【小説】霖雨の果てへ⑧
「あれ?巴美ちゃん?」
空が薄明るく、もう少しで黄や橙が消えかかろうとしていた時間帯。
百円ショップで買い物を済ませた後、前方から歩いて来た女性とすれ違う瞬間、その人が急に声を掛けてきた。
私は最初ビクッとしてその人の顔を見るとどことなく見覚えがある人相であることに気付いた。
だが、名前が分からない。
反応に困っていると、眉を下げて笑いながらその人は言葉を続けた。
「巴美ちゃんかなって思ったんだけど、やっぱりそうよね!ほら、巴美ちゃんのお母さん、陽子ちゃんの先輩の小高って覚えてる?」
私は「小高」という名に覚えはなかったが、母親の「先輩」というワードに反応した。
「あ、あ~、母の……」
適当に場を取り繕って凌ごうとしたが、大した言葉は出てこない。
「そうそう!巴美ちゃんがまだ中学生かな?その頃以来だと思うんだけど。随分前にうちが引っ越しちゃったからさ!今ちょっと実家の方に帰ってるんだけどね。陽子ちゃんは?元気?」
私はこう聞いてくるだろうと分かっていた。
今までもその返答に困ってきた面倒臭い質問。話が長くならないように適当に答えた。
「えっと、ちょっと今体調悪くして入院してるんですけど。まあ何とかやってます」
「あら、そうなの!大丈夫かしら。心配ねぇ……」
その人、小高の中で「陽子ちゃん」はてっきり変わらず元気にやっているのだと思っていたのかもしれないが、意外な返答に急に戸惑っているように私は感じ取った。
「うちはね、今おばあちゃんがもうだいぶ高齢だから、老人ホームに入るってことになって。その準備で色々とあるから私が帰ってきてるんだけど。陽子ちゃんどうしてるかなって少し気になってたから、残念ねぇ」
「そうですか。母にも伝えておきます」
そう笑顔で言って早く小高と別れたかった。
「ありがとう、よろしく伝えておいてね。アキさんにも!」
その言葉を聞いた瞬間、私は固まった。
「あ、あの、祖母は、もう……、亡くなってます」
「え?アキさんが?」
「はい、何年か前に……」
「本当に?ごめんなさい!そうだったのねぇ。そっか……、アキさんが」
小高は慌てて申し訳なさそうにしながらこの日で一番であろう悲しい顔をしていた。私は表情の変化が激しい人だと心の中で思うと同時に、その所作を見続けていると少しずつ昔会った時のことも思い出してきた。
確かその時も同じことを思ったに違いないと、私は確信する。
「アキさんのこと、本当にごめんなさいね。こっちに全然帰ってなかったから……。うちのおばあちゃんも言ってくれれば良かったのに」
少し呆れたような声を出して、小高は頭を掻く。
「小高さん家のおばあさん、うちの祖母と知り合いなんですか?」
「知り合いっていうか、同郷なのよ。うちのおばあちゃんとアキさん。私の母親なんだけどね。昔ね、若い頃同じタイミングでこっちに移って来たっていうからもう付き合い長いと思うけど」
私は驚いた。
自分の祖母に親しい人がいないとずっと思ってきたからだ。
その「おばあちゃん」とやらとどれ程親しかったのかは分からないが、祖母と同郷の人が近くにいるとは初耳だった。
これはタイムリーかもしれない。
祖母の昔の情報を手に入れるまたとない機会に思えてならない。
「あの、うちの祖母のことなんですけど。私、祖母の若い頃の話とか全然聞いたことなくて。どんな人だったのかなって考える時があるんです。なにか祖母に関して知っていることはありますか?」
唐突だが私は思い切って話を振ってみた。
小高はそんな急な質問に驚くこともせずに「んー」と考えながら首を傾げる。
「そうねぇ、アキさんの若い頃……。私も学生時代に話をしたことあったけど、陽子ちゃん繋がりだったから。うちのおばあちゃんなら分かるかなぁ。何せ結構歳いっていて最近は反応が薄くてね。一人にしておくのももう限界というか不安で、やっと入所が決まって。週末にはここを離れるのよ」
「そうですか……」
私は落胆せざるを得なかった。やはり難しいのだ。
せっかく掴みかけた紐が無残にもぽろぽろと朽ちていくような感覚だ。
「……そうですよね」
私は無理に笑おうとしたが、その表情は歪なものとなった。
そんな私に心を痛めたのか、小高はついつい悲し気な場の雰囲気に流されたように少し間をおいて口を開いた。
「おばあちゃん、ちゃんと受け答えできるか分からないし、巴美ちゃんが知りたいことが聞き出せるか分からないけど、一度会ってみる?今週末には行っちゃうんでそれまでなら時間あるから。これも何かの縁だし」
「え、いいんですか!」
思ってもみなかった言葉に私はつい嬉しくなった。少しでも祖母のことが分かればいい、そう考えていた。
そんな私の姿に小高もつられて笑顔になり「どうぞどうぞ」と言いながら「やっぱり陽子ちゃんに似てるわねぇ」と一人小さく呟いていた。
♦
そして翌日になり、私は昼過ぎに会いに行けることになった。
急な話にもかかわらず、快く小高と小高の母親である千代子は家に迎え入れてくれた。
千代子は歳が九十近くではあるが、小高の話で聞いていたよりはっきりとした口調で話し、性格も明朗で心地良い印象があった。前もって小高から私の話を聞いていたからか「久々の来客だ」と心が弾んでいるようにも見える。
通された居間には、い草のカーペットが敷いてあってその上に冬には炬燵にもなりそうな座卓が一台、ひと昔を思わせるありきたりな光景があった。適当な場所に座ると「暑かったでしょ~」と目の前に麦茶を千代子さんが出してくれた。
何とも言えないこの感じに私は懐かしさを覚え、祖母もこんなだったなとしみじみしてしまった。
「急にすみません、忙しいのに」
私はそう言いながらぺこぺこと軽く頭を下げる。
「いいよいいよ、そんな大した準備もないから。巴美ちゃんに会ったのは赤ちゃんの時以来かね?ずいぶんと大きくなってぇ」
「おばあちゃん、巴美ちゃんはもう立派な大人だよ!」
小高は笑いながらつっこみを入れたが、私は複雑な気持ちのまま受け流した。
「それで……。千代子さんなら祖母のことを何か知っているんじゃないかと思って。私が子どもの頃は何も聞かずに育ったから、祖母のこととか、あと祖父のこととか……。少しでも話が聞きたいんですけど……」
私の言葉を「うーんうーん」と唸りながら聞いていた千代子は「そうだねぇ」と相槌を入れ、座卓の上にあったゼリーのお菓子に手を伸ばした。
「アキさんは物静かな人だったから、自分の話はしなかったんだろうねぇ。いつも自分より子どもだぁ、孫だぁっていうから。あ、巴美ちゃんも食べな」
千代子はゼリーのお菓子を勧めてきた。それは小さい頃好きだった直方体の表面に砂糖がついた色とりどりのフルーツゼリーだった。少し硬い食感が好きで、昔、祖母の家で好んで食べていた。
「あ、いただきます」
懐かしい味と食感に口元が緩む。
「巴美ちゃん、お昼は?食べた~?」
台所にいた小高が振り返って聞いてきた。
私は「少し食べてきました」と言うと「そうなの。ちょっと買い物に行ってくるけど、巴美ちゃんはそのままゆっくりしててね」と言い残し出て行った。
私はそのせかせかした姿を見ながらふと昔の母の姿を思い返す。だがすぐ我に返り、鞄の中にしまっていたある物を取り出して卓上に出した。
「千代子さん、これ、見たことありますか?」
私が出した物はあの指輪だった。
念のため手掛かりになるかもしれないと見込んで持ってきてあったのだ。
「あら、きれいな指輪ねぇ。巴美ちゃんの?」
「いえ、祖母のです。昔、祖父からもらったって言ってた物で」
千代子はまじまじと指輪を眺める。
「アキさん『紫』が大好きだったわねぇ。もう大好きすぎて陽子ちゃんの名前にも『紫』の字を付けようとしていたくらいだから」
「え?」
私は耳を疑った。
「母の名前に『紫』を付けようとしていた?」
「そうだよ~、でも茂夫さんに反対されて結局茂夫さんが『陽子』って名付けたんだっけか」
私は初めて聞くエピソードに頭を追いつかせようと必死だった。
鼓動が早まっていく。
「『茂夫』って私の祖父の名前ですか?」
「そうそう。巴美ちゃん、知らなかったの?」
千代子は顔の皺を縮ませながら言う。
「茂夫……」
私は呟いた。
自分の祖父の名前を初めて知った不思議な感覚だった。
「茂夫さんは厳しい人だったから、その指輪をアキさんにあげるなんて意外と優しいところもあったんだねぇ」
「え、厳しい人だったんですか?」
「んんー、職人気質で見た目も厳格そうな人だったし、アキさんもよくそう言っていたから。昔はみんな亭主関白なところがあったもんで、茂夫さんも同じような感じだったんでねぇかな」
「何だか全部初めて知ることばかりで……」
私はコップを手に取り、麦茶を一口飲んだ。
コップの表面に付いていた結露と喉に伝わった麦茶の冷たさが潤いをもたらしてくれる。少しばかり落ち着きを取り戻した。
そして、順を追って話を聞くことにした。
「千代子さんと祖母は出身が同じなんですよね?」
「そうそう。同じ岩手から出てきてねぇ。私の方が二つ年下だったけど、学校も同じだったからよく知っていたし、こっちに出てきてからもたまあに会ってたんだよ。こっちで働いてご飯食べに行って色んな話をしたり。私の方が先に結婚したけど、アキさんもこっちで茂夫さんと出会って結婚して、陽子ちゃんが生まれたの」
「そうなんですね」
「そうそう。陽子ちゃんが生まれた時はすんごく嬉しそうにしていたねぇ。まだお腹にいる時から幸せそうで。それはもう」
当時が蘇るかのように千代子は目を固く瞑っていた。
「『男でも女でもどちらも嬉しい』って言ってたけど、どっちかというと女の子を望んでいたよぉ。それで、アキさんが子どもの名前を『紫』にしたいって」
「まあ……。なかなか極端というか、大胆というか……。『ゆかり』ちゃんは素敵な名ですけど」
いつも物静かだった祖母の性格からは想像ができないが、これは祖父・茂夫も反対するだろう。
「祖母は昔から『紫』がそんなに好きだったんですか?」
「多分そうだと思うよ。でもそんなに好きなのって思ったのはその名前の時だったけど……。いくつか考えていた名前がやっぱり茂夫さんが許してくれなくてねぇ。アキさん、落ち込んでたから私もどうしたもんかって思ってたけど、しばらくするとけろっとした様子で『ちよちゃん、名前の代わりに紫の石あげることにしたの』って」
千代子はそこでまた一つフルーツゼリーを取った。
「?」
「あのぉ、なんだ。なんだっけ?あれ。名前が出てこない、石よ」
私は既に自分の中にあるその答えを咄嗟に言った。
「アメジスト?」
そう言った瞬間、千代子の目がピカっと開く。その目の大きさに逆に驚いた。
「そう!アメジストぉ!よく分かったねぇ」
「そ、それで、アメジストを祖母が母にあげたってことですか?」
「いや~本当にあげたのかは分からないけども、アメジストって宝石でしょ。なんでも赤子に宝石あげるってどういうことかって聞いたわけ。けどもそういう習わしがあるとかなんとか。それでその話は終わりよ」
そこで千代子は「よいしょ」と立ち上がって台所へ行った。その姿を見ながら、まだ一人暮らしができそうなんじゃないかと思うくらい足取りがしっかりしていて、「お煎餅もあるよ、こういうの」とニコニコしながら菓子袋を持ってきた。
「っととと」
隣に再び千代子は座り、ガサガサと袋に手を入れ私の前にいくつか煎餅を置いた。
「とにかく、アキさんはむかーしから大人しくて静かな人だったけど、娘を授かって幸せだったと思うよぉ」
「そう……、ですか」
私は何となく思い浮かべてみた。
何十年も昔、祖父の茂夫と祖母のアキ、そして母の陽子たちが暮らしていたその場景が何となしに分かるのだが、まだ少しはっきりしない感じがしていた。
「それで、他には……、祖父母のことで何か」
「そうだねぇ。陽子ちゃんが生まれてからも度々アキさんには会っていたけども。うちの娘の方が先に生まれてたから色々困ったことあると私に聞いてきたりしてたねぇ。でも陽子ちゃんが中学生の時だったか、まだ子どもの頃に茂夫さんが亡くなって、それからアキさんも随分と苦労してきたんだと思うよぉ」
千代子は湯呑を手に持ってお茶を啜った。
私も麦茶を一口飲んだ。
「その、祖父が亡くなってから、岩手に帰るとかそういうのは無かったんですかね」
私は千代子に訊く。
「それはねぇ。こっちでずっと子ども育ってきてるし、田舎よりこっちの方がお金になるから。アキさんもプライドっちゅうもんがあるだろうし……」
「なるほど……」
「いやぁ、本当に子育ては大変だったけども。アキさんも私もお互いにね。それがこうやって子どもたちも大きくなって、孫も可愛くて本当に良かったよ。うん。幸せなことだ。アキさんと過ごした時間が懐かしいねぇ」
それからしばらく、私は煎餅を食べながら祖母としてのアキの話や晩年の様子を軽く千代子に話して聞かせた。あまり内容的に大した話はできなかったが、千代子は嬉しそうに耳を傾けていた。
「ただいまー」
外から帰って来た小高の大きな声がした。
「巴美ちゃん、あ、お煎餅食べてたのね。これ、そこのコンビニでアイス買って来たんだけど食べる?好きなの選んでいいから!」
私は「す、すみません。ありがとうございます」と言って立ち上がり、ビニール袋に入っていたいくつかのカップアイスを見て驚いた。
「これ、高いやつですね」
「ちょっとね!でも久しぶりに食べたかったのよ~!何買うか迷って色んな味買ってきちゃった」
小高は笑いながら楽しそうに言った。
私は少し遠慮しながらも一番好きなものを選ぶ。
「巴美ちゃん、バニラでいいの?」
「はい、好きなんです」
「へぇ!じゃあ、おばさんはチョコにしようかな~」
アイスとプラスチックスプーンを持って座卓に戻った私は、久しぶりのアイスに少し嬉しくなりながら蓋を開けて手を合わせる。
「そうだ、おばあちゃん!巴美ちゃんにアルバム見せた?」
小高が千代子にそう言うと、千代子は少し反応が鈍かったが「あ」という顔をした。
「見せてないの?こないだ見つけたじゃん!ちょっと待ってて、今持ってくるから」
小高は荷物がまとまって置いてある部屋へ足早に行き、段ボールの中にあるいくつかの古びたアルバムの中から、とても古くてひと際汚れが目立つ一冊を持ってきた。
「……あぁ。そうだわね」
千代子は小高からそのアルバムを受け取る。
「こないだね、この家の中整理してたら色々なアルバムが出てきてね。このアルバムにおばあちゃんの若い頃が写ってて、珍しくて見てたのよねぇ、おばあちゃん」
「こっちだったかな」
千代子はアルバムを開き、ペラペラと捲っていく。まさか昔の写真が見られるとは思っていなかった。私はそのアルバムを凝視しながら胸の高鳴りを感じていた。
「うちの祖母も写っているんですか?」
「そうそう!すっごい貴重なのよ!たまたま見つけてね。あ、おばあちゃん、これだ」
そう言って小高が指を差した白黒写真を見ると、もんぺ姿の少女が何人か立っていて、一人は光が眩しいのか目元が歪んでいる。そしてその背後には草が生い茂り、花が咲いていた。一見、どれが祖母だか分からない。
「ん?これ、ですか?」
「そう、これがアキさんで、こっちがうちのおばあちゃん」
右端がアキだった。
「これ、何歳くらいですか?」
「そうだねぇ……。二十歳にはまだ届いていないと思うんだけどねぇ」
そう千代子が言った横から小高がすかさず口を出す。
「そりゃそうでしょ!だって上京する前じゃないの?これ」
「うんそうだ」
私はその写真をよく見た。祖母の若い頃など想像していなかった分「本当にこの人が」という変な感じがしたが確かに面影が残っていた。
少し、母にも似ているかもしれない。
その姿は真ん中で分けたおかっぱの髪型で目が一重で腫れぼったく、手を前で重ねている。
「なんだか……、すごい」
「ほんとに大昔だよね。こんな昔の写真よく残ってたよ」
小高がチョコアイスをつつきながら言う。
私は他にも祖母が写っているものがないか視線を移動させる。
「他はないんですか?」
「ないみたいなのよ、多分。この一枚だけだよね?おばあちゃん」
「んんー」
ページを捲っても捲っても、祖母らしい人物は見つからない。内心、大きく落胆した。
「でも……、たった一枚でも昔の祖母が見られて良かったです。これって岩手で撮ったんですよね?」
私は写真を指さしながら千代子に聞く。
「んだよ。生まれ故郷はなんもない山ばっかだけど、夏に咲く紫陽花畑がちらほらあってねぇ。カメラなんてまだもの珍しい代物だった頃、よそから来ていた金持ちさんがたまたま撮ってくれたんだ」
「え、紫陽花畑?」
「そう、辺り一面の紫陽花よ」
私はもう一度写真を見る。
確かに背後に写っている毬のように大きな花は紫陽花だと分かるが、それほど規模の大きい場所で撮られたものとは思わなかったのだ。
「ああ、あそこね!私も昔田舎に行った時、ちょうど見頃で咲いてたわ」
小高が思い出すようにして言った。
「もう親戚もいないから行く機会ないけどね」
「そうなんですか」
私は紫陽花畑を想像する。
きっと、ここら辺の街中で見るものとは違うのだろう。こっちではちょこちょこ咲いているだけだが、写真の中の紫陽花畑は広大なのだ。今は無理でもいつの日か、実際に見てみたいと思った。
遠い土地にほんのり思いを馳せる。
それは私にとって久しぶりの感覚だった。
それから少しの間三人でアルバムを見ながら千代子の話を聞き、アイスの溶け具合と同じくあっという間に時間が過ぎて行った。
千代子も小高もよく笑う親子だった。
そんな二人を見ていると、自然に祖母と母の姿を重ねて見てしまっていることに気付く。そして私自身もほんのひと時、子どもの頃に戻ったような気がした。
他の家と比べても詮無いが、健康な家族がいて当たり前のように笑って話せることの幸せを疑似体験しているようだった。
「今日はありがとうございました」
私は屈んで靴を履いていた。
「いいえ!こちらこそ~。おばあちゃんも久しぶりに色々話せて刺激になったと思うよ。もうここのところずっと変化のない毎日だったからね。巴美ちゃんは知りたかったこととか、大丈夫そう?」
「はい。逆に知らないことが多すぎたので。今日は来て本当に良かったです」
「それを聞いて安心したわ!」
小高はほっとしたような笑顔になる。
私はその顔を見て、昨日小高と会った時に面倒だと感じたことを心の内で初めて申し訳なく思った。
「もう近いうちにこの家も立ち退くことになるけど、また何かあったら連絡してね。陽子ちゃんにもよろしくね!」
結局、母の病のことは話せなかったが小高や千代子と短い時間を過ごせたこと、祖母の話を聞けたことは大きな収穫だった。私とてずっと家に籠り切りで生活に色がなく、人と関わることに臆病になっていたことに比べれば以前より少しだけ心境の変化を感じていた。
このことを誰かに話したい。
とりわけ母ともっともっと話がしたい。
色んなことをたくさん、大きいことも小さいことも。
日常に変化が無くても、介護がどれだけ大変でも、同じ時間に同じ感情を共有したい。
そして、例え母が話せなくなっても他愛もないことで一緒に笑って過ごしていたいとそう強く思った。
♦
その日の夜。
夕食を食べ終えた後、私は携帯を見ながら千代子たちとの会話を思い返していた。
携帯のカメラで念のため祖母が写っていた写真を撮らせてもらっていたのだ。小さくて見えづらいが、この写真を母にも見せてあげようと思っていた。
私の知らなかった事が多い祖父母の存在や母の生きてきた人生が私に繋がっている。
そう考えるともっと昔のことを知りたいと探求心が湧いた。
「そういえば、どっかに古い写真あったな」
前に家のどこかの引き出しを開けた時に、アルバムに収めていない写真が束になってむき出しで入っていたことを思い出す。
母がまだ若い頃、知り合いの結婚式に出た時の写真や中学校同窓会の写真などがあり、私は興味本位でそれを見つけた時に眺めていた。そして、その写真の束をどんどん見ていくといきなり白黒写真が出てきて、そこに写っている人物をよく見ると、祖母とまだ子どもだった母が写っていたのだ。
その時初めて母親の幼少期の姿を見たため、それはすごく新鮮で「お母さんにもこういう時代があったんだな」と印象深かったのを覚えている。
ふと、その写真がもう一度見たくなった。
「どこだっけ」
とりあえずリビングの目ぼしい引き出しを開けてみる。だが見つからない。
私は頭を捻りながら母の部屋へ行った。
その部屋には小さいクローゼットがある。
そのクローゼットにはぎゅうぎゅうに洋服やらコートやらが掛けてあって、下にはむりやりプラスチック収納棚が置いてある。
普段このクローゼットを開けることがないため、久々に開けると少し埃臭く湿気取りの容器には水がギリギリまで入っていた。だが私はあまり気に留めずに収納棚の引き出しを次々開けていった。頭の中が一つのことでいっぱいだった。
「あ、これかな」
最後に開けた所に探していた写真の束があった。
記憶の通り、昔の母の写真がある。
その数枚先に目当ての写真を見つけた。
そして、その写真を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「……」
私は写真を見つめてしばらくの間固まっていた。
首や肩が多少辛くなってきた頃合いで大きく息を吸い、一旦顔を上げる。
そこに写っている祖母と小さな母。
二人は手を繋いでいてまっすぐ正面を見ている。
笑顔ではないが、心なしか祖母の表情は穏やかだ。二人で写っていることは何となく記憶していたが、驚いたのはその場所だった。
「……ここは」
私は携帯の写真をもう一度見た。
そして、今手にしている写真と交互に見比べる。
祖母と小さな母が立っているその後ろの背景が、千代子と祖母が立っている後ろの背景と同じようだったのだ。
「同じ場所?」
どちらの写真も白黒だったが、その後ろにある紫陽花たちは見紛うことなく大きく花開いている。だが、同じような紫陽花が写っていたとしても別の場所の可能性も否めない。見た感じは似ていても断定はできないのだ。そしてそれを確かめる術は思いつく限り一つだけだがそれで確実な答えが分かるかが問題だった。
私はまじまじともう一度見て、裏を返した。すると、思いがけず下に小さく文字が書いてあることに気が付いた。
「……郷里にて……」
薄くほぼ消えかかっていたが、私にはその文字が読めた。
「やっぱり」
私は千代子から聞いた話と写真、今までの記憶を手繰り寄せ考え始める。
そして、それらを整理して自分なりに推測し、考えをまとめてみた。
♦
私の祖母・アキはうら若き頃岩手から上京してきた。
戦争が終わってから仕事のためか何かで上京してきて、祖父・茂夫と出会って結婚、その後は主婦として家を守りつつ、出産・子育て……というルートをアキは歩んだ。
その時代の女性の夢や生きがいが何だったのか私は想像するしかないが、現代よりも結婚・出産はごくごく当たり前で、アキも子どもを望み、娘が欲しかったことは千代子から聞いた通りだ。
そして、アキは「紫」に特別な思い入れがあった。
どういうきっかけがあるのか、どうしてそこまで思い入れがあるのかは、実際のところ分からないが、アキの故郷・岩手には夏に咲き誇る紫陽花畑があって、アキの「紫」好きとそれが何かしらの関係があるのかもしれない。そして、子どもの名前に「紫」という文字を入れたかったが、残念ながら夫の茂夫に反対されたようだ。
茂夫のことについては厳格だということしか分からなかったが、私の想像ではありきたりな亭主関白でアキが多少なりとも苦労したのではないかということだった。二人の関係性についてはもはや過去に閉じ込められていて、あれこれ思案しても無駄だろう。
「紫」を名前に認められず悲しんだアキは、せめてもの代わりに紫の石を赤子に与えることにした。それはやはり、今ここにあるこの指輪がそうなんだろう。この指輪は茂夫がアキ子に与えたものではないと思う。
まず、宝石を赤子に与える慣習について調べたところ、すぐに「ベビーリング」に辿り着いた。「ベビーリング」は赤ちゃんが誕生した記念に「豊かさ」や「幸せ」の願いを込めて贈る、ヨーロッパの慣習だという。
きっとアキは奇しくもどこかでその情報を見聞きしたのだ。
母・陽子が生まれた貧しい時代に「ベビーリング」を贈るなど滅多にできないことだと思うが、その頃は人や物、情報が錯綜し何が本当で何が本当でないかを見極めるのが難しかった。まだ、道端で物を売り買いしていた当時、露店で誰かしらが物珍しい指輪を売っていたとしてもあり得ない話ではない。ましてや、それが本物でなくても商売にしてしまえるような感覚だったのかもしれない。
アキのような田舎者が通りかかって、「外国ではこういう風習があるんだ」とか何とか上手く丸め込めれば偽物でも騙せる可能性がある。そうして、アキはそれが「アメジスト」だと思い込んで買ってしまったんじゃないか、というのが私の推測した道筋だった。
さらにもう少し考えると、買った指輪が偽物だとアキは後に気付いたのではないか、ということだ。
これも単なる推測にすぎないが、偽物だと気付いたアキはその指輪を結果的に陽子に与えずしまい込み、そして後に、夫からもらったのだと偽ってきたのかもしれない。
プライドの高いアキだからこそ、と思ったのだ。
昔、その指輪について私が聞いた時に「おじいちゃんにもらった」と確かにアキはそう言っていたが、それは嘘をついているのか、もうその頃既に認知症が始まっていたのか、どちらにせよ偽物の「アメジスト」を厳格な祖父が祖母に与える方が、可能性が低そうだ。
私はもう一度、指輪を見た。
宝石のような輝きは無いが、ゆっくりと角度を変えると光を反射して綺麗に煌めく。
祖母がこの指輪を手にした本当の経緯はきっとこの先も闇の中だが、想像することはできる。
想像とは「自由」なのだ。
誰でもたやすく手に入れられる「自由」。
私が勝手に物語を作って自分で自分を納得させる。それは一歩間違えれば危険な行為かもしれない。だが、私の中だけであらゆる気持ちを整理し、この状況を受け入れる手段としてはそれで十分で、時と場合によっては生きていくために必要なのだ。
そして、その中で私は一つの真実を見つけ出した。
曖昧な仮定の中でも決して揺るがないもの。
それは、「祖母が母を愛していた」という真実だった。
高貴な色である「紫」。
娘の幸せを願ってそれを与えようとし、大切に育てた祖母。
その愛に母は、祖母が亡くなった後に気付き、深い後悔や悲しみとともにこの指輪を残したのではないか。自分の母親が認知症になった時にもっと大切にしてあげていたらと思ったのかもしれない。祖母が亡くなった後の遺品整理をしていた時に、静かに泣いている母を私は物陰から見ていた。その時はただ悲しんでいるだけとしか思っていなかったが、祖母の深い想いに触れた今ならどれだけ切ないかがよく分かる。
一方の私も、母の介護に明け暮れてから暗闇の中この先どこまで続くのか、母の命を支えつつも母の「死」を意識して過ごしてきた。
そればかりだった。
だが、それは精一杯私自身も生きてきたからだった。
人生は無常で、この時間が永遠に続くはずもないのだとこれっぽっちも思い至らなかった。
私はこの指輪のおかげで、生まれる前から祖母に愛されきた母のことを外側から見つめることができた。
そして、その真実を手にした今、私自身の母に対する後悔と重なって目の前にある命をもっと大切にしたい、守りたいと気持ちが揺れ動いた。
今、生まれて初めて母のことを「愛しい」と感じている。
それは母の「生」に視点が移り、私の中で意識が変わった瞬間だった。
「おばあちゃん……、幸せでしたか」
私は写真の中にいる祖母に向かって呟く。
今まで、家族と過ごしている祖母としての姿しか知らなかった。
その祖母が認知症になり施設に入ってからは特に思い出すことなく、最期を迎えた時はふと「こんな人生の終わり方で幸せじゃなかったんじゃないか」とさえ思えた。
だが、良い時もあれば悪い時もある人生の中で祖母が子を授かったその時は確かに幸せな時間だったのだろう。
その証拠がこの写真だ。
大好きな紫とともにあった大切な娘との時間。
母の「生」を大切にすることは、私が母に対してこの先新たな後悔を生み出さない上で大事なことだと、この指輪がそっと教えてくれたような気がした。
私はもう一度、写真の中の紫陽花を見つめる。
「……きっと、大丈夫」
すると、一つひとつの紫陽花たちに深い「紫」が浮かび上がって、色づき、満ちてくるようだった。
