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『これは私の出家です。』 連載第2回

「滲み(にじみ)」に学ぶ、許容できる失敗のラインを探る。

パキッとした輪郭を求める社会の乾燥

 前回の第1回では、長谷川等伯の『松林図屏風』を入り口に、タスクの間に「空白(バッファ)」を作る大切さをお話ししました。その記事はこちらをご覧ください。

 前回の記事を投稿した後、いくつかの「スキ」をいただきました。私の独白が、どこかの誰かの心に静かに届いたという事実に、私自身が救われる思いでした。私たちがどれほど「埋め尽くすこと」に疲弊し、心に余白を求めているか。それを改めて噛みしめています。
 私たちは今、パキッとした「輪郭」を求められる社会に生きています。
 スケジュールは分単位、ミスは即座に修正、役割は完璧にこなす。それはまるで、乾燥しきった真っ白な紙に、定規で引かれた細いボールペンの線のようです。その線が1ミリでも歪めば「失敗」と見なされ、その紙全体が台無しになったような絶望感を抱いてしまう。
 適応障害を経験し、働けない期間を過ごすなかで、私はこの「線の引き直しができない恐怖」をずっと抱えてきました。働けない自分、長続きしない自分。「どうして、みんなと同じように鮮明な境界線を維持できないんだろう」という問いは、解決策のないまま私の中に澱(おり)のように溜まっていました。
 そんな時、かつて大学で学んでいた水墨画の「滲み(にじみ)」という現象が、単なる知識を超えて、私自身の「生」を写す鏡のように見えてきました。

雪舟『破墨山水図』:意味や実利を拒絶する「墨の塊」

 ここで、一幅の絵を紹介します。雪舟の『破墨山水図』です。

雪舟「破墨山水図」
室町時代(1495年)東京国立博物館
雪舟「破墨山水図(部分)」
室町時代(1495年)東京国立博物館

 学術という文脈では正しくないと思いますが、私はこの絵を、今の自分を写し出す「巨大な抽象画」として眺めています。本来この絵を語るならば、上に連なる高僧たちの賛文を読み解き、雪舟が明(中国)で学んだ技法の正統性を論じるべきでしょう。しかし、今の私はそれらをすべて脇に置きます。
 近年、アートを「ビジネスに役立てる」「アート思考で問題を解決する」といった、実利的な文脈で語る風潮があります。しかし、私はそのような、アートを何かのための「手段」として消費する見方には懐疑的です。意味を求めることは、時に暴力です。分からないものを、分からないままそこに居させてあげること。それこそが、この絵が、そして私の人生が求めていた切実な『沈黙』だったのかもしれません。
 雪舟が描いたこの「にじみ」は、何かの役に立つために存在しているのではありません。これは禅宗絵画であり、悟りへと至る一環として、あるいは問いそのものとして描かれたものです。そこにあるのは、もはや制御不能な領域に達し、境界が溶け合ってしまった「分からない」墨の塊です。
 この絵は、私たちに安易な「正解」を与えてはくれません。ただ、その「役に立たなさ」と、じっとりと濡れた「混沌」があるだけです。しかし、その意味を求めようとしない静寂の中にこそ、私は圧倒的な安らぎを感じるのです。

負の感情を「沈める」ことで深まる自己理解

 負の感情もまた、解決すべき「問題」ではありません。
 私たちは、怒りや悲しみ、焦りといった感情を、不純物のように扱いがちです。すぐに濾過して透明にしようとしたり、無理にポジティブに変換して「前向きなエネルギー」に利用しようとしたりします。
 しかし、雪舟が捉えたような「陰」の質感は、その不純物(墨の塊)そのものに価値を置きます。
 負の感情は、解決するものではなく、ただ沈めるものです。
 「嫌だ」「苦しい」「もう動けない」。
 そんな重たい感情を、無理に言葉で定義して「使える形」にしようとせず、まずは一つの「にじみ」として放置してみる。雪舟の墨のように、それがじわじわと広がり、やがて心の底へゆっくりと沈んでいくのを待つ。
 すると、沈殿した黒い色の奥に、分析や効率だけでは辿り着けなかった「自分の輪郭」が透けて見えてくることがあります。
 「働けない」というにじみの底には、「自分の誠実さを切り売りしたくない」という切実な願いが沈んでいるかもしれない。
 「動けない」という重みの底には、「これ以上、他人の物差しで自分を測りたくない」という自己防衛の意志が眠っているかもしれない。
 答えを急がず、この「意味をなさない」ほど重く曖昧なにじみの中に留まり、自分との対話を続けること。それは、社会的な価値から一度離れ、自分という人間を再構築するための、私なりの「出家」のプロセスです。

じっとりと重いまま、佇むということ

 失敗を許容するとは、それを「次に活かそう」と実用的に考えることではありません。
 自分の中に生まれた制御不能な「にじみ」を、重たいまま、じっとりと濡れたまま、実利などという浅い言葉に回収させないまま、そこに据え置いておく勇気を持つことです。
 パキッとした輪郭を失うことは、社会的には「不適合」と呼ばれるかもしれません。しかし、雪舟の描いたあの「分からない」景色のように、にじみの奥底には、言葉になる前の豊かな真実が隠されています。
 予定が狂ってもいい。輪郭からはみ出してもいい。
 そのにじみがどこまで広がり、どんな色で自分の心の底に沈殿していくのか。それを観察し続けることが、自分を深く理解するための第一歩になるのです。

次回予告:第3回

『「墨の五彩」に学ぶ、自分の感情を多面的に捉える方法。』
 一色だと思っていた「苦しみ」という黒の中には、実は無限の色彩が隠されています。
 次回は、墨が持つ「五彩」という概念をフックに、自分の心をより立体的に捉える方法を共有します。


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読んでくださってありがとうございます。
出家の道はまだ続きますが、その道中で私が見つけた「現代の地獄」の正体について考察しました。

効率を求めるほど、私たちは何を失っているのか。
その答えを、300円の対価として差し出します。
おはぎを食べ終えた後の、少し重厚な知的冒険として。

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⁠冬栞 HuyuShiori|日本美術史×思考ログ⁠ よろしければ応援をお願いします!!いただいたチップでより良い記事を作っていきたいと思います!