【小説】霖雨の果てへ③
Ⅱ Stare at the hydrangea.
六月のとある木曜日。
私は母の朝食を片付けてから、この日も買い物に行くため冷蔵庫の食材を確認していた。今日の晩ご飯、明日の晩ご飯、明後日の晩ご飯、献立を考えるも何も浮かばない。
自分が食べたいものも何もなかった。
例えそれがあったとしても、母は食べられないことも分かっていた。
母に食べさせる既製品のムース食にも限りがある。ムース食は値段が高く、毎日食べるにしても一日一回と決めていた。家計に余裕のない家の負担を少しでも減らすためだった。そうなると、柔らかくて飲み込みやすいおかずが何かと考えれば自分のためのご飯というより、母のためのご飯を私と父親の分も作るといったところだ。
何も浮かばないけれど、とりあえずスーパーに行かなければならないようだ。ここにある食材で何かを作る望みは薄かった。
「お母さん、夕方頃買い物行ってくるから」
私は母に声を掛けた。
「何か食べたいものある?」
そう尋ねると何か声を出して言ってるようではあるが、やはり一度では聞き取れない。
「寿司?」
母の好きな食べ物を適当に言ったら、母は首を小さく縦に振ったので当たったのだと分かった。
私はもうずいぶんと長い間母と共に過ごしてきた結果、言葉がちゃんと聞き取れなくとも今までの経験からの想像で会話を成立させるようになっていた。母が今どういう感情でいるかは家族なら簡単に分かりそうなものだが、何が言いたいかが分からないことも多い中、私だけは何となくでも知ることができる。
その点父はというと、母の言っていることはあまり聞き取れず、最終的には時間をかけても理解できないことに嫌気が差して会話すること自体に疲れ、すぐに自分の部屋に逃げている。
私は父のそういうところもすごく嫌いだった。
結局全部、私まかせになっているということだったからだ。もっと家族の関係性が良好だったなら、この介護生活も上手くいっていたのだろうか。うちの家族が駄目なのだろうかと考えずにはいられない。
「寿司が食べたいのは分かるけど、食べられないでしょ」
私は「何度言ったら分かるの」と、毎度毎度同じことを繰り返し言う。
「もっと違うのは?豆腐とか、また買ってくる?」
そう聞くが、母は首を縦に振らなかった。もう飽きたのだろうと私は分かっていた。
そうして私はいつもと同じように夕方前に家を出た。
自転車を走らせながら、つい三日前の月曜日にあったことを思い出していた。
私はその日も買い出しで外に出ていた。その帰りに不思議な体験をしたのだ。
それは突然のことだった。
私は、普段滅多に通らない道の途中に馴染みのない公園があるのを知っていた。そこは、私が子どもの時ですら遊んだことのない公園だった。
大学を卒業してから介護生活に明け暮れ、時間が無情に過ぎていく日常を送っているが、スーパーで買い物をした後そのまま家に帰りたくない思いが私をその公園に導いた。他に行く当てもないし用事もない私にとって、知っている人が居なさそうな場所で少し寄るだけなら問題ないと考えたからだった。
そうして、買い物から帰る度に雨が降っていなければその公園で少しの時間過ごすようになった。
だが、ただベンチに座るだけでそこで何かするわけでもない。それでも家にいる時間が長い分、気が付かないうちにストレスが溜まっているわけで、定期的にそこへ行って気を紛わせようとしていた。それだけのことだったのだ。
それが数日前、初めての出来事が私の身に起きた。
知らない男子中学生が私に話し掛けてきたのだ。
日常に関係のない人と言葉を交わしたのはいつぶりだろうか。
そう思う一方で、今まで他人と会話すること自体に私はストレスを感じていたため、最初話し掛けられた時はだいぶ気を張った。けれど、相手が中学生という不可思議さの方に意識は持っていかれ、なぜ自分に話し掛けてきたのだろうかという謎が大きく残る羽目になったのだ。
「『また今度』って、……なんだ」
去り際に彼がそう言っていたことを思い出す。
今日もまた帰りに公園に寄ればその子に会えるのだろうかと考えたところで、わざわざ会って話す義理もないし、無駄に疲れることはしたくないのも私の本音だった。とにかく、ただ座って適当に時間を潰せられれば良かったはずなのに。その公園にはもう行くことをやめようかと考え始めていた。
私は自転車をこぎ続ける。
♦
公園の時計は十六時を少し過ぎている。
ブランコの辺りで小学生たちがゲーム機を片手に楽しそうに騒いでいた。ベンチから少し距離が離れているが、騒ぎ声がよく聞こえ体に変に響くようで少し耳がざわざわする。
私は公園に来ていた。
いや、来てしまっていた。
来るつもりはなかったのだが結局のところ、例の彼にまた会うとかその点は実際どうでもよくて、自分のささやかな逃げ場を失うわけにはいかなかったのだ。その公園が快適か否かは日によって変わるが、まだそこに行かなくなるまでの理由はできていない。
私はふと紫陽花を見る。
何気ない景色の中に組み込まれた紫陽花たちは、今日も艶やかに咲き誇っている。
私は青紫色を好んだ。梅雨の季節になり道端に咲いていたとしても普段は自転車に乗っていて見向きもしないが、こうしてじっくり見ているとその美しさには際限がないようにも思えた。
そして、再び時計を見上げると来てからそんなに時間は経っておらず、十六時二十分に差し掛かろうとしていた。私はあと五分くらいで帰ろうと決めた。ベンチに背もたれて目を閉じる。目を閉じると余計に子どもたちの声が耳につくようだった。息を吸って吐く。心を静めようとしても、これから家に帰ってやることを順に考えてしまい、頭の中でそのシミュレーションが映像となって流れている最中、突如それが打ち破られた。
「こんにちは」
私ははっとして思考を停止させた。そして振り向くのを躊躇する。
少し間を置いてから、再び声が聞こえた。
「あのー……?」
今度はゆっくりと顔を上げて、その方を見た。そこには例の中学生が立っていた。私はじっとその人を凝視していると、
「あの、どうかしましたか?あ、すみません、この前は。急に帰ったりしてしまって。それにこんな知らない人がいきなり話しかけたら驚きますよね」
その人は焦ったように、少し照れたように笑って言った。
「今日はいないだろうなと思ってたんで、少しびっくりしたんですよ」
そんなことを言いながらその場を取り繕っていた彼のその様子に、私は意外にも少しほっとしたのだった。
「学校の帰り、ですよね……?」
私は制服姿の彼に当たり前のことを聞いた。
「はい」
彼は落ち着きを払って、穏やかに笑んだ。その表情に私は、今まで懸念していたことのほとんどが掻き消されていく不思議な感覚になった。
少年と言っても間違いではないような年頃のその彼は、「聖」と名乗った。
聖は近くの中学に通う三年生で、バスで通ってきていた。
そして、聖に聞かれたまま、私は買い物をした帰りに公園に寄っていること、大学を去年卒業したが母親の介護をしていることなど、普段は絶対に口にしない自分の家の事情をほんの少し話したのだった。それは、聖が自分と全く関係のない他人であることや、彼から何か言われたとしてもただの中学生の言葉だと思えば、何も感じないだろうし、例え何かあっても公園に行かなければ済むことだと軽く考えたからだった。
だが一番は、今目の前にいる聖から滲み出ている、警戒心を抱かせることのない雰囲気が自然と私から言葉を引き出したことが大きかった。それに、年齢の割にはどこか他の中学生とは異なる感じもした。
一方で私はそう思いつつも、やはり子どもには介護なんて馴染み無いだろうし、かなり重い話題だろうなと、色々話した後になって後悔に駆られ始めていた。
しかし、そんな私の心配をよそに、聖の口から一言、零れ出たものがあった。
「そうだったんですね」
聖は驚くことも、引くこともなく、ただ受け止めてくれたのだ。
たったそれだけ。
それだけのことなのに、この子は何か違うのだと私はその瞬間悟った。
そして、今度は聖が話すにつれてなぜ他の中学生と感じが違うのか、歳不相応な落ち着いた雰囲気をまとっているのかが少しずつ明らかになっていった。
「僕もじいちゃんのこと、みてたんで」
聖はそう言いながら、私の隣に座った。
「年取ったじいちゃんとずっと一緒に暮らしきて。それで家のこととか、じいちゃんのこととか色々。まあ僕には兄ちゃんがいたから、兄ちゃんと一緒にですけど」
「そうなんだ……」
私は目を丸くしながら聖の顔を見た。
「どうりで、介護の話に驚かないのだと思った」
私は自分以外の若い人間で、介護をしている人に出会ったことがなかったため、聖の言葉に逆に驚かされた。
しかも小学生の頃に介護をしていたという事実。
介護がどんなに大変かが心の底から分かるからこそ、衝撃的だった。
どんな生活を送っていたのだろうという純粋な興味が生まれた。
それは、ずっと何かに興味を抱くこともなく、全てがどうでもいいと虚無感の中で生きていた私にとって、小さく心が動いた瞬間だった。
だが、よその家の事情をこんな知り合いとも呼べない赤の他人が聞くのも気が引ける。こういう話は、慎重になるべきだと私は思った。そう思いながらも、知りたい、こんな機会滅多にない、と心の内で葛藤していた。
そんな私の顔から何か読み取ったのか、聖は口を開いた。
「お姉さん、今時間ありますか?」
「え」
私はまた公園の時計を見る。時刻は十六時半を過ぎていた。
いちいち時間を気にしないといけないこの生活に辟易するが、あいにくこの日は生ものを買ってしまっていて公園に長居はできそうになかった。それに、母のことも気になる。
「すみません。今日ひき肉買っちゃったんで、もう帰らないと」
「そうですか。分かりました。僕も帰ります」
聖はそう言って「じゃあ」というふうに立ち上がろうとし、私は咄嗟に慌てた。
「あ、まっ、また、話せますか?」
私はここのところずっと、自分から誰かと話したいと思うことはなくなっていたが、それはとても純粋な自分自身の欲の表れだった。
「あ、明日は?明日の帰りとか」
「明日ですか?」
聖は少し目を見張った後何かを考えているのか、間を置いてから、
「また、同じ時間でも大丈夫ですか?」
と聞いてきた。
「あぁ、はい。この時間帯なら多分大丈夫です。それと、こっちから誘っておいて申し訳ないけど……、もし五分くらい待っても私が現れなかったら、そのまま帰ってしまっても大丈夫ですから」
私は自分で何を言っているんだか、少し混乱していたが必死だった。
「はは、そこらへんはまあ。でも、お姉さんも無理せずに。来られなくなったらそれはそれで大丈夫です。それじゃあ、また明日」
聖はそう言って公園から立ち去った。
こうして聖の背中を見送るのは二度目だ。
中学生の、しかも男子と話すことがそもそも滅多にないというのに、再び会う約束まで取り付けるとは一体どういうことかと私は自分から言っておきながら動揺していた。
明日、何事もなければまた会える事実に久方ぶりのこそばゆさを感じている。平日の夕方なら、介護がひと段落した後に自分自身の休憩時間を無くせば一時間、多くても一時間半は取れそうだと私は考えた。帰ってから急いで夕飯の支度をすれば大丈夫だ、と。
いつの間にかブランコのあたりから子どもたちがいなくなっていたことに気付き、辺りを見回した後、私は自転車に手を伸ばした。
翌日。
私は十六時に再び公園に来ていた。
その日の公園には昨日の子どもたちも、普段親と一緒に来ている幼児たちもおらず、比較的静かな空間だった。太陽は雲間から時折顔を出すくらいで、気温もちょうどいい。
聖とは、はっきりした時間で待ち合わせたわけではないがここに座っていればいずれ来るのではないかと気楽に考えていた。
私はいつも通りベンチに腰掛け、綺麗な紫陽花を眺めたり、足元に近寄って来た大きな蟻を避けたりしながらしばらく待っていた。私は外に出る際、母には特に何も言わずに出てきたがあまり遅くならないようにしなければと思っている。携帯電話をパカパカと開け閉めしていると、聖が少し走り気味に公園に入って来た。
私はその姿を見て、来てくれたことにほっとした。まだ彼とは出会ったばかりでどんな性格か分からないし、ただの口約束を守らない可能性だってゼロではなかったからだ。
「すみません!今日金曜だから掃除当番で!」
聖は焦った様子だったが、私はその学生らしい理由につい表情が緩むと同時に自分の杞憂だったと安堵する。
「大丈夫です。そんなに待ってないですから」
聖は一息ついてからベンチに座り、改めて挨拶をした。
「今日は時間、大丈夫ですか?」
「うん、とりあえずは大丈夫です。でもそんな遅くにならないようにしないとね。お互いに」
聖は頷き、少し逡巡した後口を開いた。
「そうですね。それで……、その、なんていうか、単刀直入なんですけど。昨日、お母さんの介護をしてるって言ってたじゃないですか。僕も前に家族の介護をしてて……。僕の周りに介護している人、今までいなかったんで」
聖は改まって何から話し始めればいいか分からず口ごもる。明らかに私に対して遠慮している様子が見て取れ、私は落ち着いた口調でこう言った。
「聖くん、だっけ?私に対してもっと気楽にしていいよ。別に敬語じゃなくても」
「え?」
聖はその一言に面食らったようだった。
「あの、なんて言うか、気を遣ってほしくないというか。歳とか関係なく、話しやすいようにしていいからね。あと、私の名前、向田巴美って言うの。そういえば、言ってなかったと思って」
「あぁ……。えっと、ありがとうございます。分かりました。えっ……、じゃあ巴美さんでいいですか」
私はその反応に少し心配になったが、段々打ち解けてくれるといいなと思った。
そして、「昨日も話したけど」と言う風に先に自分の家の事を簡単に話した。介護のこと、家事のこと、結構厳しい状況であることなど。だいぶ年下の男の子に話すことにまだ違和感が拭えないが、不思議と口からどんどん言葉が出てくる。それを聖は黙って頷きながら聞いていた。私は自分の言葉でこれほど話すのは聖が初めてだった。
「私もね、周りにこんな話をしたのは初めてで」
「分かります。なかなか話せることじゃないですもんね」
聖は苦笑する。
そして、一瞬間を置いてから私の方に向き合い、口を開いた。聖のその言葉は、私が心の奥で密かに待っていた言葉だった。
「僕の話、聞いてもらってもいいですか?」
