰路に就いた。
私が帰宅すると、母はしかめっ面で「遅い」と言わんばかりの表情をして何か言っていた。父の方は私が家を出た時と全く変わらず、やはり鼾をかいて部屋で寝ている。父は一切気付いていない。私は何も言わずに食器を洗いに台所へ行き、片付けを始めた。
♦
いつしか、「死」というものが自分の身近に色濃く存在し始めていた。そして、手を伸ばせばそれは容易く為せると思っていた。
夕飯を作っている時。
手に持っていた包丁をじっと見る。そして包丁を首に当ててみる。ただ当てても何も起こらない。少し強めに押し当てたが同じだった。もっと強く押してみる。そして力一杯押しても首は切れず、不思議と痛みもあまり感じなかった。普段研いでいない切れ味の悪い包丁ではダメだった。皮膚ですら傷つけられない。覚悟もないくせに死ねるわけないだろうと私の耳元で誰かが嘲笑う。確かに、こんな包丁を首に押し当てるだけの行為は茶番にすぎない。
でも、一瞬。
ほんの一瞬だけ、包丁を首に当てた時自分が自分でないような感覚があった。
何かに体が突き動かされているような感覚だった。
もう既に思考は停止し勝手に体が動いてしまうようで、そしてあっという間に「死」への引き金を引く。私はこの時、そんな妙な感覚を少しだが思い知った。自分で自分のことが分からない。
唯一分かるのは生きることがこれほど苦しいということ。
子どもの頃は何も知らなかった。
当たり前のように、当たり前の生活が送れることや、平凡ながらも楽しかった日々。
もうあの頃は遠い遠い過去で、それは母が病気になってから変わっていった。
気付けばいつも暗闇の中。心の底から何かを楽しむことができない。楽しいという感情が湧かない。どんどん無気力になっていく。
自由が欲しい。
生まれ変わりたい。
全て忘れてしまいたい。
いっそのこと今までの自分の人生、今まで出会ってきた人たち、何もかもリセットしたい。その方が気楽だから。今の自分を誰かに知られたくない。
家族も存在するだけ面倒だからいらない。一人で十分だ。
六月中旬。
今日の雨はいつもより強い。風も吹いて、窓に叩きつける雨音が響く。
そんな日に限って家に食材が無かった。この雨の中買い物に行くとか最悪の極みだが、無いものは無いのだからもう腹を括るしかない。
母はベッドに横たわりながらテレビを見ている。私は、横目にそれを見やって家を出た。
店までは自転車で行く。
家の近くにコンビニはあるが、あいにく食材を買い込めるようなスーパーは無く、駅の近くまで自転車を走らせなければならない。これがとても面倒であった。帰りは荷物が多くなるし、距離があるとなれば雨が降ってようが自転車で行く他なかった。
本当に最悪だ。
昨日行っておけば良かったと後悔した。
レインコートは一応着ているが、この雨ではあまり意味を成さない。顔もだいぶ濡れている。目が雨水で滲んでいた。
昨日は魚を食べたから、今日は肉にするか。
明日と明後日の分も買っておくとして、とりあえずいつものように野菜を多めに買わないと。それでもある程度、何の料理を作るか考えておいた方がいいかもしれない。店で悩むのも面倒だ。
そう私は自転車を漕ぎながら取り留めも無いことを考えていた。
雨は一向に弱まる気配は無い。躊躇なく私や自転車に叩きつく。もはや私は雨に濡れることを気にも留めなかった。上の空で漕ぎ続けた。
そんな中、向かいから車が何台も立て続けに走ってきて、視界が悪くても避けることはできていたのに信号の無い小さな交差点に差し掛かった時、横から出てきた自転車が気付いた時には既に真横に迫っていた。
私はとっさに左へ方向転換をしたが間に合わずに、交通標識のポールに思い切り衝突し、自転車ごと倒れた。
かなり大きい音を立てて倒れたにもかかわらず、相手の自転車は少し私の方を振り返っただけでそのまま過ぎ去ってしまった。
相手が走って来た道路の一時停止線を一瞬見やる。
雨で打ち付けられている地面に手を着き、その横で車輪がカタカタと無様な音を鳴り響かせていた。
「……」
私は体をゆっくり動かし、右足を見る。痛みが一番強く、案の定擦り傷から血が出ていた。そこに雨がしきりに当たって汚く流れていく。
「……」
何とかゆっくり立ち上がって倒れた自転車を直そうと手を掛けた時、背後から声がした。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
振り向くと、小柄なおじいさんが立っていた。見たところかなり高齢の人で、顔を思い切りしわくちゃにして心配そうな面立ちで私を見ている。私はその人に声を掛けられて我に返ったようだった。
「……はい。大丈夫です」
なんとか声を振り絞った。
「こりゃ、事故じゃないのかい。あの男もすぐに行っちまって、普通止まるだろうが」
おじいさんは自転車が走り去った方を見てぶつぶつ言っていた。
私は一刻も早くここから立ち去りたい一心で、自転車を立て直し跨った。
「すみません、ありがとうございます」
そう小さい声で言ったあと、すぐに走り出した。背後から「あ」というしわがれた声がした気がしたが、もう私の中では恥ずかしさとやるせなさで胸がいっぱいで、足の痛みも気にする間もなく自転車をこぎ続けた。こんな思いしてまでスーパーに夕飯の買い出しに行かなきゃならないのか。
誰もやってくれない。私しかいない。
おかしくなりそうだ。
ずっと五体満足に生きてきていたのに、死のうかと考えても、死ぬことなんてできなかった私だが、いざ怪我をすると体の痛みに加え心が苦しい。
そうしてまた、死にたいと思う。その繰り返しだ。
あれから数日。私は足の傷とともに日常を淡々と生き、相変わらず母に苛立ちながら介護をしている。
口に入れさせた食べ物も長い間含ませておきながら終いには吐き出す母。
飲み物の方がさらに厄介でスムーズに嚥下できずに思い切り噴き出し、噴き出したものが目の前のテーブル、母の服や横にいる私にも掛かって気が滅入る。
尿道カテーテルを普段からいれていても残尿感からかトイレに頻繁に行きたがる。行っても何も出るわけではないのに。トイレに連れていくことがどれだけ大変か。力を使うのは全て私なのだ。
昔からあった肩こりはますます酷くなり、首や腰にまで痛みが出てきた。中でも腰の痛みは受け入れがたかった。この歳で腰痛持ちにはなりたくないからだ。
介護をする中で怪我をすることも多い。車いすやベッド、家のどこかしらに体をぶつけ、よく痣ができた。単に私の力が足りなかった。あと部屋も狭かった。
そんなこんなで一日は消え去っていく。若者の貴重な時間が消えていく。
何も知らない人は私に、「若いうちにたくさんやりたいことやって、経験積んだ方がいいよ。もったいないよ」と言う。
また、母の知人で病気のことを知っている人でさえも、私に笑顔で接しながら腫物に触らないよう母の話題を避け、「巴美ちゃん、もう社会人でしょ?どこで働いてるの?」と聞いてくる。
私は受け流せられない。いちいち傷つく。腹が立つ。
「……死んでくれんかな」
最近、全てに嫌気が差した時、こう思うようになっていた。
私はここまで来てしまったのだ。
この、病気は進んでいる。だが、一気に進むわけではない。
いつまで続く?いつまで付き合わなければいけない?
ある日、訪問看護師に言われたことがある。
「本人は長く生きたいと思っているみたいだし、母親としてこの先も家族を見守っていきたい気持ちはあるでしょう?だから何とか頑張って医療の方も手を尽くした方がいいと思うんですよね」
今後の延命治療における方向性についての話だった。
私は違和感を覚えた。
家族を見守る?
介護と家事しかしていない私の何を見守るというのか。看護師は私のことなど何も考えちゃいない。当たり前だ。看護師は患者が第一だから。
だが、こっちの気持ちを考えないその言葉に強い憤りが溢れて来る。介護者はロボットじゃない。あたかも人間長生きした方が幸せでしょうと決めつけているが、代わりに私の人生、貴重な時間が失われていることまで考えが及んでいないのか。それとも家族が介護することが当たり前だと心の底から思っているのか。
なぜこんなにも私が傷つかなくてはならない。
なぜ、周りに一人も理解者がいない。
私だって好きで苛立っているわけじゃない。好きで母の死を望んでいるわけじゃない。昔は私ももっと笑っていたはずなのに。自分の気持ち、心の在り様、感情をどこに持っていけばいいか分からない。誰にもぶつけられない。ぶつけても意味がない。それら全て含めて苦しいのだ。
ずっと降り続く黒いもの。
何も見えない暗闇の中で、私はか細く息をしているようだった。
