あなたの「推し」は、現代のイエス・キリストか!?
「推し活」という信仰が暴く、人類不変の神話装置
1. はじめに−言葉の端々に潜む「神」の気配
最近、どこへ行っても「推し活」という言葉を耳にするようになった。
テレビの特集からSNSのタイムライン、日常の会話に至るまで、この言葉はもはや市民権を得ている。しかし、その熱狂を少し離れた場所から眺めていると、私はある種の奇妙な既視感を覚えずにはいられない。
それは、言葉の節々に漂う「宗教感」である。
お気に入りの作品や人物を他人に薦めることを、私たちは当たり前のように「布教」と呼ぶ。
ライブに参戦すれば「救われた」と言い、推しの存在そのものを「尊い(=神聖である)」と崇める。こうした用語はオタク活動の黎明期から存在していたが、今やそれは一部の愛好家の隠語を越え、社会全体の共通認識となりつつある。
なぜ私たちは、これほどまでに「宗教」の語彙を必要とするのか。単なる趣味や娯楽を語るには、それらの言葉はあまりに重く、そして鋭すぎる。
もしかすると、現代の推し活と、人類が数千年にわたって紡いできた「宗教」の間には、見過ごせない本質的な共通性があるのではないか。そんな疑問が、本稿を執筆する端緒となったのである。
2. 荒野に灯るサイリウム:狩猟採集民からの系譜
かつて人類にとっての「神話」は、世界の謎を解き明かし、生と死に意味を与える唯一のOS(基本ソフト)であった。
歴史を遡れば、トルコのギョベクリ・テペ遺跡の発見が、私たちの歴史観を根底から覆した。
農業という「食」の基盤ができるより先に、巨大な神殿という「祈り」の場が作られていたのだ。人類は腹を満たすことよりも先に、目に見えない物語を共有し、共に祈ることを選んだ。つまり、「信じること」こそが社会を形作る最初のエネルギーだったのである。
だとすれば、現代の私たちがライブ会場で一斉にペンライトを振る光景は、一万年以上前の狩猟採集民が焚き火を囲んで神話を語り合っていた姿と、完全に地続きの光景である。
伝統的な宗教が制度疲労を起こし、人々の心を繋ぎ止める力を失った現代において、私たちは今、かつての大聖堂ではなく、ライブ会場という名の「現代の荒野」で、新しい神話を求めて彷徨っている。かつての洞窟壁画がサイリウムの光に置き換わっただけで、私たちの魂が求めている「熱狂による救済」の本質は、何ひとつ変わっていないのである。
3. 「不在」が完成させる神話の美学
宗教が「ただのブーム」を超えて、歴史に残る「信仰」へと昇格するためには、決定的なトリガーが必要だ。それが「不在」である。
キリスト教の成立プロセスを振り返れば、それは明らかだ。ナザレのイエスという男が、生身の人間として生きていた頃、彼は弟子たちと食事をし、語り合い、時には怒り、泣いた。
肉体を持った彼は、不完全で、限定的な存在だった。しかし、彼が十字架にかけられ、その肉体がこの世から消滅した瞬間、イエスは「キリスト(救世主)」という、誰も傷つけることのできない完璧な神話へと昇華された。
これと同じ構造が、現代の推し活においても観察される。活動休止、引退、あるいは死。推しという存在が、物理的に手が届かない、あるいは「もう二度と更新されない」状態になったとき、ファンの愛は最高潮に達し、対象は「神話」へと昇格する。
生身の人間は変化し、時にはファンの期待を裏切る。しかし、不在となった推しは、もはや「勝手に喋る」ことはない。残されたファンは、推しが遺した過去のアーカイブを自由に解釈し、自分たちの都合の良い「永遠の美」へと塗り固めていく。
ここで私は、二人のアーティストの名を想起せずにはいられない。hide、そして尾崎豊である。
彼らは人気絶頂の中、あまりに突然、私たちの前から姿を消した。もし彼らが今も存命で、SNSで日常を呟き、加齢による衰えや、時には政治的な発言、あるいは生活感の漂う失態を見せていたとしたら、これほどまでに「絶対的な救い」として語り継がれていただろうか。
hideの『ピンク スパイダー』で歌われた、翼を欲しがる切実なまでの「空への憧れ」。
あるいは、尾崎豊が『卒業』で叫んだ、支配という名の「重力からの脱却」。
彼らが遺したこれらの旋律は、もはや単なるヒット曲ではない。本人が不在となった今、それらは残された者たちが日々を生き抜くための「賛美歌」や「経典」として機能している。死という「取り返しのつかない事態」が、彼らを永遠に若く、完璧な姿のまま「神話」の檻に閉じ込めた。彼らの葬儀に数万人が押し寄せ、何十年経っても命日に花が絶えない光景は、戦後日本において最も純粋な宗教的儀式の一つと言える。
「不在」こそが、推しを完璧な神にする。この残酷なパラドックスは、二千年前のエルサレムでも、現代の日本でも変わらず機能している。私たちは、推しの「生」を愛でているようでいて、実はその「物語の完成(終わり)」を無意識のうちに求めているのではないか。そう問い直すと、推し活という行為が持つ冷徹なまでの様式美が見えてくる。
4. 弟子の暴走と「勝手な布教」の危うさ
キリスト教を世界規模の宗教に押し上げたのは、イエス本人ではなく弟子のパウロたちであった。特にパウロは、実際に生身のイエスに会ったことがない。だからこそ、彼は自分の理想とする「概念としてのキリスト」を構築し、それを熱狂的に布教した。
生身の人間イエスが持っていたはずの「矛盾」や「弱さ」を削ぎ落とし、誰にでも伝わる「救済のパッケージ」へと作り変えたのである。
これは、現代の「推しを布教したい」というファンの心理と、驚くほど酷似している。ファンは推しの素晴らしさを語る際、無意識のうちに自分の理想というフィルターを通している。
それはもはや「本人」の宣伝ではなく、「自分の中の推し」という偶像の展示である。
hideや尾崎豊の遺した歌詞や映像を、ファンは「聖典」として読み解く。しかし、本人がもう新しい言葉を紡げない以上、その解釈に「正解」を出す者は誰もいない。
だからこそ、ファンが「彼ならこう言うはずだ」「彼の苦しみは私のものと同じだ」という物語を無限に増殖させていくことが可能になる。
ここで考えなければならないのは、その行為が持つ「反社会的な危うさ」だ。本人の意思とは無関係に、物語が一人歩きを始めるからだ。
「私の推しはこんなことを言わない」
「これこそが彼(彼女)の本質だ」
という解釈の固定化は、生身の人間を物語の檻に閉じ込める行為に他ならない。愛が深まれば深まるほど、私たちは対象を「人間」から「アイコン」へと引き剥がしてしまうのだ。
5. 阿修羅の憂いと、加害性の自覚
では、私たちはどうすればいいのか。この「狂信」という名の暴走を防ぐ手段はあるのか。そのヒントは、私が愛してやまない「阿修羅像」の姿に隠されている。
阿修羅は本来、怒りに支配された戦闘の神であった。しかし、釈迦の教えに触れ、自分の「正義」が他者を傷つける「加害性」であることを自覚したとき、あの憂いを帯びた表情になった。あの顔は、後悔と、それでもなお仏に帰依しようとする「葛藤」の現れだ。
以前、私は取り返しのつかない重みを受け止めるための肉の厚みをテーマとした(魂の様式美)エッセイを書いた。
現代の信仰(推し活)において、この視点は極めて重要になる。宗教や推し活が「反社会的」になるのは、そこに「自分は正しい」という全能感が生まれるときだ。
対して、本物の「大人」は、自分の信仰が持つ暴力性を自覚している。
「私は推しを愛している。しかし、その愛で推しを、あるいは他者を傷つけてはいないか?」
この阿修羅的な葛藤こそが、信仰を「狂気」から「文化」へと踏みとどまらせる唯一のブレーキなのである。推しを神格化するのではなく、推しという鏡を通じて、自分の醜さや弱さを見つめ直すこと。それこそが、現代に生きる「大人」の推し活の様式美ではないだろうか。
6. 富野作品が描いた「理想という名の重力」
私が多大な影響を受けてきた富野由悠季監督の作品、例えば『機動戦士ガンダム』や『海のトリトン』が描き続けてきたのも、まさにこのテーマであった。ニュータイプという理想(神話)に縋らざるを得ない人間の弱さと、それでもなお「肉体」という重力を引きずって生きる人間のリアリズム。
シャア・アズナブルという男は、死後に「ネオ・ジオン」の総帥という神話に祭り上げられ、都合よく利用された。アムロ・レイもまた、伝説の英雄として人々の期待という重力に縛られ続けた。富野監督は、神話がいかに個人を疎外するかを、冷徹なまでのリアリズムで描き出した。
私たちは、神話を必要としている。
しかし、神話に飲み込まれてはならない。推しを神話化し、宗教化することは、私たちがこの不条理な世界で正気を保つための生存戦略だ。
だが、その神話が「生身の人間」を圧殺してはならない。キリストが神話にされることで数多の戦争が起きた歴史を、私たちは決して繰り返してはならないのである。
7. 結びに代えて:未完成の信仰を生きる
「順調に生きている人は大人になれない」
かつて私が記したこの言葉は、信仰の本質を突いている。順調なとき、神話は単なる娯楽に過ぎない。しかし、絶望し、立ち止まり、取り返しのつかない「痛み」を知ったとき、物語は初めて「宗教」としての血肉を帯びる。
あなたの推しは、現代のイエス・キリストか。
その答えは、あなたが「推しという物語」をいかに使うかにかかっている。
推しを、自分の欠落を埋めるための「都合の良い神」にするのか。それとも、推しが苦悩し、変化し、生き抜く姿を、共にこの重力圏を歩む「同志」として見守るのか。
真に「様式美」を解する大人とは、神話を信じながらも、その神話が孕む嘘や危うさを愛せる者である。
私たちは、今夜もペンライトを振り続けるだろう。しかし、その祈りの先にあるのが「無慈悲な神」ではなく、迷い、震えながらも立ち続ける「一人の人間」であることを、私たちは決して忘れてはならない。
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